2023年1月22日(主日)
主日礼拝
コリントの信徒への手紙 一 9章1~18節
牧師 常廣澄子
主イエスを信じる人は、自分を愛して受け止めていてくださるお方を知っていて、いつもその守りと導きを信じていますから本当に自由に生きることができます。現に主にあってのびのびと自由に生きておられるたくさんの素晴らしい方々を私は知っています。本日は9章を読んでいきますが、8章では偶像に供えられた肉についてパウロの自由な態度を見てきました。何を食べようと何も問題はないけれども、もし弱い人たちをつまずかせるようなことがあるのであれば、自分は喜んで肉を食べないと宣言したのです。この手紙を書いているパウロは、コリント教会が置かれている厳しく難しい問題を前にしているわけですがとても自由に語っています。自分でもそう言っています。「(1節)わたしは自由な者ではないか。」パウロのこの自由な思いや行動はどこから来るのでしょうか。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネによる福音書3章8節)の御言葉を思い起こします。パウロの自由というのは、このような主の御霊がなせる業なのだと思います。
このパウロの自由な思いや行為は「(1節)わたしたちの主イエスを見たではないか。」という事実に支えられています。もちろんパウロ自身は地上のイエスに会ったことはありません。使徒言行録9章に書かれていますように、パウロはキリストを信じる者たちを迫害していた時に、復活のイエスに出会って180度回心し、今度はイエスの福音を宣べ伝える者となったのです。そのことは、今ここに、パウロの働きの実とも言えるコリント教会の信徒たちがいるという事実がそれを証明しています。
パウロは確かに十二使徒のような真の使徒という存在ではありませんが、宣教活動をする使徒職についていたことは間違いありません。コリントに主を信じる者が起こされ、そこに教会が出来上がっていったことは、使徒パウロにとっては誇りであったと思います。1-2節にはそういうことが書かれています。「(1-2節)わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。」
パウロはどうしてこのようなことを語っているのでしょう。3節に「わたしたちを批判する人たちには、こう弁明します。」とありますから、おそらくコリント教会の内部に、パウロの使徒職をめぐって疑念を持つ人たちがいたのでしょう。そういう批判者たちは、パウロが福音を語ることを良しとせず、窮地に追い込もうとしたのかもしれません。パウロが地上のイエスに会っていないことを指摘されたのかもしれません。しかしこれに対してパウロは自分なりの立場を主張しているのです。パウロが主の福音を宣べ伝える使徒として働くその在り方は、確かに他の使徒たちとは違って独自性を持っていたようです。まずパウロは、ペトロたちのように妻帯せずに独身でいました。次に、この時代すでに教会は、働き人の生活を保障しており、経済的支持がなされていました。しかし、パウロは教会によって生活を保障されるという形をとらずに、つまり教会から給料をいただかずに自給で伝道したのです。今ここで問題にされているのはこのことです。
私はしばしばコロナ禍で困窮している方々がたくさんおられることをお伝えしていますが、教会もまた例外ではありません。共に集まる礼拝ができなくなったため、教会の財政状況が厳しくなっている教会が増えてきたのです。実はこのような状況はコロナ以前にもあったことで、伝道活動がなかなか進展しない我が国では、教会会計から牧師の給料を十分に差し上げることができないため、週日は別の仕事をして生計を立てている牧師がおられるのです。それは心身ともに大変厳しいことです。私たちはそのことを忘れてはならないと思います。
パウロはここでいろいろな例をあげて、教会で働く伝道者に対して、その生活が保障されるのは当然の権利であることを裏付けています。「(7節)そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。」国を守る軍務に服する人は、当然国から物的あるいは経済的な保障を期待して良いですし、ブドウを栽培している人は、その実を食べたからといってそしられることはありません。また、羊を飼っている人がその乳を飲んだからといってとがめられることもありません。同じように、教会で働く伝道者が、教会から経済的援助を受けることは当然であると語っているのです。
そしてそのことは、自分の単なる思い付きではなく、律法にも明記されていることだと語るのです。「(8-10節)わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。モーセの律法に、『脱穀している牛に口籠をはめてはならない』と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。」ここで引用されている『脱穀している牛に口籠をはめてはならない』というのは、申命記25章4節にある御言葉で、働いている牛への同情から語られたものです。すなわち牛が働いている間は、自由に穀物を食べられるようにしてやりなさいと言っているのです。律法がこのように言っているのであれば、神の国のために働く人がその報酬を得るのは当然だと言わねばならない、と語っています。
そして、一応の結論が出されるのです。「(11-12節)わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。」
