2022年8月7日 主日礼拝
ヨハネの黙示録 3章14~22節
牧師 常廣澄子
ヨハネの黙示録には七つの教会に宛てた手紙が収められていますが、今朝の御言葉はその七番目のラオディキアにある教会に宛てた手紙です。エフェソの教会から始まって、一つひとつの教会を使者が訪問してこれらの手紙を届け、その教会の礼拝に出席して手紙を朗読したのだと思います。お気づきのように、これらの手紙はほぼ同じようなパターンで書かれているのですが、似ている所とそうでない所があります。それは、どの手紙にも最初のところに、どういうお方からの手紙かということが書かれているのですが、ラオディキア教会への手紙の冒頭は、大変重々しい表現でイエス・キリストについて表現されています。
「(14節)アーメンである方、誠実で真実な証人、神の創造された万物の源である方が、次のように言われる。」アーメンというのは真実という意味ですから、このお方は神の真実そのものであるということです。そして、イエス・キリストは神に造られた被造物すべての存在の源である方だと言われています。
先ほど司会者に読んでいただきましたが、この個所にはよく知っている言葉や場面があることに気づかれたと思います。20節のところでは、ドアの前に立つイエスが、ドアを開けてくれるのを待っている姿は、多くの画家が美しい絵画に描いています。また、「(15-16節)あなたは冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであったほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」この言葉は教会以外でもいろんなところで引用されます。きっとどこかで聞かれたことがあるのではないでしょうか。
まず、15節の「わたしはあなたの行いを知っている。」という言葉は、どの手紙にも共通しています。自分のやっていることが知られているということは、ある面で怖いことですが、逆にすべてを知っていてくださるということは、私たちを限りなく落ち着かせ、平安にしてくれます。私たちのすべてを知っていてくださるからこそ、私たちはそのお方の前に立つことができるのだと思います。
では、ここで言われている「熱い」とか「冷たい」というのは、何のことを言っているのでしょうか。普通に考えれば熱いというのは神への信仰心のことでしょう。冷たいというのは、信仰を拒否しているか、あるいはその信仰が冷えていることではないかと思うかもしれません。このことを人間の生活の中で考えてみましょう。のどが渇いている時は、熱いお茶はのどを潤してくれる一番の飲み物です。最近のように厳しい暑さでびっしょり汗をかいている時には、一杯の冷たい水が生き返るようにうれしいものです。ですから熱いのも冷たいのも両方とも良いのです。熱いのが良くて冷たいのが悪いのではありません。しかしそんな時に熱くもなく、冷たくもないなまぬるい水を飲まされると我慢できずに、吐き出したくなるというのです。ここでは、イエスが吐き出したくなるような存在であっては困るということです。日本では中庸の徳といって、何でも極端を避けて、態度をはっきりさせずにあいまいにしておく傾向があります。信仰の面でも「私はなまぬるい者です」と平気で言ったりしますが、神はどっちつかずの態度を嫌って、これを斥けるのだと語られているのです。
そのようにラオディキアの教会は「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので吐き出そう」と言われているのですが、その理由が17節以降に書かれています。「(17節)あなたは『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」ここには、「金持ちだ、満ち足りている、何一つ必要な物はない」というように、富んでいる者の姿が書かれています。ラオディキアの教会はまさにそうだったようです。この満ち足りていると思う心が現になまぬるいといえるのかもしれません。ラオディキアはこの地域の金融の中心地でもあり、銀行がたくさんあったそうです。町全体が商業的に繁栄し、大変豊かだったのです。実は、この黙示録が書かれた時期から30年ほど前に、この地方に大きな地震が起こって町が壊滅してしまったそうですが、その時、ローマ皇帝が町の復興のために資金を送ろうと申し出たのを、何とラオディキアの人たちはここに書かれているような言葉で断ったらしいのです。皇帝からのプレゼントさえも断るほどに堂々と、私たちは豊かです、と誇って生きていたのです。
しかし、人間は経済的、物質的に豊かになると、快適さを求めて自己満足に終始し、思い上がって信仰が軽んじられていきます。キリストの救いを忘れてしまい、終には信仰を必要としなくなるのです。それがなまぬるい状態です。教会に集まっていながらも、霊的には非常に弱くなり自分たちの本当の姿が見えなくなっているのです。いや見ようともしていないし、気づかなくなっているのです。それが「なまぬるくて口から吐き出そう」と言われる原因でした。
おそらくこの教会を訪ねたことのあるヨハネも、その町の豊かさに驚いていたのかもしれません。これまで見てきた他の教会と違って生活は豊かですし何も困っていないのです。この町は政治的にはそれほど重要ではなかったらしくて、他の教会のクリスチャンたちが苦しんでいたような。皇帝礼拝を強制されるような緊張した事態はあまりなかったようです。
二番目に書かれたスミルナ教会への手紙には「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ(2章9節)。」と書かれていて、ラオディキア教会とは全く逆で、とても貧しかったのです。しかしそうであるにもかかわらず、スミルナの信徒たちは「本当はあなたがたは豊かなのだ」とイエスに言われています。スミルナ教会は迫害に遭い、投獄の危機の中にありながらも、最後まで耐え忍んで戦う教会でした。しかしラオディキア教会にはそれがありません。それがなまぬるいということの中味かもしれません。
