ヨハネの黙示録 1章9〜20節
このところ新型コロナウイルス感染状況が大変厳しいですが、本日も主の日の礼拝に集い、ご一緒にみ言葉に与れますことを感謝いたします。本日はヨハネの黙示録からです。「(9節)わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。」パトモス島はエーゲ海に浮かぶ小さな島(エフェソの西方、サモス島の南48キロメートル、島の周囲24キロメートル)です。ヨハネは真の神の御子イエスによる救いを信じる信仰の故に捕えられ、今パトモス島に流されてこの言葉を書いているのです。
当時はドミティアヌスが皇帝崇拝を強要し、キリストを信じる者たちはいろいろな面で迫害を受けました。敢然とそれに立ち向かった者たちは当然処罰されたり、殉教したりしたのです。そういう厳しい状況の中で、ヨハネは、「(9節)わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。」と自己紹介しています。まず、自分は、アジアの諸教会にいる主を信じる者たちの仲間であり兄弟であることを言い表し、苦しみの中で忍耐しているのはわたしもあなた方と同じですと言っているのです。「その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである」というところは、「私ヨハネは、主を信じるがゆえに今苦難を受けています。しかしそれは主イエスのお苦しみの一端に与かっていることであり、私は神のご支配の中にいます。私はイエスによって備えられた神の国の民としていただいたことを喜び、その希望によって今ここで忍耐をもって過ごしているのです。」ということではないでしょうか。
さて、パトモス島でのヨハネは、きっとわずかな人たちと共に小さな礼拝を守っていたのでしょう。ヨハネは主の日の礼拝で、ある幻を見ました。「(10節)ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。」紀元一世紀の終わり頃には、主の日が週の初めの日、つまり一週間の最初の日として決まっていたようです。ヨハネは霊に満たされて主を礼拝していたのです。すると後ろの方でラッパのように響く大声を聞きました。「(11節)その声はこう言った。『あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ。』」
ヨハネは今見ていることを巻物に書いて、七つの教会に送るようにと命じられました。七は完全数ですから、ここに挙げられている七つの教会だけではなくすべての教会を表しています。これは二千年前の出来事ですが、時間と空間を越えて今の私たちの礼拝にもつながっています。この世にあって主にある信仰を持っている者は皆同じ仲間なのです。今朝私たちがこの礼拝堂でお捧げしているこの礼拝も、世界中で持たれている礼拝も全部つながっています。そしてこの礼拝は天上の礼拝につながっているのです。すべての教会は唯一の真の神を礼拝しており、神の言葉を聞いているからです。私たちは神の聖なる教会の一員として今礼拝を捧げているのです。
ヨハネは、「後ろの方でラッパのように響く大声」を聞きました。それでその声の主を見ようと、後ろを振り向きました。「(12節)わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。」ヨハネは声の主に近づこうとしたのです。顔と顔とを合わせることをためらいませんでした。信仰というのはこのように、神と出会うことです。私は罪深いから後ろの方にいるだけで良いのですというのは、一見謙遜な姿に思えるかもしれませんが、神との関係では間違っています。神の前では自分を飾る必要等ありません。自然体のありのままの姿で神のみ前に出ること、それが信仰だと思います。
後ろを振り向いた時、ヨハネはこの声の主の栄光の姿を見ました。「(12〜16節)振り向くと、七つの金の燭台が見え、燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであった。右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」
ヨハネに語りかけた声は「ラッパのように響く大声」でしたが、ここではさらに「大水のとどろくような声」だったと書いてあります。「そんなこと私は聞かなかった、そんなことは聞こえなかった」等とは言わせないような大声だったのです。私たちは神が語る声をしっかり聞かねばなりません。それから、七つの金の燭台が見え、その燭台の中央には人の子のような方がおられました。「人の子のような方」とはキリストのことです。ここに書かれているそのお姿は、旧約聖書の預言者たちが描いた幻(ダニエル書7章9節、10章5〜6節等)に出て来る、全世界を支配する全能の神の姿によく似ています。
足まで届く長い衣を着ているのは、威厳ある大祭司のしるしです。私たち人間と神との間にあって、大切な役割を果たされる大祭司のことです。胸に締めている金の帯は王が身に着けているものです。白い色は天の輝きを表しています。これらはすべてキリストの天にある尊厳あるお姿を表しています。「人の子」であるキリストは、祭司にして王であり、大いなる主権者であられるということです。たしかにキリストは地上にあっては十字架で処刑されたみじめな敗北者でした。しかし人間のすべての罪の贖いを完成してくださった主キリストは天では栄光に輝くお方なのです。
この場面からは、イエスの山上での変貌の場面を思い起こします。イエスがペトロとヤコブ、ヨハネの三人を連れて高い山に登られた時、イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔が太陽のように輝き、衣は光のように白くなったのです(マタイによる福音書17章参照)。そしてその時、「これはわたしの愛する子、わたしの心の適う者。これに聞け」という天から声がありました。イエスが天上の栄光を表された瞬間でした。
