2022年10月30日
主日礼拝
マタイによる福音書 28章16~20節
牧師 常廣澄子
本日はマタイによる福音書の最後の部分から、御言葉を聞いていきたいと思います。皆さまもよくご存知のように、マタイによる福音書の冒頭は主イエスの系図で始まっています。1章の半分くらいはずっとカタカナの名前が続いています。そしてこの福音書には幼少期を除いてイエスの御生涯が書かれています。その御生涯の終わりの部分ですから、本来ならば死で終わりのはずですが、イエスの御生涯は死で終わりではなかったのです。復活されたこと、さらには復活後のことにまで及んでいます。
使徒言行録(1章3節)によれば、復活されたイエスは、御自分が生きていることを数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について語られました。復活されたイエスが天に上げられるまでになさったことは、御自分の復活の姿を示すことによって、弟子たちの信仰を励まして確固としたものとし、神の国の福音を語り伝える使命を弟子たちに授けたのです。
復活されたイエスが弟子たちに現れた場所は、福音書によって異なりますが、ガリラヤで顕現されたと書いてあるのは、ヨハネによる福音書21章とマタイによる福音書のこの部分です。この前の28章10節にありますように、復活のイエスがお墓に行った女性たちに現れて「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」と指示されたからです。従って11人の弟子たちはガリラヤに行き、山の上でイエスにお会いしたのです。16節に「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。」とあるとおりです。山というのは、旧約時代から神が顕現される場所でした。
ガリラヤの山の上と言いますと、そこはイエスが神の国の福音を説いたガリラヤ湖畔の丘であり、多くの人々の様々な病気を癒された場所ではないでしょうか。そこで、復活の主イエスにお会いした弟子たちは、主の前に「ひれ伏した」と書かれています。生前、イエスが活動されていた時も、人々はイエスを拝しました。もちろん弟子たちもイエスを敬い拝したこともあったでしょう。しかしそれはイエスに何かをお願いする時であり、イエスが成された奇跡に驚いた時でした。しかし、この時、弟子たちがイエスの前にひれ伏したのは、今までとは全く事情が異なります。今までイエスが語って来られたことが成就され、すべてが真実であることが明らかとなって、このお方がどなたであるかが分かった今、弟子たちはイエスの前にひれ伏さざるを得なかったのです。
イエスが十字架につけられる前、弟子たちはイエスと親しい交わりの中で共に生活していました。しかしそのような親しい関係があったにも関わらず、イエスが十字架につけて殺されるとわかった時、弟子たちは皆逃げてしまったのです。イエスの十字架は彼らの交わりを破壊しました。弟子たちはイエスを拒否したのです。ですから、ここに集まって来た弟子たちの心には、イエスを裏切ってしまったという負い目がありました。そういう意識が彼らの心を幾分固くしていたかもしれません。しかし今、弟子たちはイエスに近づくことができたのです。「(18節)イエスは、近寄って来て言われた。」イエスの方から弟子たちに優しく近づいてこられたのです。罪悪感に囚われていた弟子たちにとっては、イエスが近づいて来られたのは、彼らの負い目や罪深さが赦されていることの表われでした。弟子たちはどんなに感謝したことでしょう。イエスは彼らの罪を赦し、更に重く大切な働きを託そうとしておられたのです。弟子たちの心はイエスに対する新しい期待と新しい信仰に燃えていたと思います。
本当に神の御子イエスを知るということは、そういうことではないでしょうか。この世の中で、誰か偉い人にお会いすることとは全く違って、弟子たちは今や自分たちの救い主を見たのです。しかし、ここでは思いもよらないことが書かれています。「(17節)しかし、疑う者もいた。」と。主イエスの復活については、生前のイエスが語られ、予言されていたことでもありました。それが今成就しているのを目の当たりにしながら、なお疑う者がいたのです。つまり、復活というのは、それほどまでに驚くべき出来事であったということです。実際、それは信じがたいことであったのだと思います。これは二千年前の話だけではありません。いつの時代でも、イエスを信じる者と疑う者とがいるのは、人間社会の不思議なところだと思います。
「(18節)イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。』」
イエスが天においても地においても一切の権能を授けられたというのは、イエスが真に天と地の主となった、ということです。今の季節は青空が澄み渡って「天高く馬肥ゆる秋」と言われますが、天というのは、空の事ではありません。神がおられる栄光の座のことです。イエスは十字架と復活の業を成し終えて、今は神の右の座、栄光の座についておられるのです。そして、創造主である神が世界を支配されておられるように、イエスは創造された世界の主であられるのです。
しかしイエスが人間社会のあらゆる面で、つまり政治や生活面のすべてで直接主となられたということではありません。人間の生存に関する根本的なことについてのことです。つまり、イエスがその十字架と復活によって人間の罪を贖い、死を滅ぼしたこと、そして人間に永遠の命を与えたことを指しています。これが福音です。先週は「信仰による義」についてお話ししましたが、イエスの十字架と復活の事実を自分事として信じる時、つまり自分に与えられた恵みの出来事として受け取る時、そこに救いがあるのです。そしてそこから伝道が始まります。
伝道は、すべての人にイエスを紹介し、イエスとの出会いを促し、そのイエスに対する信仰へと導くことです。すべての人が、神の御子イエスが与えてくださった救いを受け入れて、そのお方と共に人生を歩むことができるようにと願いながら行動することです。
