底なしの淵

2023年4月23日(主日)
主日礼拝

ヨハネの黙示録 9章1~11節
牧師 常廣澄子

 私たちは今、ヨハネの黙示録を通して、著者ヨハネの霊の目に映し出された天上の礼拝の様子を見ています。天の御座の中央に立たれるお方は、豪華な王者の衣をまとうお方ではなく、ほふられた小羊の姿です。それは虐げられ、苦しめられ、傷つけられたお姿でした。この方こそ、神の小羊としてご自分のお身体を捧げられたイエス・キリストに他なりません。このお方は天上にあるもの、地上にあるもの、地下にあるものが口をそろえて「王の王、主の主」として崇められるお方です。そしてこのお方が七つの封印で封じられた巻物を手に取り、その封印を一つひとつ開けていったのです。封印を解いていくことがおできになるのはこの方以外にいないのです。第七の封印を開いた時、神の御前に立っている七人の天使に七つのラッパが与えられ、次々と吹き鳴らされていきましたが、天使がラッパを吹き鳴らす度に、そこには恐るべき審きの光景が映し出されていきました。神の審きというのは、神を神として認めようとしない者に加えられるのです。

 今朝は9章からですが、ここでは第五の天使がラッパを吹きました。「(1節)第五の天使がラッパを吹いた。すると、一つの星が天から地上へ落ちて来るのが見えた。」天から落ちて来る星というのは天使を象徴しています。天使の一人が神のようになろうとする高慢から、天において与えられていた権威を失墜して、ついには堕落して地上で害をまき散らす者となったのです。イザヤ書14章12節には、「ああ、お前は天から落ちた 明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた」と書かれていて、そのことが暗示されています。

 さて、天から落ちた一つの星には、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられました(1節後半)。底なしの淵とは、とめどもなく落ち込んでいく淵です。底がないということは実に恐ろしいことです。際限なく続いている深さなので、これでもう一杯になったということが起こらないのです。そしてそこは光の届かない闇の世界です。神から絶縁された暗黒、あるいは絶望や滅亡を象徴する世界ではないでしょうか。神から絶縁された世界には救いがありません。それは死と滅びの世界です。どんなに叫んでもどんなに頑張っても救いのない虚無的な場所、そこは悪魔の世界、悪魔が支配している所です。ところがその悪魔でさえも勘弁してほしいと願っている場所なのです。

 ルカによる福音書の8章には、イエスがゲラサ人の地方で、悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出された時の話が書かれています。イエスがこの悪霊に「名は何と言うのか」とお尋ねになると、レギオンと答えました。たくさんの悪霊がこの人に入っていたからです。そこでイエスがこの汚れた霊にこの男から出るように命じられますと、悪霊どもがイエスに願ったことがありました。それは「底なしの淵に落ちていくことを自分たちにお命じにならないように」という願いでした。悪霊たちは一生懸命に、あの光が届かない怖い所に落とさないでほしいと願ったのです。底なしの淵とは、悪霊さえもが嫌がっているような悲惨な場所なのです。

 今、この星は底なしの淵に通じる穴を開ける鍵を持っています。そこに引きずり込もうとするのでしょうか。まさに悪魔的な光景です。今まで第一から第四の天使が、それぞれラッパを吹きました。そしてその時にはさまざまな現象が現れましたが、それらは地上に起こる災いであって、主として自然界に表れる現象でした。しかしここからは悪霊の力によって起こる災いが始まり、一段と恐ろしさとすさまじさが増しています。

 さて、星が持っている鍵によって、底なしの淵に通じる穴が開かれました。するとこのぶきみな穴から煙が吹きあがってきました。「(2節)それが底なしの淵の穴を開くと、大きなかまどから出るような煙が穴から立ち上り、太陽も空も穴からの煙のために暗くなった。」大きなかまどから出るような煙が穴から立ち上ってきて、その煙によって、太陽も空も暗くなってしまったというのです。真っ黒な煙が吹きあがってくれば、人間はものが見えません。人が見ていない所では、ごまかしや偽りがはびこります。煙は人間をたぶらかし、空や空気だけでなく人間を汚染し、その心を損なって真っ黒にしてしまうのです。

