2022年7月24日 主日礼拝
使徒言行録 16章25~34節
牧師 常廣澄子
パウロは大きくまとめて三回の伝道旅行をしました。今の時代に旅行といえば、誰にとっても気分がリフレッシュされる楽しい時ですが、パウロの時代の旅行、しかもイエスの福音を宣べ伝えながらの旅行は決して楽しく楽なものではなかったと思います。今のように便利な交通手段はありませんし、宿泊場所にしても食べ物にしても、どんなに大変で困難な旅だったことでしょうか。また各地を巡りながらの伝道旅行は、パウロが語るキリストの福音を受け入れ、信じて救われる人が起こされる場合もあれば、逆に福音に反対してパウロたちを迫害する人たちもいました。
今朝お読みしたところは、フィリピで起こった出来事です。16節以下に書かれていますように、パウロが、占いの霊に取りつかれている女奴隷からその霊を追い出したことによって、その女性を使って金儲けをしていた主人たちが、もうお金儲けができなくなってしまったので、パウロたちを訴えて獄に入れてしまったのです(16-24節参照)。パウロたちは福音を語ることによって、絶えず嫌がらせを受け、迫害を受けましたが、この時もパウロとシラスは衣服をはぎ取られ、何度も鞭で打たれた後、牢に投げ込まれた(22-23節)と書いてあります。しかも牢の一番奥に入れられて、足枷をはめられ、おまけに看守が厳重に見張っていたのです。
人は牢に入れられた時、どのような気持ちになるでしょうか。牢に入れられるような悪いことはしていないとしたら、不当な扱いに怒りがわいてくるかもしれません。何度も鞭で打たれた傷で身体じゅうが痛んだことでしょう。さらにはこれからどうなるのだろう、明日はどんな仕打ちを受けるのだろうと、心配や不安で眠れないかもしれません。パウロとシラスはこの時何を考えていたのでしょう。神の福音のために働いているのに、どうしてこのような苦しみが与えられるのかと思ったでしょうか。自分たちは神に仕えて生きているのに、鞭で打たれ牢に入れられるというのは、まったく不当で理屈に合わないことだと神に文句を言ったでしょうか。
私たちはイエス・キリストを信じてこの社会に生きていますが、自分にとってこの信仰はどんな意味を持っているのでしょうか。家庭でも学校でも職場でも社会でもキリストを信じていることを積極的に表そうとすれば、クリスチャンがマイノリティである日本社会では何らかの抵抗に遭うこともあります。神を信じて生きるなら、神の助けや導きで暮らしが良くなるかと思ったけれども、実際はさほど変わりはないばかりか、逆に信仰を持って生きていくためには困難や苦しみの方が多くなったと言われた方もおられます。あるいはキリストを信じてクリスチャンになったけれども何も良いことはないと、不満を漏らして教会を去っていった方もおられます。
パウロとシラスはどうだったでしょうか。「(25節)真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。」このような大変な時に、賛美の歌を歌って神に祈っていたということは、驚くべきことです。ある人は、彼らはキリストのみ名のために苦しむ価値のある人間とされたことを喜んで神を賛美していたのだと言います。ペトロたちが同じようなことを語っています。「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、、、」(使徒言行録5章41節参照)
このことは、パウロとシラスが絶対的に神を信じ信頼していたことの現れです。神の恵みはいつもどんな時でも変わらないと確信していましたから、このような大変な状況にあっても神を褒めたたえることができたのです。キリストを信じる者は迫害を受けても抵抗しないので、地位も名誉も財産も、終には命までも奪われることがありますが、キリスト者から奪い得ないものがあります。それは心の中に生きている主なる神、キリストへの信仰です。その信仰を持っている者は、何を奪われても、どんなことをされても、どんな苦痛の中でも祈ることができるのです。
私たちが生きている今の日本社会では、キリストを信じているからという理由で牢に入れられることはありません。しかし、今の生活は牢に入っているようなものだと思うことはあるかもしれません。今、自分が置かれている生活や状況への不満であるとか、今の自分の家庭や職場は苦しくてとても耐えられないとか、この生活は少しも楽しくないし、面白くないとか。もしそのような思いをもっているなら、その時、私たちは神に祈っているかどうか考えなければなりません。
パウロとシラスは一番奥の暗くてじめじめして、虫が這いまわっているような牢屋に入れられ、おまけに足枷で自由を奪われている状態でありながら、祈ったり賛美ができたのです。彼らの祈っている声はそこに入れられている囚人たち全員には聞こえなかったかもしれませんが、賛美の歌は囚人の耳に響いていたと思います。たぶんそれは詩編であり、詩編の中でもたぶん主を賛美する歌であったでしょう。彼らはパウロたちの祈りの声や賛美の声をじっと聞いていたのです。もしかしたら始めは、その声をうるさがってあざ笑っていた者もいたかもしれません。しかしやがて彼らは耳を澄まして聞きだしたのです。牢に入れられている彼らは、たぶん手に負えない乱暴者か、人の誠実さや正直さなど微塵も理解できないひねくれ者もいたことでしょう。しかし、そういう彼らが祈りと賛美の歌に耳を傾けていたのです。
私たちがたとえどんなに苦しい状況におかれていても、その苦しみに打ちひしがれずに、神を信頼して祈っているなら、また感謝して日々賛美しながら過ごしているなら、それを見聞きする人は必ず心を動かされます。それは牢の中とはいえ、神を礼拝していることだからです。人が心を一つにして主を礼拝している所には必ず神がおられます。ですからそこに神の力が働くことに何の不思議もありません。「(26節)突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。」