では、イエスが神から授かっている権能(権威)がどのようなものか、ダニエル書から見ていきましょう。ダニエル書では、「人の子」という表現でイエスの働きについて書かれています。「(7章13-14節)見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。」これは、死を滅ぼされて復活されたイエスが、天に上って栄光の座に着かれ、最終的にこの世の主権者となったということです。
「(19節)だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、(20節)あなた方に命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」先ほどお読みしたダニエル書に「諸国、諸族、諸言語の民は皆」という表現がありましたように、福音の伝道はあらゆる国々のすべての民に対してなされるべきことであって、何の差別もあってはならないのです。ですから今でも、ウィクリフ聖書翻訳協会では、世界中のあらゆる言語に対応する聖書を作ろうと努力しています。世界にはまだ翻訳されていない言葉がたくさんあるからです。
ウィクリフ聖書翻訳協会の2020年10月の統計によると、全世界の言語が約7350語ある中で、聖書全巻があるのは704語。新約聖書があるのが1551語、聖書の分冊があるのが1160語、聖書翻訳プロジェクトが進められているのが2731語となっています。世界にはまだ自分の母語で聖書を読めない人々がたくさんあり、母語で御言葉を味わえるようになることを待ちわびている方々がたくさんおられるのです。日本から世界の各地に出かけて行って聖書翻訳に携わっておられる方々もおられますが、「だから、あなた方は行って」とありますように、主を信じて活動する人はどこにでも喜んで出かけていきます。
それは主の福音を伝えて、すべての民をイエスの弟子とするためです。イエスは十字架にかかられるためにエルサレムに入場された時、このように言われました。「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る(マタイによる福音書24章14節)。」また、ルカによる福音書2章10節では、天使が「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」と語っています。そのお言葉の実体が今、復活したイエスから弟子たちに託されたのです。
ここには、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け」というように、洗礼(バプテスマ)を受けることの大切さが書かれています。イエスご自身、ヨルダン川でヨハネによって
洗礼(バプテスマ)を受けられました。このヨハネによる洗礼(バプテスマ)は、悔い改めに導く水のバプテスマでした。ヨハネは人々に語っています。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼(バプテスマ)を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼(バプテスマ)をお授けになる(マタイによる福音書3章11節)。」
洗礼(バプテスマ)というのは、イエスの死と復活を信じることによって、古い自分に死んで、新しい人として生まれ変わり、聖霊に導かれて生きる人として創造されることです。神の救いの御業を信じる人を、神ご自身が新しく造り変えてくださるという驚くべき恵みのことです。神のなされた御業を信じることは素晴らしい恵みです。そしてその人が洗礼(バプテスマ)を受けてさらなる恵みに与ることは、キリストのご命令なのです。ここで「父と子と聖霊の名によって」とありますが、「によって」というのは「に向かって」という意味でもあります。洗礼(バプテスマ)を受けることによって、父なる神と子なるイエス、そして主の聖霊との生きた交わりに入れられることを表しています。この三つが洗礼(バプテスマ)に結びついているのは聖書の中ではここだけです。
「(20節)あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」命じておいたすべてのこと、とは何でしょうか。イエスは公生涯の三年の間、神の国の福音についていろいろなことを話されました。イエスが教えられたのは、古い律法を完成させるための全く新しい教えでした。それは愛に根差す教えです。また人々の心に平安を与える福音でした。
主を信じて洗礼(バプテスマ)を受け、新しい生活に入るということは、主と共に生きることです。そのためにここで「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」というイエスからのあたたかく優しい約束があるのです。私たちが神を信じ、イエスの教えを生きることができるのは、イエスが共にいてくださるからです。そういう意味で、イエスが世の終わりまで共にいてくださることは、この福音書の結論になっています。つまり、福音というのは、主なる神が信じる者と共に世の終わりまで共にいることを確信させてくれるものです。これはイエスの宣言であり、何者であろうとこの約束を覆すことはできません。
また、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」この終わりは、単なる自然の終わりではなく、神が終わらせられる終わりです。つまり完成です。完成されるから終わるのです。世の終わりまでいつも私たちと共にいてくださるお方は、世を完成させるお方です。キリストの救いの御業によって、この世は完成されていくのですが、この世を完成させるお方は、この世を創造された主なる神です。そして「いつも」、つまりどの日もどの日も、来る日も来る日も、世界を完成に向かわせるために私たちと共にいてくださるのです。
弟子たちに伝道という大きな使命を与えられた復活のイエスは、同時に大きな励ましをも与えられたのです。全世界に福音をもたらす力は人間の力ではありません。栄光の座に着かれたイエスが、キリストを信じるすべての者と共に世の終わりまでいつも共にいてくださるのです。キリストは彼を信じて生きる者、彼のために働く者と共にあって、彼らを助けるという約束をしてくださったのです。この約束を信じ、新しい週も感謝して歩んでまいりましょう。
(牧師 常廣澄子)