ルカによる福音書 7章1~10節
長く続くコロナ禍で、新規感染者数が減らない中、「まん延防止等重点措置」が延長されています。また今、世界中の人々の心を痛めている大きな問題は、ロシアによるウクライナ侵攻です。一日も早くこの侵略が、争いが終結し、平和を取り戻すことができますように願っております。
本日も、ルカによる福音書からのメッセージをご一緒に聞いて参りましょう。7章1節に「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。」とあります。このカファルナウムは、イエスさまが故郷ナザレから場所を移し、そこで数々の説教をされた場所です。さらにその後イエスさまは、山に行き十二使徒選びをし、続いて、“平地に下りての説教”がありました。「幸いと不幸」、「愛敵の教え」、「人を裁くな」等々でした。
本日箇所、1節には、主イエスさまが、弟子たちは勿論、自分に従って来た民衆に向かって、これらの言葉、すべてを話し終えてから、当地カファルナウムに来られたことが記されています。
次は2節、3節「ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。」とあります。ここには、異邦人である百人隊長、そしてユダヤ人の長老たち(“長老たち”の表現から、遣わされた長老は一人ではなく、複数いたのです。)が突然でてきますので、この人たちについてまず見ておきましょう。
当時、パレスチナはローマの支配下にありまして、ローマの兵役制度が敷かれていました。その軍隊のトップには、隊長である千人隊長がおり、その下に、中隊長として、百人隊長がいました。その百人隊長は、言葉が示すように、百人の兵士を統率していました。そして、その百人隊長は兵役のほかにも、大切な役割を担っていたとも言われます。新約聖書には、イエスさまの時代からその後のパウロなど使徒時代をも含めて、5人の百人隊長が出てきます。何れも重要な、そして印象的な働きをしています。
次は、百人隊長に頼まれて、イエスさまの許に遣わされた「ユダヤ人の長老たち」のことです。当時の「長老」は、教会の中で重要な役割を担っていた人のほか、ユダヤ人の議会(「サンヘドリン」と言われる中央議会や、地方議会もあった)にも「長老」と呼ばれる人たちがいました。この箇所で、百人隊長が用いた“ユダヤ人の長老たち”とは、どちらだったのかよく分かりませんが、いずれにしても、百人隊長にとっては、普段から親しい関係にあり、気軽にものを頼める関係にあったことは確かです。
次の4節、5節、長老たちはイエスさまのもとに来て、熱心に願った。『あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。』と懇願しています。遣わされた長老たちによる証言から、百人隊長の“人となり”を整理してみますと、①「イエスさまから、癒しを受けるのにふさわしい人であったこと。」、②「部下は勿論のこと、日頃からユダヤ人を愛していたこと。」③「ユダヤ人のために会堂を建ててくれたこと。」(これは、献金を通しての会堂建築への貢献、という意味でしょう。)等々です。
これら、長老たちからの証言を聞いた主イエスさまは、すぐさま“腰を上げた”ことでしょう。6節「そこで、イエスは一緒に出かけられた。ところが、その家からほど遠からぬ所まで来たとき、百人隊長は友達を使いにやって言わせた、『主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。』と、イエスさまに告げさせています。
この百人隊長は、どうしたのでしょうか、途中で気が変わってのことでしょうか? 否否、決してそんなことではありません。百人隊長は、自ら出向いてではないにしろ、先ほどからイエスさまに対して自分が起こしている行動を具(つぶさ)に反省し、そして、考え直したことでしょう。「自分はイエスさまを自分の家にお招きするような者ではない、また、そのような立場の者でもない。」とです。
ここでペトロのことを思い出します。もと漁師であった、シモン・ペトロが前日の漁を巡って、イエスさまとのやり取りがあった後、ペトロは思いを改め、「イエスの足もとにひれ伏して『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です。』」(ルカによる福音書5章8節)と、主の前で罪を告白したペトロの気持ちと重なってきます。7節に戻り「ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そしてわたしの僕をいやしてください。」と告げさせています。前半の謙遜な言葉はよくわかります。しかし後半の言葉、「ひと言おっしゃってください。」については、さらに理解を深めたいと思います。
