ヨハネの黙示録 2章18〜29節
今朝は七つの教会の一つ、ティアティラにある教会に宛てた手紙を通して、神の言葉を聞いていきたいと思います。「(18節)ティアティラにある教会の天使にこう書き送れ。」ティアティラという地名を聞いて、皆さんはすぐに使徒言行録16章11〜15節に書かれていることを思い浮かべられたのではないでしょうか。そこにはパウロが聖霊に導かれてマケドニア州のフィリピに行った時のことが書かれています。そこでパウロが主の福音を語っていた時、集まった人たちの中に、ティアティラ市出身の紫布を商うリディアという女性がいたのです。当時紫布を扱うのは上流階級の人であったと言われています。彼女は神を崇め、一家をあげてバプテスマを受けて信仰に入りました。そして神に仕えてフィリピの教会建設に大きな力となったのです。このリディアの出身地であるティアティラがこの手紙の舞台です。
このティアティラ市は、毛織物や麻布を扱う手工業が盛んで染色業もありました。織物業だけでなく金属工業も皮なめしの皮革業も盛んだったようです。その頃のティアティラ市にはギルドと言われる同業者の組合組織もできていたと言われています。それぞれの職業にそれぞれの神がいたと言われていますから、偶像礼拝も盛んだったと思われます。先日お話ししたペルガモンからさらに内陸に入ったところにあるので、港からは離れますが、商業の発達した重要な土地だったようです。
著者ヨハネは、「(18節続き)目は燃え盛る炎のようで、足はしんちゅうのように輝いている神の子が、次のように言われる。」と言って、ティアティラの教会に神の言葉を取り次いでいます。このような神の子キリストの姿は、1章14〜15節にも書かれていました。このお方はティアティラの教会のことをどのようにご覧になったのでしょうか。
「(19節)わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。更に、あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっていることも知っている。」ティアティラの教会がだんだん良くなってきた、最初の頃より行いに進歩がみられる、ということで、ティアティラの教会は褒められています。うれしいことです。ここには「行い」という言葉に続いて「愛、信仰、奉仕、忍耐」という四つの言葉が並んでいます。あなたの「行い」、それはキリスト者としての「行い」です。それはキリストの愛を知って生かされる信仰生活と言えるかもしれません。そしてその愛が具体化したものが奉仕という形をとるのでしょう。それは神と人に仕える生活です。しかしそれには忍耐が伴うのです。
いつの時代でも、教会が存続していくということは大変な事です。教会ができたばかりの頃は、皆の思いが一つとなり、愛に溢れ、力に満ちていますが、それが持続可能な状態であり続けるのは努力と共にとても忍耐がいることです。ティアティラの教会はそれを持ち続けたというのです。すばらしいことです。教会の成長というのは、何も立派な礼拝堂を建てるとか、信徒をたくさん増やしていくことではありません。人々に神の愛を伝え、その愛が教会に満ちていること、そして一人ひとりが神と人に仕えて生きていくことです。そのために忍耐して励んでいく時に、そこにキリストの身体である教会が出来上がっていくのだと思います。
「近頃の行いは、最初の頃の行いに勝っている」と、ティアティラの教会はそれなりに賞賛されてはいますが、それに続く言葉は、「(20節)しかし、あなたに対して言うべきことがある。」という苦言です。でも、厳しい意見を言ってくれるのは有り難いことなのです。人は良い評価だけを聞いていても成長しません。きちんと意見を言ってくれる人や批評してくれる人が傍にいない人は不幸です。周りの人が誰も彼もお世辞を言い、いつも良いことだけを言われている人は、少し批判的な意見を言われると途端に機嫌が悪くなって腹を立てたり、頭にきて怒り出したりするのです。独裁者という人はまさにそうであって、自分と違う考えの人を次々と遠ざけてしまいます。教会も同じことです。批判や違った意見を尊重することがなかったら、この社会にあってどうして謙虚に神の業を成していけるでしょうか。これは今を生きる私たちが心して聞かなくてはならない大切なことです。イエスが語られる言葉に謙虚に耳を傾けなくてはならないと思います。
ここでティアティラの教会が指摘されたことは、「(20節)あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。」ということです。大目に見ているというのは、それを放任し、野放しにしているということです。つまり結果的にはそのことを許容し、是認していることになるのです。いったいどういうことが起こっていたのでしょうか。
「あのイゼベルという女」とあります。もしかしたら当時ティアティラの教会にイゼベルという女性がいたのかもしれませんが、はっきりしません。むしろ、旧約聖書の列王記上(18章前後)に出てくるイゼベルを思い起こします。このイゼベルはシドン人の王エトバアルの娘で、イスラエル王アハブの妻となった女性です。アハブはだれよりも主の目に悪とされることを行った王として知られていますが、妻のイゼベルはイスラエルにバアルという偶像神を持ち込み、保護しました。さらにイゼベルは主の預言者を殺しました。これに立ち向かったのが預言者エリヤです。干ばつの時にエリヤはたった一人でバアルの預言者450人と対決し、勝利します。そしてエリヤはバアルの預言者を殺しましたので、怒ったイゼベルはエリヤを殺そうとするのです。
そのようなイゼベルの名前がここで登場するのは、ティアティラの教会の人達がそのグループをイゼベルという名前で呼んでいたからかもしれません。その女性は自らを預言者だと称して教会員を教え惑わしていたのです。「(20節)この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている。」ティアティラの教会の人達は惑わされ、誠実な信仰から離れてしまったり、みだらな行いをするようになっていったようです。
