天に属する者に

コリントの信徒への手紙一 15章35〜49節

 先週、私たちは主イエスの復活をお祝いするイースター礼拝をお捧げしました。
 十字架につけられたイエスは、死んで墓に葬られましたが、安息日が終わって急いでかけつけた女性たちが見たのは空っぽの墓でした。墓の中にイエスの遺体はなかったのです。天使が告げたように、イエスは復活されたからです。復活はイエスが死に勝利したしるしです。そして、いまイエスは、信じる者と共に生きておられるのです。人がこの世を生きていくということは、荒海に漕ぎだしている小舟のようなものですから、悩みや苦しみやいろいろな問題が起こります。しかし、キリスト・イエスの救いを信じる者には、いつもどんな時も、死の谷を通る時も、主なる神が共にいてくださるという約束があるのです。なんと感謝なことでしょうか。

 本日は召天者記念礼拝です。私たちが愛し、親しくお交わりした方々、キリストを信じる信仰を持って共に教会生活を過ごした方々、しかし神のみ旨によって、先に天に帰って行かれたそれらの方々を覚えて感謝する礼拝です。私たちはそれらの方々が今天で、神の身許におられることを信じています。天がどこにあるのかはわかりませんが、神と共なる平安の世界におられると信じています。それが御言葉の約束だからです。

 お読みした聖書の御言葉は、パウロがコリントの教会の人々に書いた手紙の一部です。パウロは、この15章で、キリストの復活について、死者の復活について、復活の身体について書いています。パウロはここで、死んだ人は復活するということをはっきり語っています。しかしコリント教会にはいろいろな考えを持つ方がいたようで、中には死者の復活を否定する人もいたようです。「(12節)キリストが死者の中から復活したと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。」と書かれており、すぐ後で「(13節)死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。」とパウロははっきり語っています。この個所はよく誤解される所です。イースターの後ですからなおさら、「もしキリストの復活がなかったら、死者の復活もないであろう。」と言った方が何か納得するように感じるのかもしれません。しかしパウロはここで「死者の復活を否定するとはどうしたことか。死者の復活がなかったなら、キリストも復活しなかったであろう。」と言っているのです。

 パウロは「死者の復活はない」と主張する人々に対して、もし死者の復活を否定するのであれば、イエスが語られた神による救い、つまりキリスト教信仰そのものを否定することになるのだと言います。復活のイエスに出会ったことで、キリスト信徒を迫害していた者から、一転してキリストを宣べ伝える者へと変えられたパウロには、明確な復活信仰がありました。実際に復活されたイエスにお会いし、お声を聞いたからです。復活を語らずにただ十字架だけでは福音にはならないのです。復活はイエスが死に勝利した大事な出来事です。そして、パウロは、自分や多くの弟子たちが、恐ろしい迫害や身の危険がある中を、福音伝道に励んだことは、もし死者の復活という希望がないならば、まったく空しいことであり、無意味なことになってしまうではないかと語っています(30節)。

 もし死者が復活しないなら、「(32節)どうせ明日も分からない命なのだから、食べたり飲んだりして日々楽しく暮らそうではないか」ということになるのではないでしょうか。しかしここでパウロは断固として言うのです。「(33節)思い違いをしてはいけない。」「悪い付き合いは良い習慣を台無しにする。」のだと。つまり、復活を否定する人々は、ただ、今のことだけで生きているのである。今楽しいこと、今美味しいものを食べる喜びだけに酔って生きているだけである。そのように復活を否定して生きている人たちは、パウロからみれば、人間の終末的なことを考えていないのであって、私たちの死ぬべき身体を復活させてくださる神の力を知らないからだと語っています。

 人は死んだらどうなるのだろう、ということは、人間にとって最も深刻な問題です。私たちは死をどう考えているのでしょうか。霊魂不滅を信じている人もいるでしょうが、死者の復活を信じている人は極めて少ないのではないでしょうか。中には死後の生命などは到底考えられないという唯物論的な考え方をする人々もいると思います。彼らにとっては死者の復活はあり得ないことです。最近の激動する社会では、死んだ後のことなど考えたくない、今が幸せならそれでよいという刹那主義の人も増えて来ました。ですから、パウロがここで、当時のコリントの復活否定論者に対して、死者の復活のことをこのように丁寧に積極的に語っていることは、今を生きる私たちに向かって語っていることでもあると思います。

 キリストの復活については、パウロが語り伝えた宣教指針にはっきり言い表されています。「(15章3-5節)最も大事なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」とあり、ここではキリストの復活は受動態で言い表されています。それはイエスご自身が成したことではなく、大いなる神の御業によるものだからです。

 この宣教の核となる教えなしには、キリストの福音もキリスト信仰も成立しませんし、教会もキリスト信徒も存在しませんでした。キリストの十字架と復活によって主の日の礼拝が始まり、キリストの福音が宣べ伝えられ、教会が形成されてきたのです。もしここに示されているキリストの復活がなかったならば、パウロはずっとキリスト教徒を迫害し続けたでしょうし、パウロ自身がキリスト教徒になることもなかったでしょう。私たちが今、聖書を手にして、パウロが書いたこれらの手紙を読むことができるのは、彼が復活のキリストに出会って変えられたからです。ここに私たちの教会があるのも、一人ひとりがキリストの十字架の贖いを信じて真の神への信仰を持つことができたのも、キリストの十字架と復活があったからです。

