知識と愛

2022年12月18日
主日礼拝『 待降節第四主日 』

コリントの信徒への手紙一 8章1~13節
牧師 常廣澄子

 この個所は、パウロがコリント教会から届けられた質問状に答える形で語っています。まず7章では結婚と独身をめぐる問題について語られていました。それに続いてこの8章では、偶像に供えられた肉を食べてよいかどうかという問題について語っています。これは単に食べるか食べないかということだけではなく、偶像に対してはどのように対応するかという信仰の問題であり、偶像に囲まれて暮らしている私たち日本人キリスト者にとっては実に身近で大切な問題だと思います。

 ところで人間が住む世界では、どの時代をとってみてもその時代特有の問題があります。ことに、キリスト教会とその教会が置かれている社会との関係は切り離せません。今日、私たちの間にある問題はこれと同じではないかもしれませんが、似たような問題は多いと思います。この問題は、当時のコリント教会の人たちにとっては極めて具体的で切実な問題であり、日常生活のいろいろな面で影響がありました。

 コリントの社会生活は、他のギリシアの諸都市と同様に、公的にも私的にも宗教的行事と密接な関係を持っていました。例えば市場で売られている肉類は、多くの場合、神々の宮に一度供えられたものでした。一般市民はそれを買って食べていたのです。あるキリスト信徒は、それは偶像礼拝に通じるのではないかと不安になり心配しました。またギリシアの諸都市では年中いろいろの祭礼が行われ、それに関連した祝宴も同時に開かれました。それは時には神々の宮で、また時には個人の家で行われました。このような祝宴に出席することは、社会の一員として当然なすべきことであったのかもしれません。しかしキリスト信徒としては、これに参加することは拒否すべきではないだろうかと悩む人々もいたようで、コリント教会の中にはいろいろな問題があったのです。

 さて、そういう課題を抱えているコリント教会の人たちに、パウロはこう切り出しています。「(1節)偶像に供えられた肉について言えば、『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです。」
これはどういうことを言っているのでしょうか。
パウロはここでまず神への信仰の基本を確認しています。神というお方は、一切の存在物の根源となるお方だから、唯一無二の存在である。また、偶像というのは、人間の欲望の対象物として、神ならぬものを神として造り上げたものであり、実体のないものである。だからそのような偶像に供えた肉を食べたとしても、その偶像に汚される(何か罰が当たるとか、害を受ける)というようなことはあり得ない。そういうことは、キリストを信じた者なら皆知っているということです。「『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです。」とあるように、パウロはこの考えに同意して、知識としては確かに正しいと言っています。しかし正しいと言われている知識が絶対化されていく時、そこには大きな危険が生じることをパウロは洞察しているのです。

 以前にお読みした6章12節では「わたしには、すべてのことが許されている」という考えのもとに、神にある自由をはき違えてしまう人間の愚かさについて学びましたが、パウロはここで、そのような知識や自由は、本当に人間の救いのために役立つものなのだろうか、その知識は私たちの益になるものだろうか、キリストの身体である教会を建てるために必要なことなのだろうか、と問うているのです。制限のない自由は、結局自分を主人としてしまい、自分の欲望の奴隷になり果ててしまうことをパウロは知っていました。そこで続けて、「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」と言っているのです。これは知識があることを排除したり批判しているのではありません。知識が愛になっているかということです。パウロのこの言葉こそが、この問題を具体的に処理していく上で、大切な基本的指針となるのです。つまり愛のない知識は自分を誇り、他人を破壊する力ともなってしまうということです。愛は人の徳を建て、教会の交わりを形成する力として働くものですが、愛と結びつかない知識は、建設的ではありません。むしろすべてを破壊する力として働き、そこには問題の解決はないのです。

「知識は力である」と語ったのは、17世紀のイギリスの科学者フランシス・ベーコンです。確かに科学が発達して新しい知識が増してくると、人間は文字通り、山をも動かすほどの力を持つようになり、いろいろと便利なものが発明されて、人間の物質的生活水準は飛躍的に発展してきました。しかし一方では、その科学の知識や力が、隣人や隣国、つまり他者への愛と切り離されて用いられた時には、そこにはものすごい自然破壊が引き起こされ、人間を死傷させたりして夥しい被害が生じることになるのです。知識が増したがゆえに、かえって本当の平和や安全からはるかにかけ離れた不安や危機が、今日の世界を支配するようになっています。現実に今起きているロシアとウクライナの戦争は、無人の兵器が動き回っています。愛のない知識が成すさまは、まさにこのような愚かな破壊行為や虐殺を行ってしまうのです。

