死に至るまで

ヨハネの黙示録 2章8〜11節

 本日のみ言葉はヨハネの黙示録からです。黙示録といいますと、何か終末の恐ろしい有様が書かれたものを想像するかもしれませんが、1章1節には「イエス・キリストの黙示」と書いてあります。黙示というのは「啓示」とも訳され、隠されているものの覆いが取り除かれて現わにされることです。黙示録に書かれていることは、「(1:1)キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。」「(1:2)ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。」とあるように、イエス・キリストについて解き明かしている書物なのです。

 また、黙示録は著者ヨハネが教会に宛てて書いた手紙です。この手紙は礼拝で読まれました。「(1:3)この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちは幸いである。」黙示録は神を礼拝する教会で、神を仰ぎ、神の前にあって読まれる時に、神の言葉として語りかけてくるのです。私たちは礼拝で神の言葉を聞き、神の言葉に導かれて生活していく時に本当の幸いがあります。ここの「幸いである」というのは、イエスが山上の説教で語られた言葉と同じです。

 この黙示録が書かれたのは、ドミティアヌスがローマ皇帝であった時代と言われています。彼は皇帝を神として拝むことを強要し、キリストを信じる者たちを最も過酷に迫害しました。この黙示録の著者ヨハネも「(1:9)わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。」つまりキリストを宣べ伝えたが故にパトモス島に島流しになっていたのです。この時代の礼拝は命がけだったわけです。

 今、私たちは教会に来て、主の日の礼拝に与っています。そして黙示録の言葉を聞いています。これは二千年の歴史と距離を越えて、ヨハネがキリストによって黙示を与えられた日の礼拝につながっています。パトモス島に流されていたヨハネはきっとわずかな人たちと小さな礼拝をしていたことでしょう。その時、キリストがヨハネに語り掛け「(1:17〜18)わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。」と言われたのです。これはキリストが神と等しいことを示しています。

 そしてヨハネに、今見たこと聞いたことを巻物に書いて七つの教会に送りなさいと言いました。七つの教会とは、アジア州(今のトルコの西側)にあるエフェソ、スミルナ、ベルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会のことです。1章に「右手に七つの星を持ち」「七つの金の燭台の間におられる」と書かれていますが、キリストが教会をみ手の中に置いてくださり、教会の中におられるということです。つまり教会はキリストの守りの中にあるということなのです。七は完全を表す数ですから、すべての教会を表していると考えられます。私たちの教会もこれらにつながっているのです。

 2章から3章に書かれている七つの教会に宛てた手紙には、冒頭部分にどれも「わたしは知っている」という言葉があります。教会を愛し、見守っていてくださるキリストがすべてを知っていてくださるということです。また、どの手紙にもそれぞれの教会の欠点が指摘されています。あなたがたのこのところは良いけれども、どうもここに問題があるようだというように書いてあるのです。しかし七つの内二つの教会はそのような欠点が指摘されていません。その一つがスミルナの教会なのです。

 スミルナの教会は苦難と貧しさの中にありました。具体的には、自分はユダヤ人であるという者たちが教会を非難していたというのです。この人たちのことを「(9節)実は、彼らはユダヤ人ではなく、サタンの集いに属している者どもである。」と厳しく書いています。これは民族的にユダヤ人ではないということではありません。ユダヤ人という呼び名は、旧約以来の信仰を正当に受け継いでいる、つまり真の神を信じているイスラエルの民であるということを意味しています。ところがユダヤ人たちは当時の征服者ローマ帝国の権力に迎合していったのです。ユダヤ教はローマ帝国から宗教的な特権を得ていて、安息日を守ることとかある種の自治権もありました。ユダヤ人の中には市の有力者になる者も多くいて、ローマ帝国とそれなりの妥協や譲歩をしていたのです。

 キリストを信じる者たちは始めの頃はユダヤ人会堂に属していましたので、周囲のユダヤ人たちの行為を見聞きしていました。しかしそれに従うのを拒みました。その結果、彼らは会堂にいられなくなって個人の家や別の所に教会を作っていったのです。それでキリストを信じる者たちの教会はユダヤ人たちから非難されました。スミルナの教会はそのような困難の中にいたのです。ユダヤ人はローマと妥協してそれなりの地位を得て豊かでしたが、それを拒んだキリスト教会の人々は生きることさえ容易ではなく、とても貧しかったのです。

 そしてさらなる苦難もありました。ユダヤ人は教会の人たちをローマの役人に訴え出て牢に投げ込むことに協力したのです。ここではユダヤ人をサタンと呼び、牢に投げ込む人たちを悪魔と呼んでいます。この事態にあって「(10節)あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。」と言われています。このキリストの言葉どおり、牢に投げ込まれ殉教の死を遂げた信仰者がたくさんいました。苦難を恐れず信仰を守り通したのです。

