平和の道に導く方

ルカによる福音書 1章67〜80節

 クリスマスおめでとうございます。
 寒い中をようこそクリスマス・イブ礼拝においでくださいました。初めて教会においでになられた方、心から歓迎いたします。主イエスのご降誕を喜び祝うこの礼拝で、神の祝福が豊かにありますようにと願っております。

 いま、聖書朗読とピアノの音色で、世界で初めのクリスマス物語をたどってまいりましたように、およそ二千年前、星が美しく瞬く静かな夜、ベツレヘムの小さな家畜小屋で御子イエスは誕生されました。神の身分を捨てて、私たち人間の姿をとって、しかもいと小さく貧しいお姿で地上にお生まれくださったイエス様に、また御子イエスを送ってくださった神の尊い御愛に心から感謝したいと思います。

 神の御子イエスの誕生については、皆さまがたはもう何度も耳にしたことがあると思います。まず母となる乙女マリアのところに天使が現れて、「あなたは身ごもって男の子を産む」ということが伝えられました。続いて夫となるヨセフにも、夢を通して「安心してマリアを妻として迎えるように」と神の御心が伝えられました。マリアはその時の気持ちを歌に託して神を賛美しています。それは「マリアの賛歌(マグニフィカ―ト)」と言われていて、本日お読みした聖書箇所の少し前にあります。

 今夜お読みいただいた聖書個所は、マリアの賛歌に続いて「ザカリアの賛歌」と言われているところです。これは「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」という言葉で始まります。この最初の言葉「ほめたたえよ」という言葉がラテン語でベネディクトゥスと言いますので、このザカリアの賛歌は「ベネディクトゥス」という題で歌われるようになりました。

「マリアの賛歌」にも「ザカリアの賛歌」にも、旧約聖書に書かれている約束の言葉がたくさん入っています。このザカリアの賛歌には、神の民として選ばれたイスラエル民族の長い間の悩みや苦しみを知っておられる神が、その祈りや願いを聞き、彼らと結んだ契約の故に民を敵から解放することが歌われています。しかしこの約束はただイスラエルの民だけに関係していることではありません。今私たちが生きているこの時代、様々な争いの中に生きている私たちが、平和な世界を求める願いもまたここに込められていて、そのためにこそ御子イエスが来られたのだと歌っているのです。ザカリアはこの賛歌で、人間世界に神が訪れてくださること、つまり救い主が遣わされるという神の計画を預言し、その御業を讃えているのです。これがクリスマスの出来事の中心にあることです。

 賛歌の後半(76〜77節、80節)部分は、ザカリアの子どもである幼子ヨハネに向かって、彼の使命について預言しています。それはこのヨハネが、「いと高き方(つまり神の御子イエス)の預言者」と呼ばれ、イエスに先立ってその道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせる人間となるということです。当時の人たちが考えていたようなローマの支配からの政治的な解放ではなく、罪の暗闇からの霊的な開放を知らせることでした。しかし、この「罪の赦しによる救い」はヨハネにできることではありません。この後に生まれてくるイエスがもたらしてくださるものです。

 はじめに少し、ここに至るまでの経緯をお話ししておきたいと思います。1章5-25節に書かれていることです。まず、ザカリアという人は神殿の祭司でした。その妻はエリザベトと言って、この夫婦は神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころがなかったと言われています。しかし彼らには子どもが無くて二人とも既に年をとっていました。そのザカリアが神殿で香をたく御用をしている時に、主の天使が現れて、あなたの妻エリザベトは男の子を生む、その子をヨハネと名付けなさい、彼は主のみ前に偉大な人になるのだと語ったのです。しかし、ザカリアはその神の言葉をそのまま信じることができませんでした。そのために、子どもが生まれて来るまで口が利けなくなってしまったのです。彼はただ沈黙の中でその時が来るのを待っていました。妻のお腹が大きくなっていくのを見て、主の天使が伝えたことが実現されていくことに驚き、かつ畏れの心を抱いて過ごしていたと思います。またエリザベトを前にもまして大事にしたことと思います。このエリザベトはマリアの親戚でもありましたので、お腹にイエス様を宿したマリアがこの時期、エリザベトを訪問しています(1章39〜45節参照)。神の不思議な力で子を宿した二人が出会う場面は美しい絵画にもなっています。

 さて月が満ちてエリザベトは男の子を生みました。でも皆が喜んでいるのを見ても、まだザカリアは口が利けませんでした。ユダヤの国では男の子が生まれますと、八日目にその子の性器に傷をつけて(割礼という儀式)そこで初めて命名したようです。当時の習慣では、男の子が生まれると、できるだけ父親や祖父の名前を付けましたので、周囲の人たちは生まれてきた子もザカリアであると考えていました。しかし、母であるエリザベトが「名はヨハネとしなければなりません。」(1章60節)と言い張ったので人々は驚きました。日頃は穏やかで従順なエリザベトが断固たる態度をとったからです。そんなことは普通考えられませんでしたから、口のきけない夫のザカリアにも尋ねてみようと、板をもって来させて書いてもらうと、近所の人々や親せきの人たちの前で「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚きました。するとその時たちまちザカリアの舌が解かれて神を賛美し始めました。それがこの「ザカリアの賛美」です。