 今、地球上の各地では、各国が争って地下資源を採掘しています。原油や天然ガス、石炭などのエネルギー資源だけでなく、金属のレアメタルやレアアースなど、いろいろな物質が採掘されていますが、脱炭素が叫ばれている今の時代は、エネルギー資源を確保するために、各国が激しい争奪戦を繰り広げています。地域によっては戦争も辞さない様子があります。原油採掘の権利を得ようと暗躍する人が現れたり、地下資源を獲得して利益を得ようとする人が現れたり、底なしの淵から吹き出るものは人間を汚染します。底なしの淵、その暗いところから吹きあがって来る悪魔的な煙は人々の心をも汚染するのです。底しれない穴から吹きあがる真っ黒な煙が人間を損なっている様子は、きわめて現実的です。その煙に目も心もくらまされて、人間は神に対しても人間に対しても正しい判断ができなくなってしまうのです。
 
 さらに不思議で怖いことが続きます。「(3節)そして、煙の中から、いなごの群れが地上へ出て来た。このいなごには、地に住むさそりが持っているような力が与えられた。」その煙の中からいなごの群れが地上に出てきたというのです。いなごは日本では小さな昆虫で、佃煮にして食べたりします。以前は田んぼによくいましたが、農薬のせいか最近はあまり見かけなくなりました。聖書に出て来る土地や地域では、いなごが大群で押し寄せてきて、穀物を食べ尽くしてしまう災いが良く起こりました。主がモーセに告げて、エジプトに与えた災いの中にもいなごの災いがあります。「いなごは地表を覆い尽くし、地面を見ることもできなくなる。そして、雹の害を免れた残りのものを食い荒らし、野に生えているすべての木を食い尽くす。」(出エジプト記10章5節参照)

「(4-6節)いなごは、地の草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい、と言い渡された。殺してはいけないが、五か月の間、苦しめることは許されたのである。いなごが与える苦痛は、さそりが人を刺したときの苦痛のようであった。この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く。」

 煙の中から出てきたいなごは普通のいなごではありません。普通、いなごは作物を荒らすものですが、ヨハネが見た幻の中のいなごは、地の草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ「額に神の印を押されていない人間」にだけ害を加えてもよい、つまり苦しめても良いと言い渡されていたのです。しかもその苦痛というのは、さそりに刺された時のような激痛であって、人々はその耐えがたい苦しみから逃れるために死のうとするのですが、死ぬことさえできないというのです。その苦しめられ方は死ぬことよりも深刻なものだということです。何という恐ろしい悪魔的な刑罰、また災いでしょうか。

 額に神の印を押すことについては7章に書かれていました。神を信じる人々、神の僕たちの額には刻印が押されているのです。「この人は神のものである」という印です。この人たちにはいなごの害は及びません。このことは黙示録を読んでいる教会の人々の大きな慰めになったと思います。自分たちが神の印を押された者たちであることに救いと励ましを見い出し、苦しみを耐え抜く力となったと思います。このヨハネの黙示録が書かれた頃、教会は実際いなごの害にも似た苦しみや迫害の中にあったのです。そのことは黙示録の最初に書かれていた七つの教会への手紙によっても知ることができます。

 いなごに与えられた命令は、「額に神の印を押されていない人間」に苦痛を与えるだけで殺してはいけないということでした。殺さないでただ五か月の期間だけ苦しめることが許されたのです。見逃してならないのは、五か月の期間ということです。永遠に続くのではなく限度があるということです。つまりこの審きを通して、人間の悔い改めが待たれているということではないでしょうか。

