悪霊追放

2023年2月12日(主日)
主日礼拝『 誕生日祝福 』

ルカによる福音書 9章37~45節
牧師 永田邦夫

 本日は、二月第二週の主日礼拝となりました。本日も引き続いて、ルカによる福音書からのメッセージをご一緒に聞いて参りましょう。先ほどお読みいただいた箇所から「悪霊追放」と題しての説教です。その中心的な出来事は、“ある男の人に一人息子がいて、その息子が悪霊に取りつかれて苦しんでいるので、どうか見てやって欲しい、とのある男(父親)からの依頼に、イエスさまが応じられ、その子を癒して、父親にお返しになった”という出来事です。さらのその後に続いて、イエスさまによる、二回目の十字架予告の記事があり、これを含めての出来事が本日の説教箇所となっております。

 早速、9章の37節をご覧ください「翌日、一同が山を下りると、大勢の群衆がイエスを出迎えた。」と記されていて、ここに“翌日”とありますことから、本日の記事は、前日の出来事に引き続き、一同が山から下りての出来事です。なお、前日のこととは、前回の説教箇所でしたが、もう一度、確認しておきましょう。

 イエスさまが主だった弟子のペトロ、ヨハネ、そしてヤコブを連れ、山に登って祈っているうちにイエスさまの様子が変わった、とてもこの世の人とは思えないような、“変貌のイエス”、栄光のイエスのお姿がそこにありました。しかしそのことの意味を、主だった弟子ですらも、よく理解していなかった、そのことの証拠として、弟子たちは主イエスに対して、ちぐはぐのことを伝えている場面がありました。

 そして、さらに重要なことは、前の段落のイエスさまの変貌の出来事、そして、本日の悪霊追放の出来事も、イエスさまにとっては、間近に迫っているエルサレム行き(9章51節以下)を前にして、ご生涯の中でも特に重要で、かつ緊迫した状況に置かれていたということです。その一方で、これを取り囲んでいる弟子たちの姿の不甲斐なさ、無力さが、二つの段落に滲(にじ)み出ています。本当に残念!というほかはありません。このことを先ずお伝えして次の段落へ進みます。

 38節から40節までは内容的には一続きの出来事ですので、先ず全体を見てからにしましょう。「そのとき、一人の男が群衆の中から大声で言った。『先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。』」と、一部始終を赤裸々に訴えています。この息子の病気は、今日でいいますと、癲癇なのでしょう。

 本日箇所は、「大勢の群衆がイエスを出迎えた」と、どちらかと言うと、和やかな雰囲気で始まっております。その群衆は“イエスさまのお話がまた聞ける”と期待して集まってきたのかも知れません。しかしこの後、事態は一変します。38節「そのとき、一人の男が群衆の中から大声で言った。『先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。』」から始まります。この父親から、イエスさまへのお願いの言葉を見ますと、家族思いの、そして、愛してやまない一人息子を、何とかしてあげたい、と、“藁(わら)にも縋(すが)る”父親の思いが伝わってきます。そして、この“一人息子への悪霊つき”は、その家族全体にとって、大きな苦難であり、また痛みだったことでしょう。

 この“息子の苦しみ”について、並行記事である、マルコによる福音書の9章22節を見ますと「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました」と父親の訴えが記されています。
ではこの一人息子や家族を悩ましていた、その悪霊とは何なのか、それを先に見ておきましょう。当時、肉体の病、特に精神的な病は、しばしば、悪霊によるものと考えられておりました。当時はまだ医学もそれほど進んでおらず、一般にそのように考えられていたのでしょう。さらにその悪霊は、群をなして人に取りつき、またその悪霊の群れの上には、その支配者であるサタンがいて、そのサタンは神の支配のもとにあった、とされています。このことは、わたしたち馴染みのヨブ記を思い出させます。さらに身近に、今日わたしたち日本中を悩ましている、“広域強盗事件”があり、日々報道されています。なんとか一日も早い解決を望んでいます。

 聖書に戻ります。その癒しの頼みをお聞きになった直後のイエスさまのお言葉が、41節にあります。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」でした。ここで、イエスさまが最後に言われた「あなたの子供をここに連れて来なさい。」のお言葉には、集まった人々は、固唾を呑んで、成り行きを見守っていたことでしょう。