 この黙示録が書かれてから60年ほど経った紀元155年に、スミルナ教会の監督(主任牧師)であったポリュカルポスという人が殉教の死を遂げたことが広く語り伝えられています。彼が立派な人物であることを知り、役人たちは彼を改宗させて助けようとしましたが、彼の心を変えることはできませんでした。死刑の執行官が刑の執行間際に最後のチャンスを与えようと「キリストを呪え、そうしたら助けよう」と声をかけると、ポリュカルポスは言いました。「私は86年間キリストに従い続けてきましたが、キリストはその間ただの一度も私に不幸をお与えにならず恵みのみを与えてくださいました。こんなにまで私を愛してくださるお方をどうして呪うことができましょう。」このように実に多くの人たちが殉教していったのです。

 私はここで、我が国にも立派な信仰者がいたことを思い出します。16世紀、豊臣秀吉の時代に禁教令が出されてキリシタンは迫害されていました。長崎市の西坂の丘に26聖人のレリーフがありますが、彼らはキリシタンであるという理由で捕らえられ、耳や鼻をそがれ、後ろ手に数珠つなぎに縛られて、通る道沿いの人たちの見せしめにされながら、京都から長崎まで約一千キロの道のりを歩かせられ、西坂で十字架刑になった人たちです。彼らは主を讃美しながら歩いたそうです。その中にルドヴィコ茨木というまだ幼い12歳の少年がいます。ルドヴィコはとても利発な少年でしたから、途中の唐津で出迎えた備前名護屋の半沢志摩守は少年に声をかけました。「信仰を捨てて私に仕えるなら助けてやる。」しかしルドヴィコは応えました。「すぐに終わってしまう短い命と永遠の命を交換するのは意味のないことです。」と。これはキリストを信じる者の勝利です。

 さて、スミルナの教会に主は言われました。「(10節)あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」いつまで続くかわからない苦難は耐えられませんが、十日(ダニエル書1:12〜15参照)という期限が限られていれば苦しくても耐え忍ぶことができるかもしれません。しかし十日の後には釈放ではなく死なのかもしれないのです。「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」とあります。ここで示されているのは、苦難からの解放ではなく、死を越えた先にある希望なのです。

 先週から本日まで「世界バプテスト祈祷週間」となっています。先週お話ししましたが、これは中国伝道に一生を捧げたロティ・ムーンの働きから始まった運動です。ロティ・ムーンは病気でアメリカに帰国途中、神戸の港に立ち寄った時に天に召されたのですが、彼女の墓には「死に至るまで忠実なる者」と書かれているそうです。忠実というのは真実と言う意味で、信頼を持ち続けるということです。死に至るまでキリストに信頼する時、主は命の冠を授けてくださいます。ロティの人生を象徴する素晴らしい御言葉だと思います。

「(11節)勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない。」ここに第二の死とありますが、第一の死は肉体の死で、すべての人は肉体の死を迎えます。しかしその先に第二の死があると聖書は告げています。霊における死と言っても良いかもしれません。私たちはやがて神の前に立ち、裁きを受ける時が来るのですが、その時、キリストの勝利に与る者は第二の死の害を受けないというのです。キリストが既に第二の死に打ち勝っておられるからです。この約束がありますから私たちは神の豊かさの中に、今日を生きることができるのです。

 しかし私たちにも苦難があります。貧しさがあります。労働の苦しさがあり、経済的な苦労があり、肉体的な辛さや病気の苦しみがあります。信仰を持つことにおいても家族の反対や社会制度との戦い等の苦難があります。教会にも苦難や貧しさがあります。礼拝に来られる方が少なくなってきて、子どもや若者がいないと将来に不安を抱きます。そのように自分たちの困難や貧しさを嘆く私たちにキリストは言われるのです。「(9節)本当はあなたは豊かなのだ。」と。

 これは「(9節)わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。」と言われる方がそう言われるのです。苦難や貧しさが無くなる所に豊かさがあるのではありません。苦難と貧しさの中に豊かさがあるのです。それは神に信頼すること、神のご支配の中にある豊かさです。キリストは私たちの苦難と貧しさを見ておられます。ですからすべてを神に委ねる時に神は豊かに働いてくださいます。神が共におられる人生ほど確かなものはありません。

 キリストは私たちと同じように肉体の死を死んでくださいました。そして死からよみがえり、死に勝利してくださいました。そのキリストが信じる者には命の冠を授けようと約束してくださっています。先に天に送った方々には命の冠が授けられていることを感謝したいと思います。そして私たちもこのお方に信頼してどこまでも「死に至るまでも」忠実に歩んで行きたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)