 そのいなごがどのような様子であったかが7-8節に象徴的に書かれています。「(7-8節)さて、いなごの姿は、出陣の用意を整えた馬に似て、頭には金の冠に似たものを着け、顔は人間の顔のようであった。また、髪は女の髪のようで、歯は獅子の歯のようであった。」馬は最も勢いのある力を示しています。誰も逆らうことができない力です。金の冠は権威の印であり、戦いに勝利した者がかぶる印ですから、キリストこそそれをかぶるにふさわしいお方です。そのような「金の冠に似たもの」をかぶっているのは自分を神としているということです。人間の顔をしているのは人格があることを表しているのでしょう。そして女のような長い髪の毛をしている魅力的な姿です。獅子の歯のような歯は、貪欲に食べたいものをことごとくかみ砕いていくのではないでしょうか。

「(9節)また、胸には鉄の胸当てのようなものを着け、その羽の音は、多くの馬に引かれて戦場に急ぐ戦車の響きのようであった。」そしてそれらのいなごの羽の音はというと、多くの馬に引かれて戦場に急ぐ戦車の響きのようで、周りの者たちを怯えさせるのです。このように、いなごはまことに堂々とした戦士の姿を表しています。人間はそのような強い人間を崇め、ひれ伏し、その力に与ろうとします。こういう力強い人間の味方になれば自分は大丈夫だと思うのです。しかし、このような偉大に見える人間には、さそりのような針が隠れているのです。そしてこの人を崇めて頼ろうとする人を刺すのです。刺された時の肉体的な苦痛はもとより、精神的な苦痛、魂の苦しみが起こります。「(10節)更に、さそりのように、尾と針があって、この尾には、五か月の間、人に害を加える力があった。」この害は人間本来の正しい姿を歪めてしまうのです。

 このいなごは特殊ないなごで、審判のために備えられているもののようです。悪の力に支配されている狂暴な戦力の象徴かもしれません。ともかく、この地上が悪魔による徹底的な破壊力によって、修羅場と変わるということかもしれません。人間がもし神に背いたまま、独裁的で自己本位の対立を続けているならば、人間の知恵や技術の発達はすべてあらゆる悪魔的な凶器の発明となっていくでしょうし、破壊者である悪魔の思うままに操られて、互いに殺し合い、苦しめ合って自滅してしまうのではないでしょうか。

 このように、底なしの淵から出てきた、耐え難い苦痛を与えるいなごは、神に逆らう諸々の勢力の家来であり、その支配下にありました。「(11節)いなごは、底なしの淵の使いを王としていただいている。その名は、ヘブライ語でアバドンといい、ギリシア語の名はアポリオンという。」ここにその正体が明らかにされています。いなごは「底なしの淵の使いを王としている」のです。その名はヘブライ語で「アバドン」、ギリシア語では「アポリオン」、両方とも「滅び、滅ぼす」という意味です。いなごは人を滅ぼすのです。

 第五のラッパによって映し出された光景は 恐るべき審きであり、深刻な苦しみですが、同時に「そうならないように悔い改めなさい」という神の警告でもあります。私たちは、「底なしの淵」に立ってくださった方のことを思い起こしたいと思います。「また、『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。」(ローマの信徒への手紙10章7節)私たちを贖ってくださったイエスは、あの十字架の死によって陰府まで下られ、私たちが底なしの淵に落ち込むことが無いようにしてくださったのです。そればかりか「あなたは私のものである」という神の印を私たちの額に押してくださいました。

 マルティン・ルターが作詞作曲した讃美歌に「神はわがやぐら」(新生讃美歌538番)があります。「陰府の長も など恐るべき」と歌います。この「陰府の長」は「底なしの淵」の頭として立つアポリオンのことです。3節の歌詞には、「悪魔世に満ちて よし脅すとも 神の真理こそ わが内にあれ 陰府の長よ 吠え猛りて 迫り来とも 主の裁きは 汝が上にあり」と主を信じる者の勝利を賛美しています。私たちも、天の御座の中央に立たれるお方、私たちを恐るべき審きから救い出してくださったお方を仰ぎ見つつ、感謝して救いの道を歩むものでありたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)