巻物を解かれる方

2022年11月6日(主日)
主日礼拝

ヨハネの黙示録 5章1~14節
牧師 常廣澄子

 ヨハネの黙示録は、著者ヨハネが見た幻について書かれています。この幻は神がヨハネにお示しくださった啓示ということができます。しかしこの幻は大変奇妙で何のことかなかなか分かりづらいのです。そしてそれを見越したかのように、繰り返し繰り返し、「耳ある者は、霊が諸教会に告げることを聞くが良い。」と語られています。今これを読む私たちもまた、心の目、霊的な目を開いてこの幻を見、また霊の耳をしっかり開いて聞いていきたいと思います。

 今朝は5章を読んでまいります。まず始めに「(1節)またわたしは、玉座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た。表にも裏にも字が書いてあり、七つの封印で封じられていた。」とあります。「玉座に座っておられる方」というのは、聖なる御座におられる唯一のお方です。このお方は右手に、表にも裏にも字が書いてあって、しかも厳重に封印がしてある巻物を持っておられました。今でも現金書留など大事なものを送る時には、二重に蓋をして印をいくつも押したりしますが、七つの封印で封じられているというのは(七は完全数)大変厳重に封印されて誰も開けられないようになっていたということです。誰も開くことができず、誰も見ることもできないということは、誰もそこに手を付けることが赦されていない、開けてはならないということです。そうすると、これはいったい何が書かれているのかと大変気がかりである以上に、非常に不安を覚えますし、恐怖さえ感じてしまいます。

 2節を読みますと、一人の力強い天使が「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者はだれか」と大声で告げました。ところが「(3節)しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開くことができる者、見ることのできる者は、誰もいなかった。」というのです。天使の呼びかけに対して、天にも地にも地の下にも、つまり広い宇宙には誰一人としてこれに応えられる者がいなかったというのです。これは、ここに書かれていることが、人間の限界、人間の領分を超えていることだということではないでしょうか。神の存在の崇高さは、人間社会における支配者のような存在とは比較にならないくらい遥かに勝っています。また神は、この世界に対して抱いておられる計画を、そう簡単には地上の民に分かち与えることはなさらないということなのでしょう。天使の呼びかけに対して全世界が沈黙していたことは、つまり人間の理性や力によって、神の御計画が把握されるものではないということだと思います。

 ヨハネは封印されている巻物が気になり、不安で仕方がないだけでなく、それを開いてくれる人がいないことが悲しくて激しく泣いています。「(4節)この巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見当たらなかったので、わたしは激しく泣いていた。」とあります。ここにはいったい何が書かれているのでしょうか。それを開いて解き明かしてくれる人がいないのです。まず、その七つの封印で閉じられた巻物を受け取ることができるふさわしい人がいないと言っています。「ふさわしい」という言葉が何度も出てきます。(4章11節、5章2節、5章4節、5章12節)その巻物を手に取って開くことができるふさわしい方は、そうする資格があり、そうする権威がある方です。

 私たち人間は、心の中にあるわだかまりや、何かもやもやした黒い闇を解くことができなかったら大変辛いし苦しいことです。「誰かこれを解いて、解放の道を開いてほしい。」と切実に願うことでしょう。また、人間は誰でも自分は何のために生まれたんだろう、何のために生きているのだろうと考え悩むことがあります。哲学を学び、いろんな学問を研究したり、いろいろな宗教の門をたたいて教えを乞うたり、厳しい修行や体験をしたり、とにかくいろいろなことをやって、様々な挑戦をしてみますが、その答えを得ることは非常に難しいことです。

 人は皆死にます。死なずにすむという解決方法はどこにもなくて、人は皆公平に死んでいくのです。生きている理由も分からないままで終わりを迎えます。人間は今、目の前の束の間の楽しみによって、死ということを忘れようとしているだけかもしれません。そんな人生は大変はかなく、虚しいことです。人間は本当の意味で生きる力を奪われている悲しい存在かもしれません。こういう話は、今の現実生活とは関係がないと思われるかもしれませんが、人間として大変大事なことです。大変憂えるべきことに、普段私たちは、今見えること、今聞くことに一喜一憂し、左右されながら生きていて、静かに霊的に自分の生き方を考えることができなくなっているのです。

 そういう意味で、礼拝というのは、私たちの日常生活の手を休めるだけでなく、私たちの心にびっしりついている見せかけの自分や肉的な脂肪が取り除かれて、澄み切った霊的な目を与えられ、御言葉が語っていることが見えてくるようになるのです。礼拝という主の御臨在の場で、聖霊の導きによって、私たちもヨハネと同じように、巻物を持って玉座におられるお方を見上げることができるのです。この場合、ヨハネが切に願っている巻物を解くふさわしい方がいないという悲しみやその苦しさは私たちの嘆きでもあります。ここでヨハネが激しく泣いたという嘆きは絶叫して泣き叫ぶことです。心からの慟哭です。それは私たち一人ひとりの涙であり、ひいては全人類の涙でもあります。

 するとここで驚くべきことが起こりました。長老の一人がヨハネに言ったのです。「(5節)泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。」ご存じのように、イザヤ書11章1-2節には「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。」とあります。ユダ族の名もない羊飼いエッサイの末息子ダビデから、救い主イエスが生まれたことを紀元前7世紀の預言者が伝えているのです。

