マタイによる福音書 28章1〜10節
イースターおめでとうございます。
本日はイエス様の復活を喜び感謝してお祝いする礼拝です。福音書の中にはイエス様が復活された時のことがいろいろ書かれていますが、今朝はマタイによる福音書に書かれていることを通して、イエス様が十字架の死からよみがえられた出来事を見ていきたいと思います。
神の御子イエス様は、この世で真の人として生きられ、病気の人々を癒し、貧しく弱く虐げられている人々に寄り添い、神の国の教えを語られました。そのイエスを亡き者にしたいという思いを抱いていたのは、当時、神殿体制を批判されて苦々しく思っていた祭司長や律法学者たちでした。そして、ただそのことのためだけに真夜中にユダヤの議会が招集され、夜が明けるとすぐにイエスを処刑するために、ローマ総督ピラトのもとに連れていったのです。そこで、ピラトは彼らに扇動された民衆の声に押されて、十字架にかける決断を下しました。
その後、イエスは鞭うたれ、辱めを受け、痛めつけられたお身体で十字架を背負ってゴルゴタの丘へと上って行かれ、午前9時に二人の強盗と共に十字架につけられました。ところが昼の12時になると全地が真っ暗闇となり、イエスは午後3時に息を引き取られました。その時神殿の幕が上から裂けたと書かれています。神殿の奥の至聖所と言われる所は、大祭司が年に一度しか入れないのですが、これは、誰でもいつでも神にお会いできるという象徴的な出来事です。イエスの遺体はアリマタヤのヨセフという金持ちで身分の高い議員によって、彼が所有していた新しい墓に葬られました。本日のみ言葉に出てくる「マグダラのマリアともう一人のマリア」はイエスを葬った墓が大きな石で塞がれたのを見ていました(27章61節)。
一方、祭司長たちやファリサイ派の人々は、イエスの死体が盗まれないように、墓に番兵を置くことをピラトに願い出たことが書かれています。27章62-66節です。[明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。]
そのように配慮したにも関わらず、イエスのお身体が無くなってしまったものですから、今度は、番兵たちを買収してイエスの死体は盗まれたのだといううわさを流しました。本日お読みした個所の後に書かれています。(28章11〜15節)[婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。]ですから、お読みしたところは、「イエスの復活は弟子たちたちの作り話である」というユダヤ教側が流した風説は正しくないという反論の意味も込めて書かれたのではないかと考えられています。
復活という出来事は、今も昔も疑惑と不信に満ちています。科学万能の今の時代、理性的人間は一度死んだ人間が生き返るなどということはなかなか信じられないのです。復活はキリスト教信仰への躓きの石です。しかしそのような疑いや不信がある中で、マタイは、イエスは本当によみがえったのだと語っているのです。正確に言うならば、父なる神がその全能の力で、死んだイエスをよみがえらせられた(受身形)ということです。
「(1節)さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に」「マグダラのマリアともう一人のマリア」が、墓を見に行きました。安息日には何もできませんから、二人は安息日が終わるとすぐに行動を開始したのです。マルコによる福音書では女性たちはイエスの遺体に香料を塗るために行ったと書いてありますが、マタイによる福音書では、ただ「見に行った」となっています。墓が大きな石で塞がれていて、武器を持った番兵が見張っているのですから、墓の中に入ることはもちろん、香料を塗ることなど不可能ですし、何もできないことは分かっていましたが、彼女たちは出かけて行きました。そのような状況にも関わらず、それでもなお墓を見に行こうとしたところにイエスを思うひたむきな気持ちが表れています。
どんな人でも、親しい人が亡くなった時は、悲しさで胸がいっぱいになり、言いようのない切ない思いで涙があふれてきます。イエスの死によって彼女たちは今までの親しい関係が引き裂かれ、心のつながりが絶ち切られてしまったのです。この無常な出来事に遭い、どうしようもない辛い悲しい心を何とか落ちつかせ、納得させたいと、いてもたってもいられずに墓に出かけて行ったのでしょう。イエスに対する彼女たちの思いは、人間として最大限に深いものであったと思います。
「(2〜3節)すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。」女性たちが墓に到着したちょうどその時、突然、大きな地震が起こったのです。地震と共に主の天使が現れ、お墓を塞いでいた大きな石が転がりました。うなだれて足許しか見つめられなかった女性たちの目は、その石の上に座る主の天使を見上げました。
その天使の姿は、稲妻のように輝き、衣は雪のように白かったと言います。「稲妻のように輝く」(ダニエル書10章6節)のも、「雪のように白かった」(ダニエル書7章9節)というのも、ダニエルが幻で終わりの時に現れる人を見た時の有様です。あるいはヨハネの黙示録1章14節に出て来る再臨のキリストのお姿です。天使は復活のキリストの栄光と力を表しているのです。