17節の「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」ここでいう「惨めな者、哀れな者」とはどういうことを言っているでしょうか。パウロはローマの信徒への手紙7章24節で自分のことを「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」と言っています。パウロは、律法や主の御言葉を通して神から教えを受けていながら、その通りに生きることができない自分の弱い姿を嘆いているのです。神の前にあってすべてを裸にされた者が知る砕かれた心です。
ところで、神が人間に求められる最も大事な掟は何かといいますと、「神を愛すること」と「自分を愛するように隣人を愛すること」です。その言葉に照らしてみるなら、私たちは愛においてどんなに貧しく惨めな者か、愛においてどんなに目が見えないものであるかを認めざるを得ないのです。そこにラオディキア教会の信徒たちの惨めさがあるのですが、それが分かっていないと言われているのです。
「(18節)そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。」イエスは真実の豊かさに生きるようにとラオディキア教会の人たちを招いておられます。これらの品々は、この地がいくら商業が盛んであっても、どこからも手に入りません。イエスからしか買えない品が列挙されています。
「火で精錬された金」とは不純なものが取り除かれた純度の高い金のことです。これは本当の宝物としての比喩です。聖書は神を信じる者に「天に宝を積みなさい」と教えていますが、この天の宝は神が喜ばれる清められた心です。「白い衣」については7章14節に「その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」とあるように、神の小羊キリストが流された血潮によって罪の赦しが与えられ、清められたことによる神の義を言っています。神の前に出る時には、裸の恥をさらさないように、イエスが白い衣をくださるのです。ラオディキアは毛織物の産地で、ここで生産される織物は「黒い織物」と呼ばれていましたから、非常に対照的な表現です。また、よく見えるようになるために「目に塗る薬」を買うというのは、見方によれば大変皮肉な言い方です。実はラオディキアは目薬の生産で良く知られていたのです。医師を育てる医学校もあって、製薬事業が盛んでした。当時の目薬は今のようにスポイトで目に垂らすような液体の薬ではなく、粉薬だったそうですが、その粉を目に塗るととてもよく効いたそうです。とにかくこの町は豊かであるがゆえになまぬるい生き方をしていたのです。
(19節)わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。」
神は私たち人間を愛しておられるのです。聖書は古代から神は人間を愛するがゆえに懲らしめると語っています。「主は愛する者を懲らしめられる。」(箴言3章12節)また、ヘブライ人への手紙12章7節には「神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」と記されています。
私たちがもし目が良く見えるように、イエスから目薬を買って自分の姿を見た時には、自分の愛のなさ、醜さ、冷たさがどんなに恐ろしいものかが分かるでしょう。衣も身に着けず、裸であることを知らない恥ずかしさはどんなに絶望的なものかと思わざるを得ません。そういう私たちを愛してくださるのが友なるイエスです。
イエスは言われます。「(20節)見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。」これは復活されたイエスです。イエスが逮捕され殺されてしまいましたので、弟子たちは鍵をかけた部屋に閉じこもっていたのですが、その戸を通り抜けて弟子たちを訪ねたのは復活のイエスでした。イエスは戸口に立ってドアをたたかなくても、さっさと中に入ることもできるでしょう。しかしイエスは無理やり戸を開けることはなさいません。ドアの前に立って静かに待っておられるのです。
「(20節)だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」大事なことは「声を聞いて戸を開ける」ということです。イエスは戸をたたきながら、「友よ、開けてほしい」と私たちの愛を求めておられるのです。イエスの譬えにありますように、本当の羊飼いはその羊を愛し、羊を守ります。そして羊は羊飼いの声を知っているのです。私たちがキリストの声を聞いて心の戸を開けるまで、イエスは忍耐して待っていてくださいます。キリストはすべての人の心の戸をたたいておられます。それはすべての人が一人も滅びないで救われることを願っておられるからです。
戸を開けると、キリストは入って来て私と食事を共にしてくださいます。一緒に食事をすることは、交わりの中でとても大事なことです。本来は一つの物を分かち合い、共有することによって交わりが成立します。特に教会では主の晩餐を意味します。イエスが中に入って来て共に食事をするというのは、まさにこの主の晩餐に始まるのです。主の晩餐は、やがて来る神の国での食卓のひな型です。本日はこの後で主の晩餐に与れますことを心から感謝いたします。
「(21節)勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。」私たちがいま心の中に主イエスをお迎えして、イエスと共にいることは、イエスが再び来てくださった時に、私たちをご自身が座っておられる勝利の座に共に座らせて下さるという約束の姿なのです。そしてこれがイエスの恵みです。今日もまたイエスは限りない愛を持って、神との豊かな関係を私たちと分かち合うことを求めておられます。確かに今は厳しくて先の見えない時代かもしれません。しかし、今朝お読みした時代は今よりもっと困難な時代でした。主は今も生きておられ、私たちと共におられることを信じて、新しい週も感謝して歩んでまいりたいと思います。
(牧師 常廣澄子)