敵を愛しなさい

ルカによる福音書 6章27~36節

 2022年が明け、第二週の主日礼拝です。どうかこの年が皆さまにとって、またすべての人にとって、素晴らしい年になりますようにと願って止みません。
 本日も早速、ルカによる福音書からのメッセージを皆さんとご一緒に聞いて参りましょう。本日箇所(表題箇所)は、ルカ福音書においていわゆる“平地の教え”の二段落目の教えの箇所です。

 27節をご覧いただきますと、冒頭は「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく」と始まりますが、この文脈は、“とは言うけれど”、という意味合いで、前の段落を受けつつも、一旦それを保留しながら、本日箇所の教えに入ろうとしています。ではここで、勧めの言葉を伝えようとしている「あなたがた」とは誰のことでしょうか。それは、主イエスさまが、開口一番、目を上げ語りかけた弟子たちであり、今は貧しくされ、また、飢えを覚えている人々、そして悲しみの中に置かれている人々のことです。しかし、「あなたがたは『幸い』だ、なぜなら、あなたがたが『その日』、すなわち御国に招かれるとき、また、この世においても、神のご支配の中に招かれるとき、幸いな者とされる。」という祝福の言葉をいただいている人々のことです。

 以上、神の祝福の言葉をすでに頂いている、あなたがたではあるけれど“しかし”、として本日箇所の教えへと繋がってきます。
 では早速、本日箇所の27節28節に入ります、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」と立て続けに厳しい教えが並んでいます。この箇所を、わたしが初めて読んだとき、思いました「とても、この教えの通りに、わたしはできない」とです。皆さんはいかがでしょうか。
 しかし、その、「あなたがたにとって敵」であり、「あなたがたを憎み」「悪口を言い」、そして「侮辱する」、人々をも受け入れ、愛し、親切にし、さらに、神の祝福を祈りなさい、とイエスさまは仰っています。

 この27節、28節の勧めの言葉で、イエスさまが言われようとしている、その言葉の奥にある意味をさらに汲み取っていきたいと思います。「わたしに従っていながらも、いま、現実のこの世では、貧しくされ、飢え渇き、また悲しみを背負って生きている。しかしながら、あなたがたは、約束された『その日』には、“幸いなる者”として御国に迎え入れられる。 とはいっても、この世で生きている間も、さらに、あなたがたに敵対してくる人がおり、またあなたがたを憎む者、悪口を言ってくる者、また、侮辱する者がいる。それは、あなたがたが、このわたし(イエス)を信じるがゆえに、ユダヤ教の人々からは敵視され、会堂を追われ、そして苦難を余儀なくされながら生きている、また、異邦人や、ローマの支配者からも同様である。でも、わたしの弟子として、生きているあなたがたには、すでに、父なる神がおられ、そして、“人の子”としていま世にきている、このわたし(イエスさまご自身のこと)が、いつもあなたがたと一緒にいるではありませんか。安心してこのわたしに従ってきなさい。そして、あなたがたは、敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にし、悪口を言い、また侮辱する者への祝福を祈りなさい。」
 このことを弟子たちに伝えたかったのです。

 そして、イエスさまが弟子たちに言われている、“敵を愛する”の「愛」とは、アガペーの愛にほかなりません。アガペーの愛は、イエス・キリストが、そのご生涯をかけて現わされた愛であり、十字架においてそれを完成された“自己犠牲的愛”、そして“公平無私の愛”です。
 その愛について、聖書から証言の言葉を見ていきましょう。ローマの信徒への手紙、5章8節「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示された。」(使徒パウロの証言)。もう一か所、ヨハネによる福音書13章34節、35節から「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」これはイエスさまが弟子たちに足を洗った後での、弟子たちへの勧めの言葉です。

 以上のことを思いながら、この27節、28節を読むとき、イエスさまの真意がよく伝わってきます。今日の社会に目を向けますと「敵を愛する」愛とは程遠く、人と人、また国と国が敵対し、争い、いがみ合いが絶えません。そして現実の日常においても、痛ましい事件が絶えません。そのような中にも、キリストの愛を伝えていくのが、わたしたちキリスト者の役割です。そのただ中にも、イエスさまが伴っていてくださることを覚えていたいと思います。

