ヨハネの黙示録2章12〜17節
ヨハネがイエス・キリストの啓示を受けて示されたことを、アジアの七つの教会の一つひとつに宛てて書き送っている手紙を読んでいます。アジアの七つの教会と言っていますが、以前にも申し上げましたように七は完全数を意味していますから、これらの七つの教会だけに書き送られたのではなく、世界中のすべてのキリストの教会に向かって告げられていることを頭において読んでいきたいと思います。
ペルガモンという地は、以前お話ししたスミルナの北方にある町の名前です。今までお話ししてきたエフェソやスミルナの方がこのペルガモンよりもずっと大きいですし、商業都市として交通も便利だったようですが、このペルガモンはローマ帝国が統治していた当時、アジア州の首都であったと言われています。ペルガモンには歴代皇帝を礼拝する神殿が数多く作られていたと言われ、政治と文化の中心地だったのです。皇帝礼拝だけではなく、いろいろな神々を祭る神殿がたくさんあり、そこでいろいろな祭儀が行われていたようです。特に有名なのがアスクレピオスという神の神殿です。これは蛇をその神の使いとして象徴していて、病気を治してくれることで有名な神であったようです。きっと毎日多勢の人々が訪れていたのでしょう。
ドイツのベルリンには「ペルガモン美術館」というのがあります。ここには古代のバビロンやアッシリア、トルコなどの遺跡から集めてきたものがたくさん展示されているそうで、中でも秀逸なのは、このペルガモンで発掘された大理石でできた素晴らしいゼウスの神殿を移築したものだそうです。ドイツのプロイセン王国が隆盛を極めていた時に発掘したものだそうですが、これらからは、ペルガモンが当時とても繁栄していて多くの神々の神殿に満ちていたことがうかがえます。
ペルガモンにある教会に対しては、まず「(13節)わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。」と書き始めています。キリストはこの教会が置かれている状況をよく知っておられるというのです。つまり、私たちが日常生活を営んでいるところを知っておられるということです。私たちがこの言葉から思い起こすのは、最初の罪を犯してしまったアダムとエバが神の前から逃げて隠れた事ではないでしょうか。神から「あなたはどこにいるのか」と尋ねられた二人は、神の前に出ることができなかったのです。私たちが住んでいるところ、今いる所を神に知られたくないというのは、罪人である明らかな証拠です。神に救われ、本当に心から生きている喜びを知っている者は、私がどこに住んでいてどのように生きているか、他の誰に知られなくても主なる神がすべてを知っていてくださるということは何よりの慰めです。ただここで問題は「(13節)そこにはサタンの王座がある。」と書かれていることです。サタンの王座があるとはいったいどういうことでしょうか。
イースターを前にして、私たちはイエスの復活を感謝しています。そのイエス・キリストの十字架と復活によってサタンは滅ぼされたはずなのですが、サタンの残存勢力は今なおこの世界に居座っているということなのです。サタンの策略は大変巧妙で、人々を惑わしてイエスの教えに反すること、つまり皇帝礼拝や怪しげな偶像礼拝が正しいと信じさせていたようです。ですからペルガモンの人たちは、自分たちは正しいことをしている、それをしない人たちの方が間違っていると思っていたのです。
いまもそういう国がありますが、かつて私たちの国でもそういう状況がありました。天皇崇拝をしない者は不敬罪に問われ、非国民として逮捕されたのです。みんながしていることは正しいことである、みんながするから自分もしないわけにはいかない、と教会もまた時代の流れに巻き込まれていったのです。そういう中で「それはおかしい、間違っている。」と言う意見は封じ込められてしまいました。そこには自分たちの思想を正義とする欺瞞が支配しています。これがサタンの策略です。これを見抜くことは容易ではありません。今もそうです。新聞やテレビで報道されることを何も考えずに受け入れてしまう私たちがいます。まんまとサタンの罠に陥ってしまうような風潮は大変恐ろしいことです。サタンの王座があるというのは、あなたの住んでいる所はサタンが支配しているところだということなのです。日本には今もたくさんの神々が祭られ崇拝されています。さらには科学技術の発達と共に、人間が世界で最高の存在であり、人間がすべてを支配することができると考えるようになっていますが、これは人間を神とすることです。ここにもサタンの王座があるのです。
ペルガモンの教会が置かれていた状況を想像しますと、サタンの策略によって、人々が次々と惑わされていったような時でさえ、この教会の人達は、イエス・キリストを信じる信仰を堅く保ち、信仰を捨てずに頑張っていたのです。「(13節)しかし、あなたはわたしの名をしっかり守って、わたしの忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたがたの所で殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。」キリストへの信仰を告白していたアンティパスという人が殺された事件があったことがわかります。しかしそのようなことがあっても、教会の人々は恐れをなして逃げてしまわずに、一人ひとりがキリストへの信仰をしっかり持ち続けたのです。そのことがここで称賛されています。「忠実な証人アンティパス」と言われていますように、信仰は決して派手な事ではありません。愚直で地味な忠実さが求められるのです。
今社会は何でも便利になってきました。オンラインでつながり、お店に行かなくても自宅から品物を注文して買うことができます。命日にはお寺から僧侶が出向かなくても、オンラインでお経が各家庭に届けられます。何でも自宅に居ながらにして間に合うのです。しかし、人間が便利さに慣れてしまったら、必ずその精神には怠惰と慢心が芽生えてくることでしょう。つまり忠実に愚直に誠実に生きることがだんだんできなくなるのです。教会生活も同じです。神を信じる信仰生活は、何よりも神に対して誠実であり忠実であり続けることが神に喜ばれることなのです。
