来るべき方

ルカによる福音書 7章18節~23節

 本日も、ルカによる福音書からのメッセージをご一緒に聞いて参りましょう。本日箇所の冒頭、18節から19節bには「ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた。そこで、ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、主のもとに送り、こう言わせた。」とあります。ここでのヨハネとは、勿論、バプテスマのヨハネのことです。そして“これらすべてのこと” とは、直接には7章に入ってから、本日箇所の直前までに示されております、二つの出来事であり、またさらに、それより前の箇所に記されている、数々の出来事をも含んでいることが、これから先を読み進めていきますと分かります。

 では先に、直前の7章に入ってからの二つの出来事を簡潔に確認しておきましょう。ある百人隊長の部下が病気で危篤状態にあったとき、その百人隊長が日ごろから示しているユダヤ人への愛、そして自ら会堂を立ててくれたこと、そしていま、病気の部下に示している、深い愛、思い遣りをご覧になって、イエスさまは「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と称賛されましたが、その使いの者が家に帰ってみると、重篤であった部下は元気になっていた、と言う出来事でした。

 また次いで起こった出来事は、ナインと言う町の入り口でのこと、ある母親の一人息子が死んで、葬送の列に出会ったとき、主イエスさまは、その母親を見て“憐れに思い”、そしてさらに棺(かん)に寝かされていた死者である、その息子に向かって、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。」、と言う驚くべき出来事でした。またそのほか、それまでに、主イエスさまがなさった、すべての出来事を弟子たちは、ヨハネに知らせていたのです。

 では、そのときのヨハネは、どんな状態にあったのでしょうか。このルカによる福音書には何も記されておりませんが、並行記事である、マタイによる福音書、11章の2節には「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。」とあります。そのヨハネが牢に入れられた理由は、と言いますと、皆さんご存じの人も多いと思いますが(マルコによる福音書6章14節以下、マタイによる福音書14章1節以下に記載あり)、ガリラヤの領主であったヘロデ(ヘロデ・アンテパスのこと)は、兄弟フィリポの妻ヘロデアを横取りして結婚してしまったことをヨハネに咎められ、これを恨んだヘロデは、ヨハネを捕らえ、牢に入れていたのです。

 本日箇所に戻りまして、18節b、19節には「そこで、ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、主のもとに送り、こう言わせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。』」とあります。なお、“二人を呼んで”については、「証人は、二人ないし三人を立てなければならない」との律法規定(申命記19章15節)に従ってのこと、との解釈もありますが、この箇所でもっと大切なことは、バプテスマのヨハネと、主イエスさまの元々の関係が変わってしまったのか、ということです。
 お二人は幼いころから、否、もっと極端に言いますと、お互いに母の胎内にいた時からの知り合いであって、それは“切っても切れない深い関係”から始まっておりました。そしてお互いに成長して、公生涯に入ってから、ヨハネは、救い主メシアとして来られるイエスさまの先駆者であり、道案内をする者としての役割を自覚しておりました。その例として、ヨハネは、自分の方に来られるイエスさまを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネによる福音書1章の29節)と人々に紹介し、また、ヨハネ自身は「主イエスの履物のひもを解く値打ちもない者」(マルコによる福音書1章7~11節ほか)とまで、自分の立場を心得ていたのです。それが今は、弟子を使いに出してまで、“来るべき方はあなたか、または、ほかの方か”と、主イエスに問わなければならない状態になっていたのです。

 では、そのときのヨハネの様子について、推測の域を出ませんが、聖書の解説者の意見をも交えながら、見て参りましょう。
 第一の説は、その時のヨハネは、民衆の声を代弁してイエスさまに問うたのだ、とする説です。当時のイスラエルは、かつての“独立した国家の権威”を失い、ローマ帝国の支配下に置かれていました。このことによって、来るべきメシアが、“力ある王的メシア”であることを望んでいる人々も多くいたのです。例えば、イザヤ書11章1節~11節には、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち」(1節)、「正義をその腰の帯とし 真実をその身に帯びる。」(5節)「その日が来れば エッサイの根は すべての民の旗印として立てられ 国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。」(10節)等々、これは栄光と力のメシア願望の預言です。