 次の29節30節について、「あなたがたの頬を打つ者には、もう一方の頬を向けなさい。上着を奪い取る者には、下着を拒んではならない。求める者には、誰にでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。」この言葉は、自分の身に直接に降りかかってくる他者からの危害をも受け入れなさいという、セルフ・ギビング、と言われている愛、“無私の愛”です。これは、自分を他者に与え尽くす愛であり、先のアガペーの愛に通じるものです。
 ルカ福音書10章、お馴染みの“善いサマリヤ人”の教えを思い出します。「ユダヤ人にとって、歴史的にも敵対関係にあった、サマリヤ人を自分のように愛しなさい。」との教えです。これは、日ごろ何かとイエスさまに言いがかりをつけてきた、律法学者に対する諭の言葉でした。

 つぎは31節です「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」これは、「黄金律」(ゴールデン・ルール)と言われる言葉で、道徳的教えの要(かなめ)となる教えです。因みに、日本語の諺にも、「人のふり見て我がふり直せ」というのがあります。

 32節~34節に入ります。ここは先の31節の教えを挟んで、イエスさまのこれまでの教えに反した思いを抱き、また行動に出しそうな人々への教えであり、いわば“反面教師”的な戒めです。32節「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。」と続いています。

 また33節以下には、「自分によくしてくれる人に善いことをしたところで」、「返してもらうことを当てにして貸したところで」と、三つの譬えを用い、その都度「罪びとでも同じことをしている」、と結んでいます。これらはいずれも、この世的な損得勘定で結ばれている、人と人の関係であり、また、陥りやすい落とし穴でもあります。これらは、“ギブ・アンド・テイク”の考え方であって、アガペーの愛とは、程遠いものです。

 そして、35節、36節は、いよいよこの箇所の結びへと入って参ります。35節、「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。」(と、冒頭の言葉を再度繰り返した後)「人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも情け深いからである。」
 ではここで、ルカ福音書のこの箇所から、マーチン・ルーサー・キング牧師が説教された、「汝の敵を愛せよ」との説教の要約をご紹介したいと存じます。

•憎しみに対して憎しみをもって報いることは、その憎しみを増すのであり、すでに星のない夜に、なおも、深い暗黒を加えることだ。暗黒をもっては、暗黒を駆逐できず、ただ、光だけが、すなわち、「愛」だけが暗黒を除き得る。
•憎しみは、憎む人、憎まれる人の魂に傷跡を残し、人格を歪め、切り裂き、醜い結果を招き、さらに、人間の価値感覚や人間の客観性を破壊してしまう。美しいものを醜くし、醜いものを美しく思わせてしまう。その一方で、愛だけが、驚くべき容赦ない仕方で、人格と人格を結合させるのである。
•愛は、敵を友に変える、唯一の力である。憎しみをもって、憎しみに立ち向かうことによっては、絶対に敵を除くことはできない。すなわち、憎しみは破壊と分裂をもたらし、愛は、創造、建設、贖罪の力をもって、人を造り変える。

 しかし、これさえも「なぜ、我々は、自分の敵を愛すべきか」という究極的な答えにはならない。「天にいます、あなたがたの父の子となるために、つまり、神との関係を実現させるために、わたしは(キング牧師ご自身のこと)この仕事に召されているのです。」
 以上が、キング牧師の説教の要約です。

 聖書に戻りまして、この箇所での主イエスさまの結びの言葉、それは36節、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」の勧めの言葉です。

 最後は、主イエスさまが、十字架上で言われた、人々への赦しの言葉、ルカによる福音書、23章34節aからです。「そのときイエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」と、ご自分を十字架へと導いた人々への赦しを、父なる神に願い、祈られました。

 イエス・キリストは、神の独り子として、この世に来られ、お言葉をもって神の愛を説き、身をもって、人々に神の愛を示され、そして最後は十字架上で、未だ神を知らない人々への赦しを神に願い求めながら、祈ってくださったのです。その神を信じ、イエスさを信じている、わたしたちは、少しずつでもその愛に近づいていきたいと願っております。

(牧師 永田邦夫)