2022年9月18日 主日礼拝
ヨハネの黙示録 3章14~22節
神学生 前村俊一
おはようございます。東京バプテスト神学校から派遣された筑波バプテスト教会の前村俊一と申します。本日は志村バプテスト教会の特別礼拝において、説教実習の機会を賜りまして有り難うございます。東京バプテスト神学校は、連盟の諸教会・伝道所で捧げられる神学校献金と神学校後援会に支えられて、牧師、伝道者、主事などの教役者、あるいは信徒リーダー養成のために、聖書と神学の学びの場を提供しています。志村教会の皆さまが、神学校のことを覚え、祈りや献金をもってお支えくださっていることを、感謝いたします。授業は夜間に、コロナ禍の現在は全てオンラインで行われています。ですから働きながら学べます。現在の学生は22名、近年減少傾向にあります。私は71歳で信徒リーダーコースに入学しました。歳が歳ですから牧師になろうと思ったのではなく、神学校で聖書の学びをちゃんとしてみたい、信徒説教くらいはできるようになりたいと思ったからです。皆さんの中にも、神学校で学んでみたいという方がおられましたら、受付に神学校案内などのパンフレットを置かせていただきましたので、ぜひご覧になって、挑戦してみてください。
さて、本日はヨハネの黙示録の説教をいたします。皆さんは、「ヨハネの黙示録」というと、おどろおどろしい姿をした生き物がたくさん出てくる部分が印象に残って、読んでも恵みを受けない文書として、熱心には読んだことがない方が多いのではないでしょうか。
ヨハネの黙示録は紀元95年頃ヨハネという名の教会指導者が、彼が指導していた7つの教会に宛てた書簡の形式をとっています。ヨハネと言っても「イエスの12使徒の一人であるゼベダイの子ヨハネ」ではありません。紀元95年頃というと、皇帝ドミティアヌスの時代です。この頃の初期キリスト教会は帝国の激しい迫害にさらされていました。特にドミティアヌス帝は自らを「我らの主、また神」と呼ばせ、皇帝礼拝を強要しました。キリスト者は皇帝礼拝を拒み、ローマの神々を拝まず、キリストへの信仰を宣教したので、帝国内で強い迫害を受けました。
迫害を受けてパトモス島に幽閉されていたヨハネは、1章10節にあるように、ある主の日に霊に満たされて、幻の中で復活のイエス・キリストにまみえ、天に引き上げられて天上で、のちには地に落とされて地上で起こるさまざまな奇怪な出来事を見せられます。それらヨハネが見たことを書き留めて7つの教会に送れと命じられた預言の巻物がヨハネの黙示録なのです。
この書簡は、三部で構成され、第一部が序文と挨拶と7つの教会に宛てた手紙、4章から始まる第二部が、ローマ帝国、なかでも皇帝とその取り巻きに対する災いと裁き、21章と22章の第三部が、新天新地と新しいエルサレムの出現です。
第二部と第三部は、ローマ帝国も皇帝も神の裁きを受けてやがて滅びる、サタンも滅ぼされて、この地上に神の国が出現する。キリストが再び来られる終わりの日はすぐに来る。その時には、「命の書」に名前の記されているあなた方は救われる。その時まで時はない。だから、今信仰を堅く守って福音を信じなさいと励ます内容になっています。つまり、「ヨハネの黙示録」は全編を通して、イエス・キリストの福音を宣べ伝え、キリストの再臨は近いと告げる「救いの書、希望の書」なのです。
第一部には、復活のイエスが7つの教会それぞれに宛てた手紙文が記されています。7つの教会は、現在のトルコのギリシャに面した西岸地方の町にありました。ある教会は誉められ、ある教会は叱責されています。本日の聖書箇所のラオディキア教会は、キリストから最も厳しく叱責されている教会です。
ラオディキアは内陸部にあり、三つの主要道路の交差する要衝にあって商業と金融の中心で経済的に裕福な町でした。ユダヤ人も多く住んでいました。このラオディキアの教会に対して、アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方、イエス・キリストが15節で「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。」と言われます。
ラオディキアの近隣には有名な飲料水の水源と温泉がありました。冷たい新鮮な水は疲れた者に生気を取り戻させ、元気を与えるように、クリスチャンの生気あふれるわざが、霊的に疲れている人々に新しい力を与えます。熱い温泉が病人に有効であるように、クリスチャンの霊的に熱いわざは霊的に病んでいる人を癒すのに効果があります。ラオディキア教会の信者たちは、「冷たくもなく熱くもない」という意味が、冷たい飲み水にも病人を癒す温泉水にもならないという意味合いをもって書かれていることを理解することができたのです。
