自分を鍛える

テモテへの手紙一 4章6〜16節

 テモテは、ユダヤ人の母とギリシア人の父の家庭に生まれた人です。彼はキリスト者であった祖母ロイスと母エウニケの信仰を受け継いでキリストへの信仰を持つようになりました(テモテへの手紙二1章5節)。そしてパウロが二回目の伝道旅行でリストラを訪れた時に、そこの教会で大変評判の良かったテモテに会って、伝道旅行に同伴するようになったのです(使徒言行録16章1〜3節)。

 この手紙は、パウロがエフェソで主の福音のために働いていたテモテを励ますために送ったものです。
 たぶんテモテはこの時、40歳くらいであったろうと言われています。まだ若かったのですが、人々を教え、教会の大切な働きをする長老のような立場であったと考えられています。その教会に、惑わす霊や悪霊どもの教えに心を奪われて、信仰から脱落する者がいたり、偽りを語る者たちや偽教師の偽善によって、信じる者たちが惑わされていたのです。そのことを聞いたパウロがテモテにいろいろアドバイスしているのです。

「(6節)これらのことを兄弟たちに教えるならば、あなたは、信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。」パウロはテモテにキリスト・イエスの立派な奉仕者になってほしいと願いながら、これを書いているのです。「これらのこと」というのは、その直前に書いてある内容が含まれているのは確かですが、それだけに限定せず、この手紙全体を指していると取った方が良いようです。

 まず「(7節)俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。」と言っています。表面的には何か信仰的に見えるかもしれないけれども、キリストの教えとかけ離れた作り話は退けなさい、と言うのです。ここの「退けなさい」は「避けなさい」という大変強い拒絶を表しています。そしてそれだけではなく「信心のために自分を鍛えなさい。」と言っているのです。ここの「鍛える」は肉体の訓練や鍛錬のことを言います。練習に練習を重ねて自分の身体をある目的に向かって作り上げていくことです。パウロは自己鍛錬の大切さを語っているのです。

 今年の夏は、厳しい暑さの中、しかも新型コロナウイルス感染症がまん延する中を、オリンピック、パラリンピックが開催されました。新しい競技種目も加えられましたので本当にいろいろな競技がありましたが、全世界から多くのスポーツ選手たちが日本に集まりました。彼らはこの大会のために日夜苦しく辛い練習を積み重ねてきたのです。それは彼らの肉体が最高の状態でそれらの競技をするためです。スポーツの練習だけではありません。歌うことも楽器を演奏することも、バレエや日本舞踊を踊ることも、あるいは書道でも同様です。身体にしみ込むまで、身体が覚え込むまで、繰り返し繰り返し何度も何度も練習するのです。すぐれたピアニストは、その指が鍵盤の上を流れるように走り、実に素晴らしい演奏をなさいますが、これはすべて練習のたまものではないでしょうか。天才と言われる方であっても、毎日の練習があってこそ、心を打つ立派な演技や演奏ができるのだと思います。

 さて、ここで「鍛えなさい」と言われているのは、スポーツのためでも楽器演奏のためでもありません。「(7節)信心のため」です。信仰を持った者が神を畏れ、神を信頼して生きるためにということです。しかしながら信仰によって生きるということは、目に見えない領域のことですから、しばしば根拠のない神学論議に陥りかねません。この「信心」というのは、心も身体も自分の生活のすべてにおいて常に信仰が現実のものになっていることを言うのです。ただ単に心の中のことだけではありません。自分の手足が動くことにも、口に出てくる言葉にも信仰という血が流れるようになることが求められているのです。

 スポーツの練習でも、歌や楽器の練習でも、一番大切なのは、頭で分かっている理論を身体に覚え込ませること、つまり自分の身につくようにさせることだと思います。それがスムースにできれば問題ないわけですが、それが簡単にできないからこそ、繰り返し練習を積んで苦しく辛い訓練に耐えるのです。信心に向かって自分を訓練するというのもこれらと同じことです。信仰心が自然体で私たちの日常生活を形作るようになるように、そのために訓練に訓練を重ねなさいと勧めているのです。運動選手でも音楽家でも毎日コツコツと自己訓練に励んでいます。私たちの信心も同じなのです。私たちは信仰のために自分の訓練に励んでいるでしょうか。

 確かに身体の鍛錬は健康を増進し維持するために良いことです。神が与えてくださった身体を整えて健康を保つのは大切なことには違いありません。けれどもどんなに鍛えても人間の身体は年齢と共に弱っていきます。神の救いに与って、神に生かしていただき、神に導いていただく人生でなければ、身体がどんなに健康であっても空しいのです。ですから、パウロは「(8節)体の鍛練も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。」と、あなたがたキリストへの信仰を持った者には「この世と来るべき世での命が約束されている」のだから、信仰生活のために自分を鍛えること、すなわち霊的に鍛えることが大切だと説いているのです。運動競技等に対する身体の訓練は「この世の命」にしか有効ではありません。しかし、キリストを信じた者にとっては「この世の命」は違った意味を持ってきます。それは単なる肉体の命というだけでなく、約束された「来るべき世での命」の始まりであり、永遠に続くものだからです。