 しかし、その前に言われた、イエスさまからの“厳しいお叱りの言葉”「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」について、先に考えておかなければなりません。なぜイエスさまは、このような厳しい言葉をもって、そして、誰をお叱りになっているのでしょうか。
このことについては、今までも長い間、神学者の間で検討されてきたと言われています。ではここからは、イエスさまのお叱り言葉の前半、“なんと信仰のない”と、そして後半の“よこしまな時代なのか”とに分けて考えていきましょう。

 まず、まず前半の、信仰のなさについてのお叱りの言葉、“なんと信仰のない”についてです。そのお叱りの対象は、先ず弟子たちです。一同が山から下りてくるなり、群衆の中にいた、一人の男が、自分の息子に取りついた悪霊の追放を、イエスさまに依頼しましたが、そのときの最後の言葉が、40節「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。」と、あからさまに訴えていることです。また弟子たちの信仰のなさは、前の段落でも然りです(繰り返しになるのでここでは省略)。

 振り返ってみますと、主イエスが、十二人の弟子を選び、伝道へと派遣するとき、弟子たちに、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能を授けておられたのに、この期に及んで、このありさまは、どうでしょうか。繰り返しになりますが、イエスさまが、エルサレム行きを前にしてのその緊迫した時期、もっとも心を痛め、焦りを感じておられたのは、そのときの弟子たちの様子に対してではなかったか、と察することが出来ます。

 その次に、その信仰のなさを指摘されているのが、その悪霊付きの息子を持つ父親です。その記述が並行記事である、マルコによる福音書9章の22節後半にある、その父親が息子の病状を説明した後、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」と、その癒しをイエスさまに懇願している言葉です。これに対してイエスさまは、「『できれば』と言うか、信じる者には何でもできる。」と切り返されています。これは、この男(父親)の信仰不足を指摘している言葉でもあります。以上、イエスさまが、本日箇所41節で、「なんと信仰のない」と、その信仰の無さを叱責している相手は、弟子たちであり、また悪霊追放をお願いしている父親でもあったことが示されました。

 しかし、この時のイエスさまの叱責の言葉、そしてその対象を他人事のように考えることは決して許されません。わたしたちも、時にはこの弟子たちのように、信仰から離れたり、そのような言葉を口にしたりしているのです。

 次は41節のイエスさまのお叱りの後半の言葉、“よこしまな時代”についてです。このときイエスさまは、誰について言われているのでしょうか。
ではここで、本日箇所の並行記事である、マルコによる福音書(9章14節~29節)も見ておきましょう。その冒頭の9章14節には、「一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた」と、そのときの状況を説明している言葉があります。では先にそこに至る状況を整理しておきましょう。大勢の群衆の中に、息子が悪霊に取りつかれて困っている父親が来ていて、そのときも同様に悪霊付きの状態であった。そこで、イエスさま一同が山から下りてくるその前に、緊急、弟子たちにその悪霊追放を頼んだが、それが出来なかった。無理だった、ということです。

 それに続く出来事を想像すると、その群衆の中にいた律法学者たちが、その弟子たちの行った“悪霊追放”のことを目撃していて、このことを巡って弟子たちに、いろいろと議論を吹きかけた、ということです。

 そして、今イエスさまがお叱りの、“よこしまな時代”に戻ります。頼みの弟子たちは、いま目先にいて、悪霊に取りつかれ苦しんでいる、その息子の癒し(悪霊の追放)も出来ず、またその傍らにいて、イエスの弟子たちの力不足や、信仰不足を律法学者たちが指摘したため、それがもとで、いま目前で、議論沸騰している。このことを、山から下って来たばかりのイエスさまが目撃して、“なんとよこしまな時代か”と、怒りをあらわにされたのです。

 以上で、次へと進みます。イエスさまは、いま悪霊に取りつかれている子供を呼び寄せ、無事にその悪霊を追い出され、その父親に返されたのです(42節)。またこれを目撃していた人々は皆、神の偉大さに心を打たれた、とあります(43節)。人々はこの時のイエスさまの業を“神の偉大さ”と讃えていることに注目です。

 そしてこれに続いて、イエスさまの、二回目の十字架予告が43節b以下にあります。その予告の言葉をもよく理解できないでいる弟子たちがそこにいます。以上、本日の出来事は、弟子たちの信仰不足を、そして、律法学者に端を発しての、“よこしまな時代への叱責”のことを示されました。わたしたちはこのことを、よく心に留めながら、そのような、わたしたちをも、罪を赦し、生きるようにしていてくださっている、イエスさまに感謝しながら、精いっぱい生きていきたいと思います。

(牧師 永田邦夫)