 全人類にとって、大きな悲しみと虚しさの原因となっているのは、死と滅びの問題です。それを打ち破られたお方が救い主イエスです。イエスは全能者にして勝利者であられます。このお方こそが封印を解くことがおできになるというのです。解いて読むだけではありません。その問題を解決してくださるお方です。
コロサイの信徒への手紙2章13-14節には、「罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神はわたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」とあり、主なる神が、イエスを信じる者の罪の罪状書きである証書を破棄してしまわれたというのです。神の御子イエスは封印を解いて読むことができるだけでなく、ここにある問題をすべて解決してくださったお方なのです。恐るべきことが私たちに降りかかってこないようにと、ご自身が代わりに裁きを受けてくださったのです。私たちの恐れていることをすべて解決してくださいました。すなわち、救いへの道、罪から解放される扉を開いてくださったのです。

 ではこの場面をもう一度見てみましょう。これは以前も申し上げましたが、天上の神聖な神の大広間での出来事です。4章に詳しく書いてありますが、大いなる御座のある、神秘に満ちた荘厳な光景です。ヨハネは泣きながらそこを見たのです。「(6節)わたしはまた、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、屠られたような小羊が立っているのを見た。小羊には七つの角と七つの目があった。この七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である。」

 ヨハネは、玉座と四つの生き物の間、長老たちの間に、つまり真ん中に「屠られたような小羊」が立っているのを見たのです。「屠られたような」というのは、毛をそられ、丸裸にされて殺されている姿です。きっと喉には致命的な傷がついていたことでしょう。燦然と輝く荘厳な姿ではありません。そこには目を覆うばかりの悲惨さがあります。黙って苦しむこと以外何もできずに犠牲となった小羊の姿です。イザヤ書53章2-7節には、苦難の僕としてのイエスが象徴的に描かれていますが、まさにこの小羊はイザヤの預言通りの姿です。神の御子でありながら、誰も彼を尊ばない中を最も低くされたお方として、自らの命を十字架に捧げられたのです。十字架につけられたイエスのことを、バプテスマのヨハネは「見よ、神の小羊だ」と語りました(ヨハネによる福音書1章36節)が、私たちに代わって十字架につけられたお方のことを「神の小羊」というのは、旧約時代から預言されていたからです。

「小羊には七つの角と七つの目があった。この七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である。」七は完全を表す数字ですので、これは小羊であるイエスが、全世界、全宇宙、全時代を統べ治めておられるお方だということです。彼を受け入れず理解しない人々は、ただこのお方を嘲弄することしかできません。しかし、このお方こそが終末の歴史の封印を解くことがおできになる方なのです。このお方は歴史の隠された奥義を見ておられるからです。なぜなら、彼ご自身がこの奥義のために苦しみ通されたからです。

 さてついに、この小羊が玉座から巻物を受けとりました。「(7節)小羊は進み出て、玉座に座っておられる方の右の手から、巻物を受け取った。」神の支配と権能がキリストに渡されたのです。これから先、神の救いの計画を実現し審判を行うのはキリスト・イエスです。新しい時代がきたのです。

 ここからは、玉座の真ん中に立っているイエスに向かって、すべてのものを代表する四つの生き物と二十四人の長老たちが一斉に心からの祈りと賛美をささげます。「(5章8-10節)巻物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、竪琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖なる者たちの祈りである。そして、彼らは新しい歌をうたった。『あなたは、巻物を受け取り、その封印を開くのにふさわしい方です。あなたは、屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、御自分の血で、神のために人々を贖われ、彼らをわたしたちの神に仕える王、また、祭司となさったからです。彼らは地上を統治します。』」
彼らはおのおの「香のいっぱい入った金の鉢」を捧げて小羊の前にひれ伏しました。旧約時代には、神殿に捧げられたいけにえを焼く時の香りで、神の怒りをなだめるということがありました。しかし今ここでの香は「聖なる者たちの祈りである」と書かれています。かぐわしい香りは私たちの祈りなのです。それが神の喜ばれる香りです。

 ついに神の小羊が解決をもたらしましたので、これから力強い賛美が始まります。まず四つの生き物と二十四人の長老たちは、竪琴をもって新しい歌を歌います(9-10節)。新しい歌とは、「あなたこそ巻物を取ってその封印を開くにふさわしいお方、あなたはすべての人を贖われるお方」という賛美です。そしてこれに呼応するかのように天の大群が加わるのです(11-12節)。「その数は万の数万倍、千の数千倍であった。」と言います。そして最後は「天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるもの(13節)」が合流するのです。これは全宇宙に鳴り響く爆発的な賛美です。何とすごいことが起きることでしょう。

 今、私たちの住むこの世界で起こっていることは、辛く悲しいことに満ちています。悲嘆にくれ、呻きと痛みとつぶやきに満ち、人々の魂はうなだれています。封印を解き得るお方を知らないからです。しかし小羊イエスの贖いを知った時、もはや悲しみや弔いの歌ではなく、全被造物に響き渡る新しい歌、全宇宙的な賛美の歌が歌われます。勝利者である小羊イエスの前には、いかなる国家や民族、言葉の違いもなく、私たちは皆、み使いたちがささげる天上の賛美に合せて歌うのです。私たちは初代教会の頃から今に至るまでずっと、天上の礼拝に合せて地上におけるこの礼拝を捧げてきました。この礼拝の真ん中に立っておられるお方は、かつて屠られた小羊イエスです。このお方こそが私たちの主であられ、王の王、主の主と告白されるお方なのです。

 コロナ禍によって地上の教会が歩む道は以前に増して厳しいものがあります。終わりの時が完成するまで、ますます困難な歴史的危機の道が続いていることが予想されます。しかし、私たちは目を覚まして主を見上げ、このお方こそが全世界の救い主であることを信じ、告白し、賛美し、証していきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)