 勿論その一方には“苦難の僕の預言”もあります。例えば、イザヤ書52章13節~53章3節です。これは皆さまもお馴染みの箇所です。主イエスさまに本日箇所の問いかけをしているヨハネはそのとき、獄中にありましたから、先に挙げた民衆のように、力ある王的メシアが来て、今自分を苦しめているその力を排除してほしい、このようにヨハネが考えていたとしても、不思議ではありません。しかしヨハネは、逸(はや)る気持ちを胸の内に収めながら、先のような質問を主イエスさまに投げかけ、そこから自分で答えを導きだそうとしていた、と考えられます。
 わたくしたちも、自分の中に万が一、信仰的疑問がわいたときでも、そこから逃げ出すことなく、より一層、神に問いかけながら、前に進み、そして神への信仰を深めていきたいものです。
次に第二の説は、ヨハネが弟子たちを主イエスのもとに送り、福音を告げ知らせ、業を行っているイエスさまのお姿を、彼らに直接に見聞きさせたうえで、弟子の気持ちをイエスさまに傾けさせようとしていた、という説です。これはヨハネが少し消極的過ぎるかな、とも思われます。

 先に進みます。20節、二人はイエスさまのもとに来て言いました「わたしたちは洗礼者(バプテスマの)ヨハネからの使いの者ですが『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』とお尋ねするようにとのことです。」とあります。これはそのままの素直な質問です。続いての21節は、これは著者ルカがそのときのイエスさまの様子を表した編集句で、「そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。」とあります。

 次は、主イエスさまが使いの者に言われた返答の言葉です。先ずは22節に、「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」とあります。ここには、目の見えない人、足の不自由な人、皮膚病の人、耳の聞こえない人、死者の生き返り、貧しい人への福音、等々が記されております。

 以上は、イザヤ書35章5節6節に、“見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く,歩けなかった人が鹿のように躍り上がり、また、口が利けなかった人が喜び歌う”、また、同じくイザヤ書61章の1節には、“貧しい人に良い知らせを伝えさせ、また、捕らわれ人には自由を”と記されており、ヨハネからの使いの者に対しイエスさまは、イザヤ書のこれらの箇所を引用しながら、これに、ご自分がなさっている福音の業を重ねつつ、使いの者に伝えていたのです。
 なお、“死者の生き返り”の言葉は、イザヤ書には見当たりませんが、主イエスさまご自身がやがて、十字架の死と復活を迎えられます。よってこれは、主イエスさまがお伝えになった、福音の核心(中心)でもあります。

 次は23節の「わたしにつまずかない人は幸いである。」の言葉です。これは先の22節に続いており、ヨハネの弟子たちが帰ってからすぐに、ヨハネに告げることを期待してのお言葉のようにも取れます。また一方、主イエスさまが、ヨハネから使者に対応していたそのときも、傍らには、イエスさまの弟子たちは勿論のこと、多くの群衆がいたのです(24節に記述あり)。
 これらのすべての人に向かって「わたしにつまずかない人は幸いである」のお言葉は、今日のわたしたちに対するお言葉でもあります。本当に感謝すべきみ言葉です。

「わたしにつまずかない者は幸いである」のお言葉で、わたくしが最も印象に残っている聖書箇所は、主イエスさまが弟子たちととられた過越の食事の後、主の晩餐の席で、弟子たちに向かって「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。」(マルコによる福音書14章27節、マタイによる福音書26章31節)のお言葉です。その直後にペトロは、「イエスを知らない」とつまずいているのです。

 さて、この段落の直後の24節~28節に目を通しますと、「ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かって、ヨハネについて話し始められた。」との切り出しで「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか、風にそよぐ葦か。」(24節)云々と、言葉を並べた後、ヨハネについての締めくくりの言葉が記されています。

 ヨハネについて、「そうだ、言っておく。預言者以上の者である。」(26節)、続いて、「言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大である。」(28節)とあります。その意味は、“女から生まれた者”すなわち普通の人間の中では、ヨハネが最も偉大だ、しかし、神の国に繋がっている最も小さい者でも、ヨハネよりは偉大だ、と締めくくっています。わたしたちは、その神の国にすでに招かれている者であり、また神の国に繋がる教会の歩みを、日々続けている者でもあります。その神の招きに感謝しながら、ご一緒に、これからも日々の歩みを続けて参りましょう。

(牧師 永田邦夫)