ヨハネによる福音書 14章15〜21節
本日はペンテコステ礼拝です。天に挙げられた主イエスに代わって、主の御霊が降って来られたことを感謝する礼拝です。主の御霊、つまり聖霊は、神が私たち人間に約束されたものです。
イエスが十字架上で贖いの死を遂げられたのは、およそ二千年前のことですが、イエスは金曜日の午後3時に息を引き取られました。日没になると安息日が始まりますから、イエスのお身体はすぐに十字架から取り降ろされて、アリマタヤのヨセフが提供した新しいお墓に葬られました。ところが、安息日が終わって朝早くに女性たちがお墓に行ってみると、大きな石で塞いであったはずなのにイエスのお身体がなかったのです。驚く女性たちに向かって、天使が言いました。「あなたがたがさがしているイエスはよみがえられたのです。」女性たちは本当にびっくりしたと思います。最初は何を言われているのか理解できなかったかもしれません。
そのように死に勝利し、死からよみがえられた復活のイエスは、手と足、そしてわき腹に傷跡が残ったお姿で、40日の間、弟子たちや信じる者たちに現れてくださいました。そして、弟子たち皆が見ている前で天に帰って行かれたのです。聖霊が降ったのは、ちょうどそれから10日後の五旬祭の日でした。それで、聖霊降臨節をギリシア語で50番目という意味を表すペンテコステと言われているのです。
聖霊降臨の出来事は、使徒言行録の2章に詳しく書かれていますので、お読みいただけるとおわかりになりますが、主を信じる者たちが心を合わせて熱心に祈っていた時に、ゴーっという風が吹くような音と共に、天から炎のように一人ひとりに主の霊が降ったのです。これは、イエスが天に挙げられる前に、弟子たちに言い置いていった言葉、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい、ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼(バプテスマ)をさずけられるからである(使徒言行録1章4〜5節)。」という約束の成就でした。
ここに「前にわたしから聞いた、父の約束されたもの」とありますが、本日お読みいただいた聖書箇所がそれです。この個所には、イエスが弟子たちと最後の食事をされた時に語られたことが書いてあります。まず「(15節)あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」イエスを愛しているならばイエスが与えた掟を守るのは当然だと言っておられます。この「イエスが与えた掟」とはどういう掟なのでしょうか。その掟は、イエスが最後の食事(最後の晩餐と言われている)の前に、弟子たちの足を洗われた後で弟子たちに語られたものです。その場面はヨハネによる福音書13章に書かれています。その34節には「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」とあります。イエスが与えられた掟は「互いに愛し合いなさい」ということなのです。つまり、私たちが互いに愛し合って暮らす日常の生活が、イエスを愛していることにつながっているということです。
この説教の後で、私たちは「主の晩餐」に与りますが、共に主の食卓を囲むということは、お互いが愛によって結ばれている共同体だということをしっかり認め合うことです。パンは主が裂かれたお身体を象徴していますが、それは一つです。私たちはその部分であり、イエスが与えた掟のように、お互いに愛し合うのです。そして私たち一人ひとりが神に愛されていることがわかるだけでなく、何よりもまず私たち一人ひとりが心から主なるイエスを愛していることを自覚することです。これが主なる神を信じる信仰です。そしてその信仰によって主の晩餐に与るのです。
しかしながら、「私たち人間が互いに愛し合うこと、まずは主なるイエスを愛すること」これは言うのは簡単ですが、この掟が意味していることは実に難しく大変なことです。それで続けてイエスは私たちに語られたのです。「(16節)わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」イエスは私たちのために父なる神にお願いしてくださったのです。何をお願いしてくださったのかというと、「別の弁護者」を遣わしていただくことです。
「別の弁護者」これは何のこと、いや誰のことを言っているのでしょうか。ここで弁護者と訳されているギリシア語は、「呼ばれるとすぐ傍らに来る者」という意味の言葉です。助けて欲しい時に呼び求めると、すぐにそばに来てくれる方なのです。口語訳聖書や新改訳聖書では「助け主」と訳されています。まるでアラジンの魔法のランプから出て来る魔神のようですが、続く17節には「この方は、真理の霊である。」と書かれています。ですからこのお方は魔神などではなく聖なる清い霊です。
そしてここには「別の弁護者」というように「他の」「別の」というようにはっきりと説明書きがついています。それはイエスが、自分はこの後、この世にいなくなることがわかっておられましたので、「わたしとは別の人で、(弟子たちを)弁護してくれる人を、わたしの父である神から送っていただく。」と言われたのです。ということは、つまり、弟子たちにとってイエスはずっと彼らの弁護者であり助け主であったということです。
イエスご自身はいつも弟子たちと一緒におられました。弟子たちはいつも何かがあるとイエスに尋ね、イエスに助けられ、イエスに慰められ、イエスに導かれていたのです。弟子たちはすべての面でイエスに頼っていました。何があっても自分たちにはイエスがついているから大丈夫だと、彼らはイエスに信頼していたのです。イエスが弟子たちに先だってくださり、あるいは後ろから支えて応援してくださいました。その主なるイエスが地上からいなくなってしまわれるのです。そこでイエスは弟子たちに約束してくださったのです。「わたしは天の父にお願いして、わたしとは別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてあげます。」と。それが主なる神の聖なる霊、聖霊です。
