命に満ちた言(ことば)

2022年12月24日(土)
『 クリスマス・イブ礼拝 』

ヨハネによる福音書 1章1~5節
牧師 常廣澄子

 皆さま、こんばんは。
ようこそ、志村バプテスト教会のクリスマス・イブ礼拝においでくださいました。
今日初めて教会においでくださった方がおられましたら、心から歓迎いたします。
あなたをお誘いくださったのは、お友達かもしれませんしご家族かもしれませんが、今夜、あなたがここにおいでくださったのは、あなたを愛しておられる主なる神様のお導きです。

 今夜はクリスマス・イブの礼拝です。いま、聖書の御言葉の朗読と、美しいピアノ演奏と聖歌隊の賛美を通して、クリスマス物語をたどってまいりましたが、およそ二千年前、貧しい馬小屋で神の御子イエスはお生まれになりました。それがクリスマスの出来事です。星が輝く静かな美しい夜、野原で羊の番をしていた羊飼いたちに、天使が御子の誕生を知らせました。その時、まばゆいばかりの光と共に天の大軍が現れて、この世に御子を送ってくださった神の栄光と地に平和があるようにとの賛美が響いたのです。そのように、クリスマスは神の御子イエス・キリストがこの世にお生まれくださった事を、喜び祝う日です。今では世界中のあらゆる国々にキリストの教会ができて、多くの人達が人種も民族も超えてクリスマスを喜びお祝いしています。神を信じている人だけでなく、神を信じていない人も、みんな何か優しくなってあたたかい心に満たされて、幸せな思いになります。それはどうしてなのでしょうか。

 お読みいただいた聖書の御言葉は、ヨハネによる福音書の1章の最初の部分ですが、その3節に「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」とありますように、人間を照らす光があって、クリスマスはその光が来たことを感謝する時、またその光を心に感じる時なのです。アンデルセンの童話に出て来るマッチ売りの少女が、寒さの中で売り物のマッチを擦って暖まろうとしたように、光はあたたかいものです。あたたかくなると人の心は優しくなります。クリスマスは、みんなが幸せや喜びを分かち合う日です。サンタクロースは良い子のみんなにプレゼントを届けていますが、施設の前にだまってランドセルを置いていく人もクリスマスには現れます。人々の優しさの現れです。

 このヨハネによる福音書の冒頭は、聖書の中でも特によく引用される個所です。「(1-3節)初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」お気づきのように、ここでは「言」という一文字を「ことば」と読ませています。これは現代の日本語表記ではあまり通用しないかもしれません。しかし、元のギリシア語「ロゴス」という言葉を日本語に訳す時にはこうしないわけにはいかなかったのだと思います。この「言」は、私たちが普段使っている「言葉」とは違います。言葉から葉っぱの「葉」が取れています。つまり葉っぱのように薄っぺらな、吹けば飛ぶようなものではないということなのです。最近、国会議員の失言が目立つようになってきましたが、言ったことを取り消したり、事実でないことを語ったりするのは、まさしく言葉の軽さを表しているように思います。ところが、この「言」は全く違います。実質的な行動を伴う「言」であり、創造する力を伴った「言」なのです。

 1節にある「初めに」というのは、限りない初めです。聖書66巻の一番最初の創世記には、天地創造の記事が書かれていて、その冒頭にも「初めに」という言葉が出てきますが、それは目に見える天地の初めでした。しかしここにある「初めに」というのは、天地やすべてのものが造られる前のことです。この「言」はその初めの初めから神と共にあったのです。さらにこの「言」そのものが神であると言っています。この「言」によってすべてのものが出来たというのです。神が「光あれ」と言うと光があったように、万物を創造する力を持ったこの「言」は、天地創造の初めからあったことがわかります。

 今日は5節までをお読みしましたが、この後を読んでいきますと、14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」と書いてあります。もうおわかりのように、この「言」はイエス・キリストのことを語っているのです。

 ここで「言」ということについて少し考えてみたいと思います。私たちは自分の心でさえも時には定かにわからない時がありますが、まして人の心に何があるのか、目の前にいる人が何を考えているのか知ることはできません。けれども言葉があればそれによって始めてその人の心や気持ちを知ることができます。それと同じように、神の心は人間にはわかりません。けれども、神は人間に対して神の思いを伝えたいと「言」を用いられたのです。神が人間に語り、人間が神に聞くために、イエスという人間の形をとられて神の心を伝える者となってくださったのです。つまり御子イエスは神のみ心を表すために人となってくださった神の「言」です。