「(2節」自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。」これはソクラテスが語った「無知の知」を思い起こす言葉ですが、本当の知識は人間を謙遜にします。箴言1章7節には「主を畏れることは知識のはじめ。」と言う有名な御言葉がありますが、人間は主なる神を知った時に本当の知識を得ることができるのです。「(3節)しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」私たちが神について何か知っているところがあるならば、それはむしろ私たちは神についてなお無知であるにも関わらず、神によって知られているのだということに他なりません。パウロはガラテヤの信徒への手紙4章9節でも「今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」と同じようなことを語っています。

「(4節)そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。」「偶像に供えられた肉」を食べることについてどう考えどう対処したらよいか、これがコリント教会の当面の問題でしたが、パウロはこの答えを語る前に、まず「偶像とは何か」ということについて考えています。
「唯一の神以外にいかなる神もいない」という信仰は、ユダヤ人たちが朝夕唱えている信仰告白(申命記6:4)にもあり、それを受け継いだキリスト教信仰の基本です。しかし、実際には5節にあるように、「多くの神々」や「多くの主」がいると思われていたようです。コリントにおいても多くの異教の神々への礼拝や祭儀が行われていて、新しく教会に加わった人たちの中には、そういうことに関してまだはっきりとした知識を持つことができずに「弱い」立場の人たちもいることをパウロはよくわかっていたのです。それだけにここで、キリスト信仰をあいまいなままにしておいてはいけないと強く感じたのだと思います。

「(5-6節)現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」パウロがここで、万物は唯一の神から出て神に帰し、また万物がこの神によって造られたということを強調しているのは、そのことを通して、万物はすべてこの神によって造られた尊いもの清いものであり、それ自体で汚れているものはないのだということを伝えるためです。従ってたとえ「偶像に供えられた肉」であ
ったとしても、それを食べるのに何のためらいも必要ではないことを示唆しようとしているのです。このように、創造主にして唯一の神、唯一の主、イエス・キリストに対する信仰こそが、キリスト者が持つべき正しい知識の核心であることを明らかにしています。

「(7節)しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。」ここからパウロは、今コリント教会にいる兄弟たちのことを思いながら書いています。それは1節で述べたように知識と愛との関係の具体的な展開です。すなわち正しい信仰を持ち正しい知識を持っていたとしても、もしまだそのような知識をしっかりと自分のものにできないでいる「弱い」兄弟たちのことを顧みずに、これは正しいことだからといって強行するようであるならば、それは決してキリスト者としてのふさわしいあり方ではないということです。もちろんパウロ自身は、「偶像の神などはこの世に存在せず、唯一の神以外には神は存在しない」という信仰と知識に基づいて、偶像にそなえられた肉でも何でも自由に食べても良いとする点ではコリント教会の人たちの考えに同意しているのです。しかし、すべての人がそのような確信を持っているわけではないということを十分に考慮していくことが大切なのだということです。

「(8節)わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。」神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」(ローマの信徒への手紙14章17節)という言葉もあるように、偶像に供えられたものを食べても食べなくても、それによってキリスト者の神に対する関係が変わるわけではありません。そういう意味でそれはどちらでもよいことだとパウロは考えています。「(9節)ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。」パウロは、あなたがたの自由な態度が、弱い人たちの躓きにならないように十分に配慮されなければならないと語っています。

「(10-12節) 知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。」

 これはおそらくパウロが想像したのではなく、実際にそのような場面があったことを念頭において述べているのだと思います。「弱い人」というのは、キリスト教の教えがまだ十分身についていなくて、しっかり立っていない人たちのことだと考えられます。そのような弱い人たちのことを配慮することは、ひいてはキリストのためでもあると言うのです。たとえ信仰の弱い人であろうと、キリストの血潮によって救われた尊い魂なのですから、彼らの弱い良心を踏みにじるようなことは、キリストに対して罪を犯すことだとパウロは語っているのです。キリスト者を苦しめることはキリストを迫害することになるのと同じだということです。かつてキリスト者を迫害していたパウロは、この手紙を書きながら、ダマスコ途上で耳にした「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(使徒言行録9章5節)というキリストの声を思い出していたのかもしれません。

 つまり、ここでの判断基準は、自分の立場をあくまで固守することではなく、むしろ弱い兄弟の立場に立つことが勧められています。なぜならパウロはその弱い兄弟の背後にキリストがおられることを見ているのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイによる福音書25章40節)

 そこでパウロは偶像に供えられた物を食べることについて、「(13節)それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。」という重大な決断をも表明しているのです。兄弟をつまずかせないために、私は今後決して肉を食べませんというパウロの決意は、弱い兄弟たちに対する実に尊い愛の証しだと思います。年末で忙しい日々を過ごしている私たちに、日々新しい知識や情報が入ってくるでしょうが、
何かを知っているという時には、それが愛と結ばれてこそ、ほんとうに神に喜ばれる行動になることを覚えて、新しい週も歩んでまいりたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)