変貌のイエス

2023年1月8日(主日)
主日礼拝『 誕生日祝福 』

ルカによる福音書 9章28~36節
牧師 永田邦夫

 新しい年、2023年が明けて、本日は第二週の主日礼拝となりました。どうか今年も主の御心に聞きながら、皆さまと共に歩み、そして、聖書が示すメッセージを皆さまにお届けしていきたいと願っております。本日は「変貌のイエス」と題し、ルカによる福音書からのメッセージです。

 9章28節「この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。」と始まっています。“この話をしてから八日ほどたったとき”とありますように、この段落も、直前および、さらにその前の段落とも関係している出来事です。主イエスさまはこのとき、ガリラヤ伝道からエルサレムに向かわれる、極めて大きな節目を迎えておりました。そして更に言いますと、地上での伝道を経て、御父なる神の御許に召される、そのことも視野に入れながらの、大きな節目を迎えておられたのです。“イエスさまが山に登って祈られる”、と言いますと、山で徹夜の祈りをした後に、十二弟子を選ばれたとき(6章12節~16節)もそうでした。

 では、本日箇所に戻ります。まず先に、「この話」と記された、前の段落での関連事項を見ておきましょう。直前の段落で、イエスさまは弟子たちに向かって、初めて「ご自分の死と復活」を予告された箇所がありました。自分は、決して“王的なメシア”ではない、多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たち、すなわち国の議会の主要な地位にいる人たちからは排斥されて殺され、三日目に復活することになっている(宿命にある)、ということを告げてきました。しかし、ご自身がこのこと全てを、すんなり受け入れるためには、しばらくの時間が必要だったのです。

 そして、八日ほど(一週間余)時を過ごされた後のこと、これが本日箇所です。弟子のペトロ、ヨハネ、そしてヤコブを連れ、祈るために山に登ってのことです。この弟子三人は、イエスさまが特に重要視している弟子たちでした。そして今、彼らをそこに連れて来たのは、弟子訓練は勿論のこと、これから起こるであろう、ご自分のことの証人として傍に置く、その意味もあった、と考えられます。

 29節「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。」と、“イエスの変貌”の様子を伝えています。なお、ルカによる福音書は、最も穏やかにイエスさまの変貌の様子を伝えていますが、共観福音書の並行記事で、もっと激しい表現で記しているのは、マタイによる福音書(17章2節)で、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と伝え、また、マルコによる福音書(9章2節~3節)では「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」と、伝えています。 このように、本書以外の他の福音書は、この時のイエスさまの変貌の出来事については、“栄光のイエスさま”に重点を置いて伝えている、と理解できます。
しかし、ルカによる福音書からは、イエスさまの変貌に至ったその経緯、すなわち、モーセ及びエリヤが現れたことの意味や、イエスさまと二人との遣り取りも含めて、読者に対し、これらのことすべてを読み取って欲しい、このような著者ルカの思いがあったことでしょう。

 では、もう一度、29節を含めて、31節までを見て参りましょう。「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」とありまして、ここは、いわば本日箇所の中心的部分です。
では、内容を整理してから先へ進みましょう。

① イエスが祈っておられるうちに、イエスの変貌が起こった。
② 見ると、イエスは栄光に包まれて現れたモーセ、そしてエリヤと話し合っていた。
③ その話し合いの内容は、イエスがエルサレムで遂げようとしている最期のことであった。

 では、①について、これは本書著者ルカの目撃情報というより、そのように言い伝えられている、ということでしょう。次は二番目の②です。見るとイエスは、モーセ、及びエリヤと話し合っていた、と言います。この二人はいずれも、旧約聖書の時代に大切な働きをしてきた人です。モーセは、いわば、律法の代表者です。神の召しにより、それまで、奴隷生活に苦しんでいたイスラエルの民をエジプトから導き出し、それから先、無事にカナンの地に入れるようにと、シナイ山で神から律法を授けられましたが、そのときの、民の指導者であり、立役者となったのがモーセでした(出エジプト記5章以下)。