預言者というのは神の言葉を預かっている人です。偽りの預言者が人々に教えたら大変なことになります。神の言葉を正しく聞きとり、正しく語る責任はとても重大だからです。これは祈りと聖霊の導きなしにはできないことです。ですから教会には主の聖い霊の働きが不可欠なのです。ティアティラの教会にはキリストを知らない人はいなかったでしょう。しかしそのような人達が惑わされて、この女性の話や教えを信じてしまうくらい巧妙なのです。教会員はこの女性を本当の預言者だと思ってしまい、この女性が偽りを語っていることには気が付かなかったのでしょう。教会内にこのようなグループが許容されていたこと自体が問われています。
信仰は自由であり、礼拝生活や祈りの生活は強制されるべきものではない。自分が気の向いた時に、好きなようにすればよいではないかと考える人もいます。私たちはいつの間にか信仰を自由に勝手に考えるようになってしまいました。しかしそれでよいのでしょうか。今、み言葉を通して主は言われるのです。「あなたに言うべきことがある」と、教会の中に間違った教えや考えが野放しになっていることを指摘しておられるのです。これはペルガモン教会にバラムの教えや、ニコライ派の教えがあったことと大変よく似ています。当時小アジア地方では。バラムの教えや、ニコライ宗、イゼベルのグループ等がそれぞれの教会内で、異なった聖書理解をしていただけでなく、教会員にいろいろ悪影響を与えていたのです。
その事に対して、「(20〜23節)わたしは悔い改める機会を与えたが、この女はみだらな行いを悔い改めようとしない。見よ、わたしはこの女を床に伏せさせよう。この女と共にみだらなことをする者たちも、その行いを悔い改めないなら、ひどい苦しみに遭わせよう。また、この女の子供たちも打ち殺そう。」ここでは、この女性の信奉者たちをこの女性の子どもたちと言っています。そして主はいつでも彼らに悔い改めの機会を与えて忍耐して待っておられるのです。しかし悔い改めずに、不品行を止めないならば、言葉は厳しいですが、床にふさせるとか、ひどい苦しみに遭わせるとか、大きな艱難によって苦しめられることになるだろうと語っているのです。これは主の御心に適わないことに対しては、神の裁きがあり、大きな艱難が伴うということです。このように語られるお方は、18節にあったように、「燃え盛る炎のような目」をしておられますから、すべてを見通されるのです。「(23節)こうして、全教会は、わたしが人の思いや判断を見通す者だということを悟るようになる。」
ティアティラの教会が神から求められていることは、受け入れてよいことと、しばらく様子を見て判断すべきこと、またははっきりそれは違うから排除しなければならないことなど、教会内のいろいろなことをしっかり見極めなさいということだと思います。教会は罪人の集まりですが、善人の集まりでもあります。教会に来る人は優しくてまじめな人が多いのです。優しく何かを勧められると、いつのまにかそれを許して受け入れてしまうことも起こるのです。しかし大切なのは、主の福音理解をゆがめていることからは離れなくてはならないということです。
「(24節)ティアティラの人たちの中にいて、この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる奥深い秘密を知らないあなたがたに言う。わたしは、あなたがたに別の重荷を負わせない。」ここにある「サタンのいわゆる奥深い秘密」とは何のことでしょうか。たぶんイゼベルグループの人たちは、自分たちこそ「神の深み」を知っているのだと語り、自負していたのではないでしょうか、しかし実際はそうではなくて、彼らが「神の深み」と言っているのは、本当は「サタンの深み」なのだからそう読み替えたのだろうと、聖書学者たちは解釈しています。サタンというのは、姿形が美しくもっともらしいものに扮装してきます。コリントの信徒への手紙二11章14節で、パウロは「だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。」と言っています。サタンの企みは、ちょっと聞いておかしいと思わせるのではなく、逆になるほどもっともな話だ、とあたかもそれが本当であるかのように思わせるものなのです。
そしてティアティラの教会の中で、この女の教えを受け入れないでいる人達に向かって「あなたがたはサタンの奥深い秘密を知らないでいるが、知らないままで良いのだ。」と語っておられます。なぜならキリストご自身がサタンの深みに降りてくださったからです。そして「(25〜27節)ただ、わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ。勝利を得る者に、わたしの業を終わりまで守り続ける者に、わたしは、諸国の民の上に立つ権威を授けよう。彼は鉄の杖をもって彼らを治める、土の器を打ち砕くように。」と励ましておられます。このところは詩編2篇9節からの引用です。
ここでは「あれこれ目新しいことに目を向けるのでなく、今持っているもの、つまりイエスによって与えられた救いの信仰を固く守りなさい。」と勧めているのです。その人達は勝利を得るからです。私たちは、今、十字架で死んでくださったキリストによって罪の赦しの恵みを得て生きるようにされていますが、主が再び来られる時まで、その信仰を固く保ち続けなさいと言われるのです。信仰は私たちの中に働かれる神のみ業です。人の思いや判断を見通される方、心の深みを探り知られるお方がどんな時も私たちを守っていてくださいます。
また私たちに与えられている神の御言葉は鉄の杖のようです。傲慢な心を打ち砕く力があり、弱い私たちを支えてくださる力があります。そして最後に「(28節)勝利を得る者に、わたしも明けの明星を与える。」という素晴らしい約束が与えられています。キリストは「わたしは輝く明けの明星である。」(ヨハネの黙示録22章16節)と自己紹介しておられます。明けの明星は夜明けまで残っている希望の星なのです。勝利を得る者というのは、キリストご自身を得ることに他なりません。
ティアティラの教会に与えられたこの御言葉を、耳あるものはきちんと聞くべきです。今朝も耳を澄ましてこれらの言葉を聞き、主なる神に信頼して、与えられた新しい一週間を大事に過ごしていきたいと願っております。
(牧師 常廣澄子)