さて、そのようなペルガモン教会でしたが、「(14節)しかし、あなたに対して少しばかり言うべきことがある。」と言われています。「(14〜15節)あなたのところには、バラムの教えを奉ずる者がいる。バラムは、イスラエルの子らの前につまずきとなるものを置くようにバラクに教えた。それは、彼らに偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせるためだった。同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉ずる者たちがいる。」ここには二つのことが書かれています。一つは、バラムの教えであり、もう一つはニコライ派の教えです。バラムの教えということについては、民数記22章から24章を読むとよくわかりますが、預言者であったベオルの子バラムは、モアブの王バラクから、敵対していたイスラエルの民を呪うように依頼されました。バラムは、最初は神のみ旨に背いたことを言うことはできない、自分は神が告げよと言われたことだけを語るのだと言って、その立場を貫いていたのですが、どういうわけか最後にはバラクと結託して、モアブの風習やしきたり、異教の習慣を許容してしまうということが起こったのです。ここにはバラムがイスラエルの民を罪に引きずり込んだと指摘されています。
イスラエルの民に躓きを与えようとしてサタンの企みがあったように、教会の中にもサタンの手先となるような考え方が忍び込んでくることがあります。殉教者まで出しているペルガモンの誠実な教会に、サタンの誘惑が入り込んでいたのです。14〜15節のような宗教的営みは今日でもいろいろと行われています。神々に飲食物を捧げて、それを自分たちも分け合って食べるという、神々と共に食事をする行事です。またここに書かれているように、しばしば性的乱れも起こってきます。
ニコライ派の教えについても、同じようなことが考えられます。つまりペルガモンの教会内では、いろいろな教えを信じ、いろいろな考え方を持っている人たちが放任されていたということです。本来、信仰者は一人ひとり違っていて、いろいろな考えを持っていますが、たとえそれぞれ異なった賜物を与えられていても、主にあっては一つにされているのです。しかし主なる神の御心を離れ、この世の価値観に左右されていくならば、教会としては問題です。
主なる神は言われます。「(16節)だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう。」ペルガモンの教会に宛てた手紙の冒頭を思い出してください。12節には、『鋭い両刃の剣を持っている方が、次のように言われる。』と書かれていました。このお方から出る言葉は両刃の剣のように鋭いというのです。その鋭い力ある言葉によって戦われるというのです。
主の御言葉が人々の心に入る時、罪が示され、その心に悔い改めが起こります。教会は神の口から出る御言葉によって浄化されていきます。それなしに教会は整えられないのです。へブライ人への手紙4章12-13節にはこのように書かれています。「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」神は今も、御言葉と御霊によって、教会の中を歩かれ、霊を見分けられるのです。そして御言葉の剣で悪しき心を切り取り、捨て去り、神によって正しく生かされていくように促してくださいます。
最後の17節には神からのプレゼントが書かれています。今までは「第二の死によって滅ぼされることはない」とか「いのちの木の実を食べさせよう」とか言われていましたが、このペルガモンの教会には対しては「マンナ」と「白い小石」を与えようという不思議な言葉が出てきます。「(17節)耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう。また、白い小石を与えよう。その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている。」
マンナは出エジプト記に出てくるマナのことです。モーセに率いられて荒野を旅していたイスラエルの民は、毎朝、天から降ってきたマナという食べ物によって飢えを満たし養われました。人々はこのマナによって生きたのですが、それが何であるかは隠されていました。今本当のマナ、つまり「私こそ天からのパン、命のパンである。」と言われたイエス・キリストというお方が与えられていることが明らかにされているのです。勝利を得る者にはこのイエス・キリストご本人が与えられているのだという事実が明らかにされたのです。
もう一つの「白い小石」これにはいろいろの解釈があるようです。競技場に入るときの身分証明書のようなものであるとか、競技で勝った者に与えられる勝利の札であるとかいろいろな説があります。その中で、昔行われていた裁判の一つが考えられます。裁判官が判決をする時、その判決を小さな箱の中に入れた石の色で示したそうです。被告は自分の手でその石を取り出しました。白い石は無罪を意味しました。これは罪の赦し、自由を与える印、天の祝宴に入る入場券でもありました。「その小石には、これを受ける者のほかにはだれにも分からぬ新しい名が記されている。」私たち一人ひとりに白い小石が与えられます。そこには名前が書きこんであります。キリストが一つ一つ書きこんでくださるのです。新しい名前、すなわち、その恵みをいただいた者だけが知っている名前、この者はイエス・キリストのものであると記された小石が与えられるのです。これこそ、どんなお守り札よりも勝るものではないでしょうか。神を信じて勝利を得る者は、このマンナと白い小石が与えられるのです。何という素晴らしい恵みでしょうか。
ペルガモンの教会の人たちに書き送られた手紙は、襟を正しめられると同時に、キリストを信じる信仰の確信がいよいよ豊かに与えられるものです。神の御言葉が教会を浄め、私たちの信仰生活を土台から立て直すものであることを、しっかりわきまえて生きていきたいと願っております。
(牧師 常廣澄子)