イエスがこの地上で人間の姿でおられた時には、一人の生身の人間でした。ですから今ここにイエスがおられたとしたら、遠くの国にいる人達にはイエスが見えませんし、声も届きません。触れることも助けていただくこともできません。しかし、今、私たち信じる者には「別の助け主」聖霊が与えられています。ですからどこにいても一人ひとりと一緒にいてくださるのです。世界には何十億もの人がいますが、それらの一人ひとりの祈りに応えることができるのは、御霊が与えられているからです。あらゆる国のあらゆるキリスト者の一人ひとりに、一度に接することがおできになるのは神の御霊、聖霊です。
以前、まだ信仰を持ったばかりの頃、たくさんの人々が皆一度にいろいろなことをお祈りするけれど、神はそれをちゃんと聞いておられるのだろうか、神は何億人もの人のお祈りを聞き分けることがおできになるのだろうかと真剣に考えた時がありましたが、聖霊の働きを知った時に、その不安は解決しました。神は一人ひとりに向き合って、その祈りに耳を傾けていてくださるのです。それは信じる者に御霊が与えられていることによって可能なのです。
イエスがいつも弟子たちの傍にいてくださったように、信じて祈り求める人の傍には御霊なる神がいつもいてくださいます。主の御霊には人格があります。そしてこのお方はイエスが地上におられた時以上に、信じる者に神の奥義を悟らせ、神の聖さを示し、神の力を与え、神の素晴らしさを体験させてくださるのです。「(17節)世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」この世の多くの人はまだこの御霊なる神を知りません。そういう人々の中にあって、「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言われたイエスを力強く証ししていくためにも、私たちに御霊が与えられているのです。
16節の終わりには「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」とあります。この御霊は、私たちが生きている間だけでなく、この世を去っていく時、つまり死ぬ時も、死んでから後もずっと一緒にいてくださるのです。私たちが神の前に立つ時も、そこに一緒にいて私たちの弁護をしてくださるのです。私たちが犯した過ちを神の前で弁護し、かばってくださるのです。これが神の御霊の働きです。
「(18節)わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」これは何と豊かな慰めに満ちた約束でしょうか。今イエスは弟子たちに別れを告げようとしておられます。これからイエスは十字架の死に赴かれるのです。残された弟子たちはきっと親に捨てられたような寂しさと心もとなさに陥ってしまうことでしょう。しかし、その弟子たちに向かって、「わたしはあなたがたを放ってはおかない、必ずあなたがたのところに戻って来ます。」と約束してくださったのです。(口語訳聖書では「あなたがたを捨てて孤児とはしない。」と訳されています。)イエスが共にいてくださるということが、弟子たちにとっては唯一の平安でした。それは、父なる神と御子イエスの関係が切っても切れない関係であるように、弟子たちとイエスとの強いつながりこそが弟子たちの力になるのです。
それではイエスはどのようにして戻って来てくださるのでしょうか。「(19節)しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」これはどういうことを語っておられるのでしょう。よみがえられたイエスがその復活のお姿を現わされるから、それを人々が見るということでしょうか。ここに書かれている「わたしが生きているので」の「生きている」という動詞は現在形です。イエスは永遠の存在者ですから、世界の始まりから終わりまで生きておられます。それに対して「あなたがたも生きることになる」の「生きることになる」は未来形です。これからのことです。つまり私たちがイエスを見ることができるということは、永遠の存在者であられるイエスが、私たちを永遠に生かすものとするために来てくださるのだということなのです。
私たち人間はいつでも死を前にしながら生きています。私たちはいつの日か死んでいく者だからです。しかし、イエスが語られたこの「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」というお言葉は、死におびえる私たちを心から慰めます。イエスはこのお言葉を持って私たち一人ひとりにいつもどんな時も寄り添っていてくださるのです。
「(20節)かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」「かの日」とは、私たちが復活の主にお会いする日です。その時、イエスが天の父である神の内におられ、私たちはそのイエスの内にいることがわかるのだと語っておられます。ここでの「分かる」というのは、はっきり認めるということです。「かの日」私たちは、イエスがそのような素晴らしい力を持つお方であるということを心から納得し、改めて感謝することができるのです。
「(21節)わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」このみ言葉はいままで語ってきたことをまとめ、繰り返しています。大変大事なことだからです。互いに愛し合う者は、神とイエスの愛を受けて、命のつながりの中に置かれています。そして同時に真理への目が開かれるのです。17節にありましたように、聖霊は「真理の霊」だからです。ですから互いに愛することと、真理を知ることは別の事柄ではありません。これらは一つのことです。神の真理は単なる知識ではありません。神の真理を知り、神の真理を学ぶということは、互いに愛し合うことを通してのみ可能なのです。なぜなら、神が真理を示されるということは、神ご自身を現わすことだからです。従ってそれは神との愛の交わりに入れられることに他ならないのです。
今朝私たちは、主の御霊が降って来られたペンテコステ(聖霊降臨)感謝礼拝をお捧げしていますが、最後に大変すばらしい結論に至ったと思います。神を信じ、神を愛する者のみが、主の御霊に導かれて真理に到達するのです。
(牧師 常廣澄子)