2022年10月2日 主日礼拝
ヨハネの黙示録 4章1~11節
牧師 常廣澄子
本日はヨハネの黙示録4章のみ言葉から聞いてまいります。
パトモスという島にいた著者ヨハネは、1章10節にありますように「ある主の日のこと、わたしは霊に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。」のです。ヨハネが声の主を見ようとして振り向くと、「七つの金の燭台が見え、燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであった。右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」と、1章12節~16節に書かれています。とにかくその声の主のお姿はまばゆいばかりに輝いている栄光のお姿でした。
この方がヨハネの上に右手をおいて言われました。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている(1章17-18節参照)。」ヨハネにご自身を現わされたこのお方は、十字架に架けられて死んで復活され、今や全能の父の神の右に座しておられる、栄光に輝く真の神の御子イエス・キリストであることは明らかです。ヨハネはこのお方を霊の目で見たのです。
このイエス・キリストの啓示を受けて、アジア州にある七つの教会宛てに書き送った手紙が、1章から3章に書かれていました。本日お読みいただいた4章は、この復活のイエスがおられる天上界の有様です。天の法廷あるいは神の神殿と言っても良いかも知れません。この後、6章からほとんど終わりまで、この世に起こる恐ろしい災いが次々と語られているのですが、その災いが書かれる前に、まず4章5章では天における礼拝について書かれているのです。本日はその前半部分です。
「(1節)その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパが響くようにわたしに語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。『ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう。』」ヨハネはラッパが響くように語りかける声を聞きました。「あの最初の声」とは、1章10節で7つの教会に手紙を送るように言われたキリストの声です。今までヨハネは天からの光を受けて、地上で語っていたのですが、「ここに上って来なさい」というお声を聞き、天の門に近づくことが許されました。そしてそこでヨハネ自身が神の玉座を見ながら語っているのです。それはまるで現代のコンピューターグラフィックのように、屋根や壁を突き破って建物の内部を見ていくような状況ではないでしょうか。
「(2節)わたしは、たちまち“霊”に満たされた。すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた。」ヨハネは、天の玉座に座っているお方がいるのを見ました。肉眼で太陽を見ることができないのと同じで、人間は直接神を見ることはできません。しかしヨハネは幻で神のお姿を見たのです。夢や幻を見た時、それを誰かに言葉で伝えるのは大変難しいことです。ヨハネはそのお方の高貴で輝くような有様を、碧玉や赤めのうというような宝石に譬えて表現しています。そして玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていたというのです(3節)。また、玉座の前には、七つのともしびが燃えていて、そこは水晶に似たガラスの海のようでした。玉座からは稲妻、さまざまな音、雷などがほとばしるように出ていました(5-6節参照)。
ここに描かれている幻はエゼキエル書1章に書かれている幻と大変よく似ています。エゼキエルがいた時代とヨハネが生きていた時代の間にはおよそ500年以上の隔たりがありますが、二人ともある時、天が開かれて、同じように天の玉座の幻を見たのです。たぶんヨハネはエゼキエル書を読んでいたと思いますから、天上の幻を表すのに同じような表現を用いたのだと考えられます。
さらに、この玉座の中央とその周りには四つの生き物がいたとあります(6節)。その生き物は、前にも後ろにも一面に目がついていました。また、第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようでした(7節)。これら四つの生き物についても、エゼキエル書1章によく似た表現があります。さらにその外側には、玉座を囲むように二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て頭に金の冠をかぶった二十四の長老が座っていました(4節)。
黙示録を読んでいると、私たちはこのような幻で示されたことはいったい何を表しているのか気になります。この四つの生き物は何のことだろう。前にも後ろにも目があるというのはどういうことなのだろう。獅子や若い雄牛や人間のような顔を持つものや空を飛ぶ鷲は何を表しているのだろうと。実際、多くの人たちはこのことを真剣に調べて研究し、これらは古い神話から来ているのだとか、バビロンの占星術から来ていて四つの生き物は星座に当てはめているのだとか、四つの王国を表しているのだ等と説明しています。後の時代になりますと、四つの生き物というのは四つの福音書のことを表しているのだと解釈されるようにもなってきました。
また、二十四人の長老についても、死んで栄光を受けた信徒たちであるという説や、天で仕えている天使のような存在であるという説があります。二十四という数字については、イスラエルの十二部族と新約の十二使徒を合わせた数字だと説明する学者もいますし、二十四は四の六倍であることから、へブル文字で六は人間を表し、四は全世界を表すので、全世界の人間を表していると言う説もあり、旧約時代に神殿の祭司が二十四の組に分かれていたことから来ているという説もあります。実は、このようにいろいろな解釈があるということは、まだよくわかっていないということなのです。