ここでのポイントは、主イエスさまのみ言葉の力と権威です。そして、イエスさまのみ言葉は、父なる神のみ言(ことば)と重なってきます。神はみ言をもって天地を創造されました。「神は言われた。『光あれ』こうして、光があった。」(創世記1章3節)。また、アブラハムは行き先を告げられないまま、神の言葉に従って、故郷カルデヤのウルを出発しました(創世記11章31節、12章1節)。主イエスさまは、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたとき、天からの声「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」を聞きました。
聖書本日箇所に戻りまして、7節b、百人隊長の使いの者を通しての言葉「ひと言おっしゃってください。そしてわたしの僕をいやしてください。」このとき百人隊長は、(前述の神の言葉同様に)主イエスさまのお言葉に対して、全幅の信頼を寄せていたのです。
さらに“言葉が持つ力と権威”について、百人隊長は、イエスさまに、以下のことを言うのさえ憚(はばか)りがあったかも知れませんが、敢えて言っています。彼は兵役で、部下に対して日ごろ持っている権威と力を例に挙げ、8節に「わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」とあります。
このことを聞かれたイエスさまは、従って来ている群衆の方を向いて言われました。9節b「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」とです。
後半は、主イエスさまが(百人隊長からの使いの)長老たちと共に、また、これに群衆も加わっての出立でした。そして途中まで来たところ、百人隊長は、更に追っかけるように友人たちを使いに出し、すでに家の近くまで来ているイエスさまに伝言を伝えさせました。そして、これ以上もう、お出でいただかないで結構です。とても自分はイエスさまを自分の屋根の下にお迎えできるようなものではありません。ただ、イエスさまから、僕に対する癒しのみ言葉だけをいただきたくお願いします。ということでした。これを聞かれたイエスさまが、後ろを振り返り、言われた言葉が、先の9節の言葉でした。
そしてこの出来事の顛末(てんまつ)が10節に記され「使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。」と簡潔に記されています。皆で拍手喝采、そのときを祝ったことでしょう。
この箇所の出来事は、異邦人である百人隊長の、日頃からすでに持っていた彼の信仰心と、今までの振る舞い、気遣い、そして、言葉遣い等、一切に対し、主イエスさまは「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない。」のお言葉となりました。そして彼が愛して止まない僕の病気の危機状態が救われ、日ごろの元気を取り戻した出来事でした。
また、以上の出来事は、主イエスさまの福音が、み言葉を通して、異邦人にまで広がっていく、その第一歩の出来事だった、と言うことです。
ではここで、初代教会の使徒ペトロを通して、今回と同様に、福音が異邦人の百人隊長へ伝えられた第二の出来事を見て参りましょう。それは、本日の出来事と同じく、ルカにより記された“第二福音書”ともいわれる、使徒言行録の10章に記されている出来事です。その内容(の概略)は、主なる神が、カイサリアに住んでいた百人隊長のコルネリウスに、幻として働きかけ、片一方では、そこから約60キロ離れたヤッファに滞在中の使徒ペトロに、“主の霊”として働き、この幻と聖霊の働きのコラボによって、福音がペトロから異邦人である百人隊長一家へと伝えられたという出来事です。具体的には、ペトロはカイサリアに出向き、待ち構えていたコルネリウス一家の人々に、福音の出来事を詳しく告げ知らせ、もうすでに信仰心が篤かった、コルネリウスたちは、さらに主を求める者へと変えられていった、と言う出来事です。
以上二つの出来事で大切なことは、第一に、百人隊長は日ごろから信仰心篤く、ユダヤ人に対して深い好意と理解を持っていたこと、第二は神に対し、また御子イエスに対し、そのみ言葉による働きを信じていたこと、第三は、主からの働きかけを信じ、直ちにそれに従っていったことです。
最後にもう一つ、百人隊長の信仰の出来事を付け加えますと、主イエスさまが、十字架上で息を引き取られたのを目撃していた百人隊長は「本当に、この人は神の子だった。」と言った(マタイによる福音書27章54節ほか)、という出来事は、決してわたしたちの頭から離れることはありません。
以上、福音が、イエスさまの言葉を通して、また神の幻や聖霊を通してユダヤ人の枠を超え、異邦人へ、それもローマの兵役に属する、百人隊長に伝えられた出来事でした。
今日のわたしたちは、直接イエスさまにお会いすることはできませんし、直接そのお言葉を聞くことはできません。しかし、主イエスさまが人々に告げられたみ言葉を通して、またそのみ言葉集である、福音書、聖書を通してみ言葉に触れることはできます。さらにこれからも、イエスさまの福音を深く信じ、どこまでもイエスさまに従っていく者となって参りましょう。
(牧師 永田邦夫)