 ザカリアは自分たち夫婦に起こった神の力とその御業を見て、神がこの世界を支配しておられることを認め、心から信じざるを得ませんでした。ザカリアは、話すことができずにいた沈黙の期間に、神の圧倒的な力を感じ、魂の底から神への畏敬の念がわいてきたのではないでしょうか。まさに沈黙することによって人間の霊が神の御霊に触れて清められていったのです。沈黙の中でザカリアは魂を注ぎだして神と対話していたのです。ですからザカリアの賛美は祈りでもあります。ザカリアは神への信仰を喜び、感謝し、讃美せざるを得なかったのです。

 このザカリアの賛歌は「(68〜70節)ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。」というように、まず神への感謝と讃美から始まり、「主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。」と、救い主イエスの誕生を預言しています。「主はその民を訪れて」とありますように、主なる神が天から地上の人間のところに来られるという預言です。「救いの角」というのは、角は力の象徴ですから、救いをもたらす力、救い主のことです。その力あるお方はダビデの家(家系)から出ると預言しているのですが、確かにマリアの夫ヨセフはダビデの家系に属していました。

 ザカリアは、イスラエルの民が敵から解放されるということを、神が偉大な祖先であるアブラハムとの間に結んだ契約を思い起こして語っています。「(72〜75節)主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。」主なる神は、ご自分の民を憐れみ、慈しんでおられる。だから敵の手から救い出して、主に仕えるように導くのだと歌っているのです。敵の手から救い出すというのは、ただ敵から解放されるということだけではありません。もっと積極的な意味を持っています。罪を離れ、神のみ前で清く正しく生きて、主に仕えるようになるのだというのです。ここでの主に仕えるというのは、主を礼拝して生きるということです。

 ご自分の民を慈しみ、敵の手から解放して救い出し、主に仕えて生きるように導かれるお方こそ、主なる神の御子イエスです。ザカリアの子ヨハネは、イエスに先だって、イエスの前に道を備える働きをしましたが、ヨルダン川で人々に悔い改めのバプテスマを施していた時、近づいて来られたイエスを見てヨハネは言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(ヨハネによる福音書1章29節)

「神の小羊」であるイエスは、私たち人間を憐れむ神のみ心によって、この世に降って来られました。「(78〜79節)これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」あけぼのの光(あしたの光)として私たちの所に来られた救い主イエスは、暗黒と死の陰の中にいる私たちを照らし、私たちを平和の道に導いてくださるお方です。これは、罪の暗闇の中にいる私たち人間の中に、救い主メシアが義の太陽のように現れるのだということです。そしてそのような驚くべき光が来た時には、不安や心配の黒雲は消し去られてしまいます。そこに平和が訪れるからです。主なる神が共におられる歩みにはいつも平安が伴うのです。そしてイエスがもたらす平和は、罪の赦しを信じるところから始まります。それが本当の平和を作りだす生きた力となるのです。すべての人は、この罪の赦しを受けて救われる以外に、神の前にある人間として本当に安らかに生きる道はありません。その救いの恵みは、まずクリスマスに始まったのです。このことを心から褒めたたえているのがザカリアの賛歌です。

 クリスマスに歌う讃美歌に「きよしこの夜」という有名な曲があります。これはもともとの詩は6節まであって、その背景には戦争があります。作詞者はオーストリアのオーベンドルフにある教会の助祭ヨゼフ・モールですが、彼の父は兵隊で、母はザルツブルクのお針子という貧しい家庭に生まれ育ちました。彼は旧約聖書の中のあちこちに何度も約束されている平和が実現したのがこのクリスマスであると歌っているのです。つまりこの讃美歌は「平和の賛歌」なのです。そして、その3節の歌詞には「きよしこの夜 御子の笑みに 恵みの御代の あしたの光 輝けり ほがらかに」とあり、「あした(朝)の光」という言葉が出てまいります。これは「あけぼのの光」の文語訳です。人が生きていく時には、辛く苦しいことも起こります。まるで夜の暗闇の中にいるかのような時に、この「あけぼのの光が我らを訪れる」(文語訳では「あしたの光 上より臨み」)というみ言葉によって慰められ、励まされます。ザカリアの賛歌にはそのような力があります。このように深い意味が込められているザカリアの預言の言葉を感謝して味わいたいと思います。

 最後になりますが、今世界を覆っている新型コロナウイルスのパンデミックは、人類と社会に大きな苦難や分断をもたらし、近代以降、私たち人間が開発と発展によって追い求めてきた物質文明の豊かさや便利さのありかたに、深い問いを投げかけています。ウイルスから人間の命や社会を守ると同時に、私たち人間はこれまでの価値観や考え方を問い直さなければならない時に来ているのです。

 使徒言行録17章25節には「すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」とあります。神は私たち人間に、国や民族の違いを超え、思想や信条の壁を破り、すべての人の命や存在を尊び、互いに支えあいながら生きるようにと願っておられます。今のこの時も、世界の各地には、争いの犠牲となって亡くなられた方、飢えている方、寒さに震えている方、傷を負って痛んでおられる方がたくさんおられます。「地に平和がありますように」という願いは、クリスマスの大切なテーマであるのです。このクリスマスの時、お一人おひとりが、イザヤが「平和の君」と呼んだお方、「我らの歩みを平和の道に導くお方」をその心にお迎えすることができますように、そしてその心に主の平和が訪れ、この世界に神が喜ばれる本当の平和が訪れますようにと心から祈り願っております。

(牧師 常廣澄子)