天の国について想像するのは楽しいことです。しかし、幻の意味について気を取られすぎると、幻が持つ大切なその本質を見失ってしまいます。幻なのですから、明快な説明や解釈ができないのは当然のことだと思います。大事なのは、この四つの生き物と二十四人の長老たちが何をしているかということではないでしょうか。ここでは、四つの生き物も二十四人の長老たちも共に神を賛美し、礼拝しているのです。四つの生き物は昼も夜も絶え間なく神を賛美しています。玉座に座っておられ、世々限りなく生きておられるお方に、栄光と誉をたたえて感謝をささげ続けているのです。「(8節)彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方。』」ここを読むと、この幻はイザヤ書6章にもよく似た表現があり、互いに関連していることがわかります。ここには、繰り返し、繰り返し主を賛美してもなお足りない、あふれ出てくる賛美があります。全能者であられる神をほめたたえずにはおれないのです。このように本来、主なる神を褒めたたえることが私たちの信仰なのです。
天においては、二十四時間いつでもこの賛美が続いています。私たちはいつでもこの賛美の歌声を聞くことができます。生きるのが苦しく辛い時、何もかもうまくいかずに絶望の底に沈むとき、不安でたまらない時、危険が忍び寄って来ておびえている時、辛くて悲しくて真っ暗闇にいる時、天からの賛美が聞こえてくるのに耳を澄ましたいと思います。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」今日、私たちが心にしっかり刻んでおきたいのは、天においては昼も夜も絶え間なく礼拝が行われているということです。
しかし「かつては私もそのように賛美していた。でも今はとてもそんな気持ちになれない。」という人もいるかもしれません。「神様がいるのならどうしてこんなことが起きるのか、神様なんかいないのではないか」と思っている人がいるかもしれません。「神が全能であるならば、どんなことでもおできになるはずなのに、どうして私の願いを聞いてくださらないか。」と思っている人がいるかもしれません。そのような思いがある時は私たちの口から賛美が消えてしまいます。しかしそのような私たちに向かって、天からの賛美が響いて聞こえてくるのです。
その賛美を聞いて私たちは思い出すのです。「そうだ、全能の神がおられる。いつも私に伴っていてくださる主がおられるのだ。」そう気づいた時、今までの人生で励まされたいろいろな聖書のみ言葉が思い出されてくるでしょう。そして私たちも賛美することができるようになるのです。私たちはどんな時もいつも共にいてくださるお方の懐に抱かれていることを知るからです。天でささげられている賛美と、私たちの賛美が一つになって主を賛美し礼拝するのです。
「(9-10節)玉座に座っておられ、世々限りなく生きておられる方に、これらの生き物が、栄光と誉れをたたえて感謝をささげると、二十四人の長老は、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言った。」四つの生き物が栄光と誉れをたたえて感謝をささげると、二十四人の長老は玉座についておられるお方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられるお方を礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出して言います。「(11節)「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。」と。
二十四人の長老たちは自分たちの冠を玉座の前に投げ出しました。冠というのは、誉や栄誉を受ける印です。競技に優勝した人にはオリーブの枝で作った冠が頭にかぶせられます。人々はその人をほめたたえます。誰でも褒められることは嬉しいことです。褒めるというのはその人を肯定することだからです。しかし、批判や裁きはその人を否定したかのような気持ちにさせます。
私たちは誰でも良いところがあり、人に褒められることがあります。しかし褒められるとつい得意になって自信過剰になってしまいます。自分で自分を褒めたたえて、思い上がってしまうのです。大事なのは、自分に与えられた栄誉を自分の物にするのではなく、その賜物をお与えくださった神を褒めたたえることです。長老たちが自分たちの冠を玉座の前に投げ出したのはそういうことでした。私たちが持っているものはすべて神が与えてくださったもので、自分の物ではありません。ですから神に誉をお返しし、神を褒めたたえるのです。二十四人の長老は言います。「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。」栄光と誉を受けるにふさわしいお方は主なる神だけです。私たちはこの地上において、主なる神を賛美し礼拝するのです。それが私たちの信仰であり、生きる拠り所です。
今、私たちは主の日の礼拝に集まっています。私たちが礼拝に来るということは、まず友の顔を見て喜び、挨拶し、語り合い、御言葉の説教を聞いて共に祈って共に賛美して主を礼拝します。しかし、ここを読みますと気づくことがあります。礼拝は、私たちが天上の礼拝を思い、「ここに上がって来なさい」と呼んでおられるお方のもとに招かれているということです。私たちは「ここに上がってきなさい」というイエスの執り成しによって、救いの門に導かれているのです。そして私たちは今ここで天上の礼拝に参加しているのです。地上での私たちの礼拝はその縮図でありひな形です。私たちの礼拝は天の礼拝につながっていて、私たちが歌う賛美は天における賛美に合わさっているのです。天においては昼も夜も絶え間なく賛美が歌われ、礼拝がささげられているのです。
今私たちの生きている世界状況は大変厳しくて、日々様々なことが起こっています。異常気象による自然災害だけでなく、政治的にも経済的にも日々刻々と世界情勢は動いていますし、それと同時に日本社会も動いています。新型コロナウイルスという感染症もそうですが、次々と恐ろしい事件や困難な問題が起こって、人々を苦しめ悩ませています。自分自身の問題だけでなく、家族のことや職場のこと、ひいては日本や世界の将来について不安な事ばかりです。しかし、天では「かつておられ、今おられ、やがてこの地上に来られるお方」に対して、絶え間なく礼拝が行われているというのです。日々襲ってくる災いや困難の中で、ふと天を仰ぐとそこで礼拝がなされているのです。それは暗闇に一筋の光を見る思いです。困難に立ち向かう力が与えられ、希望を持って私たちは生きていくことができます。心の耳で天上から賛美の声を聞き、私たちも心から主を賛美したいと願っております。
(牧師 常廣澄子)