このような神の力の表われは、神を信じない人にとってはまさに恐怖です。「(4節)番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」と書いてあります。イエスの遺体を納めた墓の番をしていた頑強な番兵たちは、武器を手にしながらも、今や恐ろしさで死人のようになってしまったというのです。神の前では人間的な力がどんなに強くても何の役にも立たないのです。女性たちが見ている前で、主の天使が天から降って、墓を塞いでいた大きな石を転がしたのですが、これはイエスが出て来るためではなく、たぶん彼女たちに既に空になっている墓を見せるためだったのでしょう。
主の天使は言います。「(5〜6節)恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」女性たちは思いもよらない出来事に驚き、恐れました。その思いを察して天使は「恐れることはない」と言ったのでしょう。
天使は彼女たちが何を求めているかを知っていました。彼女たちが十字架につけられたイエスを捜していることを知っていました。しかし彼女たちが捜し求めていたのは、結局は死んだイエスでした。イエスへの親愛の情がいかに深かろうと、彼女たちが探し求めていたのは死人となったイエスであり、過ぎ去った思い出だけだったのです。しかし天使は、彼女たちが求めていたものとは全く異なる方向に意識を向けさせたのです。死者のいる場所である墓に、あのお方はおられないのだ、かねて言われていた通り、父なる神のご計画の通りにイエスは復活されたのだと告げたのです。イエスは神のご計画の通りに、神の全能の力によって復活させられたのだと語ったのです。死者を捜し求めていた女性たちはここで全く新しい光の中に入れられています。今や彼女たちは死んだイエスではなく、復活のイエスを見るようにと変えられていったのです。それは十字架がもはや死の力を誇示するものではなく、イエスによって贖いとしての救いが完成していることを告げているのです。
死が怖く恐ろしいのは、死ぬことそれ自体ではなく、その向こうにある虚無の世界がわからないからです。私たちは死の先にある闇に何か恐ろしい力を感じているのです。だから死が怖いのです。その恐怖の中に生きている私たち人間に対して、神は「恐れることはない」と語りかけられたのです。ここには死から生への転換があります。天使の口を通して、神が人間にそれを伝えているのです。
私たちの日常は生から死へ動いています。この世に生まれた人間は必ず死んでいきます。生から死への道を歩いているのが私たちの人生であり、生者必滅が私たちの世界の有様です。しかし復活はこのような私たちの世界を逆転させました。今や死から生への道が開かれていることが知らされたのです。闇は光に滅ぼされ、悲しみは喜びに変えられたのです。死から生への転換、悲しみから喜びへの転換は、復活に現わされた神の力の現実に立たない限り、私たち人間世界には起こり得ないことです。しかしこの素晴らしい出来事にしっかり向き合う時、恐れを抱きながらも喜びに胸を躍らせて走りだしたこの女性たちの姿と、神を信じる者の姿は重なってくるのではないでしょうか。
天使は女性たちに復活の使者としての使命を与えました。「あのお方は死者の中から復活されました。」これは人間社会ではまったく新しい言葉であり内容です。それを彼女たちは世界に向かって告げる使命を託されたのです。天使は言います。「(7節)確かにあなた方に伝えました。」天使は、イエス復活の事実を明確に体験した女性たちを、弟子たちにもとへと急がせたのです。
女性たちは急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走っていきました。その時、行く手に復活のイエスが立っていて、女性たちに「おはよう」と言われたというのです。これはギリシア語では普通の挨拶の言葉ですが、文字通りでは「喜べ」という意味がある言葉です。女性たちは恐れながらも喜んでいました。人間的に考えるならあり得ない出来事に恐れながらも、心は喜びに満たされていたのです。イエスの墓が空であったという恐れにも関わらず、そのイエスは死者の中からよみがえられたのだ、という大きな喜びに満たされていたのです。ですから、イエスの方から「おはよう」と挨拶された時、彼女たちはどんなに嬉しかったことでしょう。彼女たちは、復活されたイエスが、今自分たちの目の前に現れ、今までいつもそうであったように、いつも耳にしていたあのお声であの言葉で呼びかけてくださるのを聞いたのです。死によって完全に引き裂かれたと思っていたのに、今までと変わりないお姿で、自分たちの目の前に現れてくださったのです。その思いもよらぬ再会に彼女たちはイエスに近寄ってその足を抱きしめ、その前にひれ伏したのです。彼女たちのこのような親愛の情の現れこそ、これは本当に現実的な出来事だとして伝えられているのです。
「(10節)イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。』」エルサレムではなく、彼らの生まれ故郷、彼らの生活の場所、イエスと出会ったガリラヤへ弟子たちを向かわせておられるのです。復活のイエスはそこで会うと約束されました。復活の主は日々の生活の中に、私たちと共におられるのです。それはイエス誕生の時にインマヌエル「神我々と共におられる」と名付けられた神の約束の成就なのです。
このように、初代教会の人々は疑惑と不信が渦巻いている中で、断固としてイエスの復活を語り伝えていったのです。彼らは何を伝えなければならないか確信していました。死に勝利され、私たちの救いを完成させたイエスです。今を生きる私たちもまた、このイースターの佳き時に、イエスが確かに復活されて今も信じる者と共に生きておられることを感謝し喜びたいと思います。
(牧師 常廣澄子)