 先ほど、この手紙はパウロがテモテを教え励まそうとして書いた手紙だと言いましたが、これは二世紀頃に教会に起こっていた間違った考えを正し、真の信仰について教えるために書かれた文書だとも考えられているようです。当時、教会の外だけでなく、教会の中にも福音について間違った考え方が起こっていたのです。4章3節にありますように「結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりする。」ような人々が出てきたのです。こういう禁欲主義者は、人間に自然に備わっている欲望は精神的な純潔に反する汚れたものだという考え方を持っていました。ですから性欲を罪悪視したり、肉食を止めるよう勧めたりしていたようです。彼らは厳格な禁酒も主張しました。この世には汚らわしいものがたくさんありますから、彼らは、自分たちはそのような悪いことや悪いものとは関係ない、聖い生活をするのだと、それらに触れず、避けて暮らすことが善だと考えたのです。そういう考えから、次第に社会から離れていき、隠退の禁欲生活を生み出したのは当然かもしれません。

 しかし、パウロはこの後の5章23節では「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい。」とお酒を飲むことも勧めています。誤った禁欲主義者に対してパウロは言います。「(4節)神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。」「(5節)神の言葉と祈りによって聖なるものとされるのです。」パウロは神が造られたものはすべて良いものだと語っています。そしてそれらを感謝して受けるならば、何一つ無駄なものはないのだというのです。神の造られたものが良いものだとわかるのは、そのままで誰にでもわかるように現れるのではなく、それらを感謝をもって受け入れる時に、何一つ捨てるべきもののない、真に値打ちあるものとして生きてくるということです。

 つまりここでは、この世のすべてのものに対して感謝が求められているのです。「信心のために自分を鍛えなさい。」と言っているのは、すべてのことに感謝することができるように、自分を訓練することであるかもしれません。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケの信徒への手紙一5章16〜18節)キリスト者はあらゆることにおいて感謝する人間だとも言えます。それは神がなさることはすべてが益に変えられると信じているからです。

 私たちは毎日、食卓に向かう時には必ず感謝の言葉を口にします。「神様、この食べ物をくださってありがとうございます。アーメン」食べ物についてだけ感謝するのではありません。この方がいてくださることを、この夫やまたはこの妻がいることを、あるいはこの子どもがいることを、この仕事があることを一つひとつ感謝したいと思います。たとえどんな厄介な出来事が起きても、神の前でそれを感謝して受け入れることが求められているのです。

 私たちは「(5節)神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。」「神の言葉」とは、常にただイエス・キリストのことを語り、キリストを通して語られるものです。このすぐ前にある3章16節に語っている「信心の秘められた真理」を読むと良くわかります。「キリストは肉において現れ、霊において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」これはキリスト・イエスの御生涯ですが、このことによって、神の心、神の知恵が明らかになりました。この世に対する神の御心がわかったのです。それまでの人々には、こんな悲惨な世界が神が造られ神が愛された世界なのだろうか、という疑いが絶えずあったのだと思います。これは神が造られた良きものとは思えなかったのです。しかしイエス・キリストによって語られる神の言葉は、この世界もあなた自身も神によって造られ、神の手の中にあることを、そして私たちの真の人生を回復するために、神ご自身が労していてくださることを語り告げているのです。その言葉を信じて受け入れた時に、聖なるものにされているのです。

 10節にこう書いてあります。「わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです。」キリストはすべての人の救い主です。どんなにあさましくて醜くて、残虐なことをする人にとってもキリストは神であられます。その中でも何よりもこの私のような小さな汚れた者の神でいてくださることを感謝したいと思います。1章15節でパウロは自分のことをこう言っています。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。」

「罪人の中で最たる者」だと言うパウロに対しても救いをお与えになるお方がイエスなのです。この事実が私たちを支え、感謝する基です。ですから、私たちの見るところが美しいか醜いかということではないのです。私にとってこの人が自分にとって親切な人なのか、何か助けてくれる人であるのかが感謝を生むのではありません。この人のためにもイエスが救い主になってくださったという救いの完成が感謝の心を作っていくのです。感謝に向かって訓練するというのは、そのような意味から言うと、イエス・キリストに向かっていく訓練だと言ってもよいかもしれません。

 しかし、感謝するということは、ありのままの現実をただありがたく神の賜物として受け入れていくということだけではありません。いつの日かキリストにおいて神の義の現れを知り、生ける神に希望を置いている者は、むしろ感謝の心に生きていながら、かえって現実に戦いを始める強さをも持っているのです。そのためには絶えず神の言葉によって養われることが大切なことです。

「(6節)これらのことを兄弟たちに教えるならば」「(11節)これらのことを命じ、教えなさい。」「(13節)聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。」これらの言葉は、テモテが教会の指導者であったことから、「教わる」のではなく「教えなさい」と言われているのでしょうが、教会はすべての者が互いに教え合うことによって信仰が養われる所です。互いに教えるのです。キリストについて語り、その語った言葉でみんなが養われるのです。この言葉によって作り出される教会員同士の交わり、教会共同体こそが信心の訓練場所です。信心の訓練はひとりではできません。神に感謝し、キリストに向かって自分の心を開いていき、信仰が自分の血液になるほどに鍛錬する道は、みんなが共に生きるこの教会以外にはないのです。ただ口先だけではなく、心を合わせて共に神の前に生きていけますようにと願っております。

(牧師 常廣澄子)