 次はエリヤです。彼は預言者の中でも、偉大な預言者であって、バアルの神との対決や、干ばつを防ぐなどの働きでよく知られています(列王記上16章~同下2章)。
この、律法の代表的な人モーセと、預言者の代表的な人エリヤが、主イエスさまの前に現われる、ということは、これから新しい時代を迎えるに当たって、御子イエスさまと二人を引き合わせるための、神のご配慮とも理解することが出来ます。そしてその三人が話し合いをすることによって、イエスさまがいま抱えている、未解決の課題が払拭されて、イエスさまが安心して新しい時代へと進むことが出来ますように、という、これも神のご配慮と理解できます。

 そうして、三人が話し合った内容、③が、“主イエスさまがエルサレムで遂げようとしておられる最期について”、すなわち、“十字架の死と、三日目の復活のこと”でした。

 主イエスさまは、山に登って神に祈り、そこへ、雲の中から現れたモーセ及びエリヤを加えた、三人の話し合いによって、イエスさまが、今まで心の中に抱えて来られた、苦難、苦しみ、そして戦いが、きれいさっぱりと、吹っ切れたことでしょう。その結果の象徴的な出来事が、イエスさまの変貌だったのです。

 わたしたちが、もしも、心の中に苦難や課題を抱えているならば、そのことを神に打ち明けて、ひたすら神に祈り続けるとき、そこに、何らかの解決策が見いだされて、それまで抱えて来たものが払拭される、そのような、素晴らしい結果に導かれるのではないでしょうか。そのように、ひたすら願う者です。
以上に続いて32節には「ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人が見えた。」とあります。ここまでは良かったのですが、その後の、ペテロがイエスさまに告げた、その言葉に大きな問題がありました。

 次は33節をご覧ください、「その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロはイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのため、もうひとつはエリヤのためです。』ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったからである。」とあります。おそらくペトロまたほかの弟子たちも、自分たちの眠さのため、イエスさまを中心として、今そこで起こっている出来事の一部始終を、はっきり見ることが出来なかった、そして、理解することも出来なかったのです。

 ペテロがイエスさまに伝えた言葉の大きな問題点は、モーセとエリヤを、イエスさまと同列に見ていたこと、すなわち、それぞれの立場を全く理解していなかったのです。そして、イエスさまと、モーセ、エリヤのために、仮小屋を三つ建てましょう、と提言したのです。なお、この仮小屋とは、幕屋のことで、イスラエルの民が出エジプトの際にも、そこを礼拝する場所として幕屋を建てていました。ペトロがイエスさまに言ったことは、モーセやエリヤの立場を理解してはおらず、それぞれを、礼拝の対象にまでしてしまっている、全くの支離滅裂な話です。

 次は34節「ペテロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。」とあります。雲は神の臨在の場所であることを弟子たちは、そのとき知っていたのでしょう。そこには、イエスさまお一人だけ残りました。

 続く35節には「すると、『これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け』と言う声が雲の中から聞こえた。」とあります。その声は、非常に荘厳な響きをもった声だったことでしょう。もちろん、その声の主(ぬし)は、父なる神です。そして、このお言葉は、そこにいた弟子たちだけに限らず、全ての人に対する命令の言葉でもあります。

 ここで、ヘブライ人への手紙5章7節~10節に目を通しましょう。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、ご自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。」とあります。

 ここに示されております、ヘブライ人への手紙の言葉は、今まで、見て参りました、“イエスさまの変貌”の出来事は勿論のこと、さらには、イエスさまの十字架の出来事の目的などを含めて、イエスさまが、この人間の世界に来られた目的をも、わたしたちに示していると理解できます。

 以上、見て参りました、イエスさまの救いを、わたしたちは、これからも固く信じながら、さらに力強く生きていきたい、と願っております。


(牧師 永田邦夫)