この地方は地震の多い地域でしたから、この時地震が起こったのはあり得ないことではありませんでした。牢の土台が揺れ動いて、牢の戸が全部開いてしまいました。また囚人をつなぎとめていた鎖も外れてしまったのです。当時の技術では牢の戸も鎖も比較的簡単な構造だったのでしょう。囚人たちの身体は皆自由になりました。しかし、一人の囚人も牢から逃げ出さなかったのです。彼らがパウロたちを見る目は全く変えられていたと思います。地震が起こったのはパウロたちが信じている神が真に生ける神であって、その神が起こしたことだと直感したのです。つまり神はこの牢にいる人全員をパウロにお与えになったのです。(「神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。」使徒27章24節参照)
私たちもまた、たとえ牢にいるような厳しい環境に置かれたとしても、神を信じてその心が動かされないものであったなら、周囲の人たちは私たちの信仰を見直して、私たちが信じている神を自分たちも信じたいと思うと思います。そういうことがここで起こったのです。
ここには牢の看守のことが詳しく書かれています。看守は一緒に牢の中にいたのではなく、どこか違うところで寝ていたようです。地震が起きたことで、彼は目が覚めました。この地震が起こる前に、牢の中で何が起きていたか彼は全く知りませんから、この数時間のうちに囚人たちの心が全く変えられてしまったことや、まして囚人たちが逃亡の機会があるのに一人も逃げないでパウロの傍でじっとしていること等、想像することすらできませんでした。
ローマの法律では、囚人が逃亡したら、その牢の責任者は逃亡した囚人が受けるべき罰を受けなければなりませんでした。ですからこの看守はてっきり囚人たちが逃げたと思い、自殺しようとしたのです。「(27節)目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。」しかし、その時、パウロは看守に大声で叫びました。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」「(29節)看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込みました。」
この状況で囚人たちが一人も逃げなかったということは、本当に不思議なことです。地震が起きて鎖が外れ、彼らを自由の身にしたこと以上に不思議なことです。囚人が皆ここにいるのなら、問題はありません。看守は彼らをもう一度牢に入れてしっかり鍵をかければよかったのです。しかし、今や状況は変化していました。看守はパウロとシラスの前に震えながらひれ伏して、「(30節)二人を外へ連れ出して言いました。『先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。』」看守はパウロが生ける神の僕であるということは前から聞いていたことでしょう。そして看守は今自分もそれを認めて信じたのです。そして彼はパウロから直接教えを乞うているのです。
看守はもう一度囚人たちを牢に入れることもできました。それは彼にとっては、この世的な意味で救われる手段でありました。しかし、彼は今や自分が本当に救われなくてはならない者であることがわかったのです。今までの彼は、無事に任務を果たすことや、少しでも地位が上がって昇進することや、囚人たちから賄賂をとること等が大切なことで、いかにうまくやって良い生活をするかが問題でした。しかし、今、彼は自分が救われなくてはならない人間だと気づいたのです。救われるために誰かに何かしてもらうのではなく、自分がどうすべきかを尋ねたのです。そこが大切なことです。彼は恐れと震えの中で、それをしようと決心の言葉を語ったのです。
「(31節)二人は言った。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。』」
パウロが語るただ一つの答えはこれでした。パウロだけではなく、あらゆる牧師や伝道者がいつ誰にどのような事情の下で尋ねられても、答えはこの一言しかありません。教会も同じです。教会は「わたしは救われるために何をなすべきでしょうか。」と問う人々が集まり、「主イエスを信じなさい」と答えるところなのです。「主イエスを信じなさい」ということは、「主イエスを信頼しなさい」ということです。イエスが自分にしてくださることを信頼して、全面的に自分をイエスに委ねることです。その簡単なことが、罪深い私たち人間にはなかなかできずにいます。しかし、キリスト教の信仰は、二千年前から今日まで変わることなく「主イエスを信じなさい」という御言葉を受け入れることによって続いています。
それは主イエスがどんな状況にある人であろうと、救い出されるお方だからです。ご自分が十字架上のお苦しみの中にあった時でさえ、隣で十字架に架けられていた犯罪人に「あなたは今日、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう。」と約束なさったお方です。イエスは私たちのためにその命を与えてくださったお方です。どのような人をも愛しておられます。ですからその主イエスを信じなさい、信頼して委ねて生きていきなさいと言われるのです。
「(32節)そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。」パウロたちは看守とその家族たちにイエスを信じるために必要な神の御言葉を話して聞かせました。おそらく他の囚人たちも聞いていたことでしょう。看守は真夜中にも関わらず二人を連れて行って打ち傷を洗ってやりました。そしてその場で自分も自分の家族もバプテスマを受けたのです。「(34節)この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。」看守は自分一人だけが信じる者になったのではなく、家族全員が信じて喜んだのです。この世でイエスを信じる喜び以上の喜びは他にありません。長い信仰生活には、喜ばしいことだけではないかもしれませんが、たとえ何が起きても、イエスに解決できない問題はありません。ですから、たとえ人に知られたくないような苦しみの中にあってもなお私たちはイエスを信じなさいと命じられているのです。
「主イエスを信じなさい」というのは、神のご命令です。主イエスを信じたら何か良いことがありますよ、と勧めることではありません。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録4章12節)私たちはこれからも主イエスを信じて、主イエスが私たちにしてくださることを信頼して喜び、祈り、讃美する者でありたいと願っております。
(牧師 常廣澄子)