また、そのお方は右手に七つの星を持っておられました。これは教会がキリストの御手の中にあるということ、キリストがすべての教会をその力強い守りの中で支え励ましていてくださるということです。そしてその方の口には鋭い両刃の剣が出ていました。これはキリストが語る言葉によって人々が裁かれることを表しています。ヘブライ人への手紙4章12節には「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」エフェソ書6章17節には「霊の剣、すなわち神の言葉」と書かれています。これらのみ言葉が語っていることは、人間がどんなに表面的に取り繕っても、両刃の剣である神の言葉はそれを見抜くのだということです。
このような天の威厳に満ちたキリストの姿を見たヨハネは、その足元に倒れて死んだようになってしまいました。「(17節)わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。」するとその方は、右手をわたしの上に置いて「恐れるな」と言われたのです。考えてみると、私たちが倒れてしまった時、キリストはいつでもこのように私たちに御手を置いて「恐れなくてよい」と言って助け起こしてご自分を示され、これからなすべきことを示してくださいます。私たちは今までに何度このように助け起こされたことでしょうか。
このヨハネの出来事でわかるように、罪と汚れに満ちた人間は、聖なるお方、栄光に輝く神のお姿をまともに見ることはできないのです。モーセは燃える柴の前で聖なる神に近づけずにいました。ペトロは船が沈むほどに魚でいっぱいになった時、その大いなる力と恐るべき大能の業を前にして「主よ、私から離れてください」と言わざるを得ませんでした。しかし主なる神は、倒れて死人のようになったヨハネに対して、「恐れるな」と手を取って起こしてくださったのです。なんと感謝な事でしょうか。人を人とも思わないような尊大で傲慢な人が多くなり、神の前にあってさえ恐れ謹んで頭を下げることを知らない人が増えていますが、私たちもまた自分自身の姿を顧みたいと思います。人に対しておどおどしたり、ぺこぺこしたりして、本来恐れる必要のないものを恐れたりせず、本当に恐れるべき方を恐れる者でありたいと願います。
それから「(17節)わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。」と言われ、ご自分が何者であるかを示されました。キリストは最初の者であり最後の者であられるお方です。8節では「わたしはアルファであり、オメガである。」と言われましたが、言葉を変えて同じことを言い表しているのです。これが黙示録のキーワードかもしれません。「一度は死んだが世々限りなく生きている」というのは、十字架で死なれたキリストが神と等しいことを示しています。このように黙示録ではキリストと神が区別されずに使われています。キリストは神です。
キリストは今のこの時も、私たち神の民の只中におられます。キリストは教会を通して一人ひとりに関わってその救いの御業を成し続けておられます。キリストは今も生きて働いておられるのです。そのお方は昔からいまし、やがて来たるべきお方でもあります。キリストは私たちが生きているこの時間の流れという歴史の最初におられ、最後にもおられるのです。今という時の流れはすべてキリストの御手の中におさめられているということです。私たちの人生も同様です。私たちの命の始めも終わりもキリストの御手の中にあるのです。
このキリストは復活の主です。今生きておられるお方です。死を装ったのではなく、事実一度死なれたお方です。キリストの十字架の死は完全な死でした。キリストが死んで陰府にまで行ってくださったことは本当に私たちの慰めです。はるか高いところで眺めておられるだけのお方ではないのです。私たちの死の現実を味わってくださり、そこから復活してくださったお方ですから、そこに私たちの希望があります。キリストは死から復活して「世々限りなく生きておられる」のです。従ってキリストは死と陰府の鍵を持つお方なのです。鍵を持っているということは、そこへの出入りに関して裁量する権利を持っておられるということです。死に勝利されたからです。死はもはや人間を閉じ込めておくことができなくなりました。私たちもまた復活の命に与ることができるということです。人間社会では今も死が絶対的な力を持っていますが、私たち主を信じる者には復活の希望が与えられているのです。私たちはその希望に生きるのです。
それから「(19〜20節)さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。あなたは、わたしの右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、それらの秘められた意味はこうだ。七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である。」と言われました。信仰は自分ひとりの心の中にあれば良いというのではありません。苦難の時代に生きる人々を励まし、これらの希望の言葉を人々に語り伝えるために、ヨハネはきちんと書き留め、伝達し、証しするように命じられたのです。
信仰の歩みは、苦難から遠ざけられる歩みではありません。苦難があってもその中でなお支えられ導かれる歩みです。なぜなら主はすべてのことの初めであり、終わりであられる生けるお方だからです。このヨハネの黙示録は終末について書かれている書物であることは確かです。滅びを語る言葉がたくさん出てきます。しかし滅びで終わるのではありません。滅びを突き抜けたキリストの勝利が語られているのです。その言葉は希望に満ち、望みに開かれていることを忘れてはならないと思います。一度は死んだが世々限りなく生きておられるお方、死と陰府の鍵を持っておられるキリストの勝利がどのようなものかを、これからもみ言葉を通して豊かに教えられていきたいと願っております。
(牧師 常廣澄子)