16節に「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」と言われ、19節の最後には「悔い改めよ」と言っておられます。悔い改めなければならない「なまぬるい行い」とは、一体どのような行いなのでしょう。それは、17節に「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要なものはない」と言っていることなのです。こうしたこの世の誉れ、社会的成功、高い地位、裕福で欲しいものは何でも買い揃えて、満足しているがために、いつしか霊的には「惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者」になってしまったと断言し、その上、そのことをわかっていないと言われるのです。
ではどうすればよいのでしょうか、18節でキリストは「裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。」と勧めます。「火で精錬された金」とは、いつまでも錆びない金のように試練によって鍛えられた強固な信仰、「白い衣」とは7章に記されているキリスト信者が着ている衣のことです。ラオディキアは黒い羊毛の産地で、人々は豪華な衣装を誇っていましたが、罪の結果である恥をおおうことはできません。そこで、7章14節にいう、小羊の血で洗って白くした「白い衣」をまといなさいと言います。「目に塗る薬」とは、自分の本当の姿が見えなくなった人々に、(本当の姿が)見えるようになるための目薬です。ラオディキアは有名な目薬の産地で、ここの目薬は特効薬として世界中に輸出されていました。そのためにキリストは皮肉をこめて言われたのでしょう。
このように厳しく叱って色々と勧めているのは、わたしがあなた方を愛しているからだと19節で言われます。熱心に努め、悔い改めれば、わたしはあなた方を鍛えて、キリストの義の衣を着せ、自分の本当の姿を信仰の目で見ることのできる、強固な信仰者に導くと宣言します。そして20節では、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。」と言われます。あなたはその戸を開けるだけで良い。そうすればわたしはあなたの心に入る。何を迷っているのですか。わたしはこんなに入りたがっているのに。
本日の応答の讃美歌に選んだ新生讃美歌446番の題名は「救い主はそばに立ち」ですが、原曲のタイトルは「The Savior is waiting 救い主は待っている」です。歌詞もニュアンスがかなり違っていまして、1番は「救い主はあなたの心に入るのを待っています。どうして入れてあげないのですか?ずっとずっと彼は待っていた、そして今も彼は待っている。あなたがドアを開けてくれるかどうかをみるために。ああ、彼はどんなに入りたがっているのだろう。」です。こちらの方が446番より20節の「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。」に近いですね。私は30代の頃、アメリカの南部バプテスト連盟から派遣された宣教師の集会で求道生活を送りました。バプテスマの決心のできない私は、このThe Savior is waitingを歌うたびに、イエス様が胸に迫ってきて切ない気持ちになりました。この曲の2番は「一歩踏み出せば、救い主が両手を広げているのがわかるはずだよ。 彼を受け入れれば 全ての闇は終わる。 彼はあなたの心に宿るのです。」と続きます。私は長い求道期間を経て一歩踏み出し、イエス様の胸に抱かれ、たくさんの恵みに預かり、今日の日を迎えることができました。
でも、このラオディキア教会の信者に宛てた手紙は求道中の人のために書かれたものではありません。ラオディキア教会の信者に宛てたものです。クリスチャンであっても生まれながらの罪人である私たちは、日々この世の誘惑にさらされています。職場で家庭で、友達との間で、果ては教会員同士で、傷つき、悩み、怒り、この世的な尺度で物事を考えて一喜一憂しています。そのような私たちに復活のイエス様は「わたしは戸口に立って、たたいている。」、「わたしの声を聞いて戸を開ければ、わたしは中に入ってその者と共に食事する。」と言われます。エフェソ3章17節には「信仰によってあなた方の心の内にキリストを住まわせ、あなた方を愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」とあります。毎日熱心に祈り求めて、戸口に立っておられるイエス様を心の扉を開いて招き入れ、心の内に住んでいただき、この世の闇の世界に向かう生き方から方向転換して、つまり悔い改め回心して、光なるイエス・キリストに向かって生きていきなさい。まさに19節「熱心に努めよ、悔い改めよ」の通りです。そうすれば、わたしはいつもあなたの隣の席にいて、永遠の命を授けようと言われます。イエス様は、いつでも、闇に向かおうとするあなたのそばに立っておられます。
(神学生 前村俊一)