イエスが語った救いの福音を宣べ伝え、人々の心や魂を配慮して苦労して働いている伝道者が、教会からその報酬として必要な援助を受けたとしてもそれが悪い事だろうか、いや決してそうではない、当然のことではないか、パウロはまずそう語ります。実際、パウロやバルナバ以外の伝道者は、このような当然の権利を受けていました。コリント教会というのは、物流の拠点であるコリントという大都市にできた教会ですから、経済的には豊かだったようです。ですからこの教会の生みの親であるパウロに対してそれができないわけはありません。しかしながら、パウロの方がその当然の権利を用いなかったのです。
この論理は微妙に屈折しています。わかりにくいです。一方では伝道者が教会によって生活を保障されるのは当然のことである、それはモーセの律法によっても保証されると言っているのです。「(13-14節)あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。」ここも同じようなことを別の表現で言い換えて、聖なる働きに従事する人は、生活の保障を受けるのは正当であり、それは主が定められてことでもあると語っているのです。確かにイエスは12弟子を派遣するにあたって、「旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。」(マタイによる福音書10章10節)と語っておられます。
ところが、「(15節)しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。」ここからは主語が「わたし」に変化しています。それはここからパウロ自身の心が吐露されているからだと思います。口語訳聖書では「わたしのこの誇は、何者にも奪い去られてはならないのだ。」となっています。大変極端な表現ですが、パウロの純粋な気持ちが良くあらわされていると思います。
ここでパウロは、福音を語るものが教会から物的経済的に支援を受けて生活することは正当なことである、しかしながら、自分自身はこの正統な権利を行使しなかったのだと語り、その後に続けて、自分がこう書いたのは、決して教会から援助してもらいたいという意味で言っているのではないのだと語るのです。それはどうしてなのかと言えば、自分が自給自足で働いているのは、自分の誇りなのだと言っています。彼にとっては、この誇りを傷つけられるくらいなら、むしろ死を選んだ方がましだとまで言うのです。
しかし、パウロの誇りはこれが究極的な結論ではありません。パウロが言いたかったことは別にあります。もっと偉大なことについて語るのです。それは福音を自発的に喜ばしく宣べ伝えるということです。すなわち、「(16節)もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」パウロは、自分が福音を宣べ伝えているのは生活の糧を得るためではない、それは自分にとってそうせずにはいられないことだからだと語ります。
教会からの援助を受けるという伝道者の当然の権利の中に、もしかしたらパウロはある意味で、福音伝道の妨げを感じていたのかもしれません。このことについてパウロは何も説明していません。
しかしそういう心の動き、人間の心理についてはいろいろ考えさせられます。つまり推測するなら、いわゆる「職業宗教家」に対しての悪い感情とでも言えるかもしれません。「職業宗教家」と言われることに対して、パウロはほとんど生理的な嫌悪感を抱いていたようです。
「(17節)自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。」パウロは自分は大いなる力に押しだされて福音を語っているのだと言います。それは報酬に促されて行う職業的な営みとは根本的に異なります。この世のあらゆるものは、いったん職業的になるとその自発性を失ってしまいます。本来人間の自発的な営みは最初は何の報酬もなしに始まったのです。その営み事態に喜びが見いだされたからです。そうせずにはおられないからです。パウロの伝道活動もそうでした。
ここでは、パウロなりに考えて、福音を宣べ伝えるのには、それを無報酬でするという態度の中に、この福音伝道の妨げを取り除く解決の道がある、とパウロは確信したのだと思います。「(18節)では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。」これは言い換えますと、自分が理想とする仕方で福音を宣べ伝えることができるようにされていることこそ、パウロにとってはまさに報酬であるのだと言っているのです。パウロは教会から何の物的経済的援助を受けずに伝道しました。ではその伝道には何も報いはないのかと言えばそうではありません。自由に伝道できることそれ自体が報いなのです。パウロが求めたのは自由な福音宣教からくる内心の喜び、心にある誇りであったことがわかります。
このように明らかにされてきた伝道者としてのパウロの在り方やその精神を通して、パウロの使徒職の権威が浮かび上がり、パウロの使徒職が証しされているのではないでしょうか。言うまでもなく使徒職の基本は、キリストの福音を神から委託されていることにあります。そしてこれは誰であろうと、福音を自発的に喜んで語る人たちによって最もよく証しされるのだと思います。そういう意味では、私たち主を信じるすべての人は、何の報いを望むこともなく、日々喜んで神と共に働いているのです。そのことを覚えつつ、新しい週も感謝して歩んでまいりたいと思います。
(牧師 常廣澄子)