 では、死者の復活を信じる意味はどこにあるのでしょうか。死者の復活は、将来、主の時が来たら実現する出来事として希望の対象とされています。聖書には「万物の終わりが迫っています。」(ペトロの手紙一4章7節)と言われています。
 これは現代の世界状況からみてもおわかりのように、決して単なる神話や宗教的幻想ではなく、預言者的警告として今の私たちも受け止めるべきことではないかと思います。そこで、世界の終末が問題となるのですが、終末論の多くは、審判や滅亡はあっても希望がないのです。例えば過去にはオウム真理教がヨハネの黙示録のハルマゲドンを曲解して武器を備え、サリンを製造して、何の関係もない多くの人を殺傷してしまいました。宗教によっては、来世の思想として勧善懲悪を説くこともあります。善人は極楽に行き、悪人は地獄に行くという教えです。しかし、これに対して聖書は、主の来臨の時には、死者の復活が起こるという希望を伝えています。「神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」(テサロニケの信徒への手紙一4章14節)

 私たちの地上の身体は、確かに滅んでいくもの、死ぬべきものです。しかし、「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ローマの信徒への手8章11節)キリストを死者の中から復活させたお方は、神の霊によって、死ぬべき私たちの身体を生かしてくださるというのです。

 そして実際、主の時が来たら、私たちの身体は、霊の身体によみがえらされるというのです。それは、神の霊によって生かされる新しい栄光の身体です。35節には「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」という問いが書いてあります。復活すると言われても、それがどのようによみがえるのか示してくれなければ信じようがないではないかと思うわけです。しかしそれに対してパウロは「(36節)愚かな人だ」と言います。どうしてこの問いが愚かなのでしょうか。その後に種を蒔く話が続いています。種が蒔かれることによって新しい植物が芽生えるという自然界の出来事を用いての説明です。「(36〜38節)あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。」このことは、農業をしていなくてもだれでもわかります。それに気づかないのは愚かだというのです。それは、人間はこの話を畑の植物のことだとしか考えないのに対して、神はまったく違う見方をしておられるということなのです。

 死者についても、死後の命についても、人間はいつでも理性や常識で分かる範囲で、人間が説明できて納得がいくことだけを考えます。それならば信仰はいらないのです。私たちが生まれてきたことについても同様です。医学的な説明はできるかもしれませんが、なぜ生まれたかは誰も説明できません。種を蒔く話の後に、復活の身体について書かれています。「(42-44節)死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」つまり死者の復活もこれと同じだと言うのです。つまり種が蒔かれ、成長して植物になるためには、種は一度死ななくてはなりません。つまりそれは死者を葬ることです。種は朽ちていきます。しかしそこから芽が出て花が咲きます。種を蒔くことは悲しいことではなく喜びと希望につながるのです。私たちの身体も同じです。新しい命がどのようなものかわかりませんが、その命は天の生活にふさわしいものに変えられるのです。

 ここでパウロは、死者の復活は、神によってなされる行為であることを示しています。それは私たち人間の肉と血でできた「自然の命の体」から「霊の体」への転換です。「自然の命の体」の特徴は、まず朽ちるものであり、卑しいものであり、弱い状態です。しかしそれが、朽ちないもの、輝かしい栄光ある、力強い「霊の体」に変えられるというのです。それは、地上の身体に続くものですが、この世の頼りない生活ではなく、朽ちない生活なのだということです。「(50節)肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」私たちは朽ちない「霊の体」に変えられたいと願います。そのために、人は神を求め、神に近づかなくてはならないのです。私たちは、キリストの十字架と復活という福音を信じることによって、新しく生まれることができ、将来の「霊の体」を待ち望むことができるのです。

 御存じの方もおられるでしょうが、ハンセン病のために失明し、脚を切断して手足の自由を奪われた玉木愛子さんという俳人がおられます。キリストへの信仰を持たれて感謝の日々を過ごされ、讃美歌や多くの俳句や短歌を作られました。彼女が復活の希望を詠んだ句をご紹介したいと思います。「毛虫這えり、蝶となる日を夢見つつ」これは体のよみがえりの希望を詠んだものです。部屋の中を丸太棒のように転がって移動するよりほかになかった愛子さんには、復活信仰がいかに大きな励ましであったかが分かります。

 いったい私たち人間とはどういうものでしょうか。45〜49節には、二人の人間「最初の人アダム」と「最後のアダム」が出てきます。「最初の人アダム」というのは、神に最初に土から造られた人間のことです。また「最後のアダム」は、神が人間として世に送られた神の御子キリストのことです。神は人間に真の命を与えるためにキリストをお遣わしになったのです。私たちは土から作られた「最初のアダム」に属する者ですが、神を信じることによって、天から来た「最後のアダム」に等しくなり、天に属する者とされるのです。愛なる神は人間が滅びることを望まれません。私たちに命を与えた神は、私たちが朽ちない栄光の体に変えられることを待ち望んでおられるのです。

(牧師 常廣澄子)