「この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」ここからは、天の神が万物を創造された時、イエスもまたそこにおられてお働きになっていたことがわかります。この万物の中には私たちも入っています。私たちもまた神によって造られたものなのです。私たち一人ひとりは大事な神の作品であることをどうぞ覚えていただきたいと思います。

 それにもかかわらず、私たち人間はこの真の神をどこか遠くに追いやってしまいました。神を愛することを止め、神と語らい神に祈ることを忘れ、神に信頼を置くこともしなくなってしまったのです。そういう私たちのところにもう一度神ご自身が来てくださったのがクリスマスです。御子イエスがこの世に降って来られ、私たちと神との関係を回復させてくださったのです。

「(4節)言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」その「言」であるお方が持つ創造力の最もすばらしいことは、「言」の内に命を秘めて私たちのもとに来られ、私たち人間に本当の命をもたらしてくださったということです。命の源は「言」である神のもとにあり、天地万物を造られた主なる神が今もそれらの命を保っておられるのです。すべての命は神から来るからです。イエスこそが命の主です。命の無い者は人に命を与えたり、命について語ることなどできません。命は神のものなのです。人間がこの世で神を信じて生きていく時、人間は本当の意味で命について知ることができます。そこから新しい創造が始まるのです。

 この「言」には本当の命がありました。命というのは、すべての人が求めてやまないものです。静かに耳を澄ませば、今も残酷で恐ろしい戦争の只中にいるロシアやウクライナの人達、戦場で戦っている人達の声、「生きたい」「何とかして生きたい」という願いが渦巻いていることを感じずにはおれません。もちろん重い病気や死の恐怖にあえいでいる方々にとっては、命は日々ひたすら求めてやまないものです。例え今どのような状況にあろうと、死んでしまいたいような危機に追い込まれている方であっても、人間の根源にはやはり命を求める心があるのです。「言の内に命があった。」「言」であるイエスのもとに命があったというのは、人間の根源的問題の解決がイエスによって与えられたということです。命は死に対立する言葉です。そして聖書では死は単なる肉体的な死滅、肉体が滅びることで終わることではなく、神の審判があることこそが死を恐ろしいものにしています。人が本能的に死を恐れるのは、神の審判を恐れているからに他なりません。だから真の命は神に罪をゆるされること抜きにはあり得ないのです。

 そしてここには「命は人間を照らす光であった」とあります。イエスは「人間を照らしてはっきり明らかにその人自身を見ることができるようにしてくれる光」なのです。光はものをはっきりと明らかに見ることができるようにしてくれます。同時に光があれば暗闇の恐怖を取り除いて安心感を与えてくれます。また光によって人間は自分の今いるところがわかり、進むべき道が見えてきます。そして光は人をあたたかく支えて守り、導き、惜しみなく喜びと祝福を注ぐのです。神の「言」であるイエスは、まさにそういう意味で、ご自分の命を燃やして私たち人間に与えられたお方です。

ではどうしてイエスはこの世の暴力によって、十字架という闇の中で死ななければならなかったのでしょうか。それはイエスというお方が、人間によって何らかの慰めや励ましを受けて生きられ、終に死んでいくような人間ではなく、イエスご自身が光となるために死に勝利する必要があったからです。イエスは人として闇の奥深くに降ってくださり、神の御子として復活されました。それは闇を根本から打ち破るためだったのです。闇を打ち破ることができるのは光だけです。イエスは光の人生を歩まれました。

 しかし、今なお輝き続けておられるこの光であるお方を、暗闇の中にいる私たち人間は理解せず、受け入れようとしないのです。「(5節)光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
すなわちここに書かれている暗闇とは、ただ単に光が無い世界、暗い世の中と言うことだけではなく、光に対して反抗し、敵対する心のことをも表しています。これはつまり、神に聞くよりも、自分の立場や思いや考えを守ろうとする人間の自己主張の現れです。人間の心には自分を守ろうとする意識があります。いろいろなこの世の欲望や自分中心の思いを断ち切れないのが人間の現実なのです。しかし、そのような私たちの心に入りたいと、私たちの心のドアをノックして、ドアの前で静かに待っているお方がおられることを、このクリスマスの佳き時に一人でも多くの方に覚えていただきたいと心から願っております。


(牧師 常廣澄子)