2023年5月14日(主日)
主日礼拝『 誕生日祝福 』
コリントの信徒への手紙 一 10章14~22節
牧師 常廣澄子
コリントの信徒への手紙は、コリント教会に生じたいろいろな問題に対して、パウロが主の福音に基づいて適切に解答し、教え導いている実際的な手紙です。この手紙で扱われている問題は多岐にわたりますが、その一つひとつにパウロは率直に答え、指示を与えながら、福音の真理を明らかにしています。まさに福音の伝道者、また牧会者であるパウロの篤い思いがあふれている手紙だと思います。
今朝お読みした個所は、8章から続いている偶像への供え物に関する問題の、いわば結論にあたる部分です。コリント教会からの当初の質問は、「偶像に供えられた肉を食べても良いかどうか、もしそれを食べたら、偶像礼拝に参加したことになりはしないだろうか、キリスト者としての信仰を守るという意味で、どう考えたらよいのか。」というものでした。
当時は、神殿に捧げられた犠牲の動物の肉が商人に払い下げられ、人々はそれを買って食べるということが一般に行われていました。そのような行為について悩む者に対して、コリント教会の信者の多くは、「私たちは真の神以外に神はいないこと知っている。偶像という神などは存在しない。」という知識を持っていることを自負していました。そしてそういう考えに立って、偶像に供えた肉を食べることは各自の自由であるという態度をとっていたのです。
パウロはそういう考えを、原則的には正しいとしましたが、「ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる(8章1節)。」という言葉からわかるように、その問題をさらに深めて考えています。パウロは言います。「確かにそうであるが、すべての人が皆そのような強い気持ちを持っているわけではない。」だから「弱い者たちのつまずきにならないように」という愛の精神で「兄弟をつまずかせないために、私は今後決して肉を口にしません」という彼自身の態度を示したのです。(8章13節参照)
14節からはこの問題についてのパウロの結論です。「(14節)わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。」「避けなさい」というのは、「逃げなさい」「遠ざかりなさい」という意味です。それは信仰を脅かす危険なものや誘惑されるような場所に近寄るなという消極的なことではなく、そういったことに身をさらすことを避けなさい、という実際的に取るべき態度を示しています。
「(16節)わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。」ここからは、主の晩餐という教会の大切な礼典を通して、キリスト者の取るべき態度について教えています。また、ここにある「賛美の杯」というのは、過ぎ越し祭の食事における杯を指しています。それぞれの家の家長が家族みんなに杯を配る時に、賛美の祈りを唱えていたことから、この杯のことを「賛美の杯」と言われるようになったようです。
「主の晩餐」は、何よりもキリスト・イエスが制定した儀式です。私たちは毎月「主の晩餐」の礼典に与っていますから、その時に語られるイエスの御言葉を思い起こしていただくと良くわかると思います。イエスは言われました。「わたしの記念としてこのように行いなさい」(コリントの信徒への手紙一11章24節)それはちょうどユダヤ人にとって毎年の過ぎ越し祭を祝うことが、神の命令に従うことであるように、私たち主なる神を信じる者は、イエスが命じられたように「主の晩餐」を行うということです。
また、「わたしの記念として」というのは、二千年前のキリストの苦難と死を思い起こすと同時に、「主の晩餐」に与ることによって、キリストの十字架の苦難と復活の出来事が、まさに今の私たちの救いのためであったことを記念することなのです。ですから「主の晩餐」は単にキリストの死を追悼する記念会などではありません。この礼典は、現在の私たちの死をも覚える時であるのです。「主の晩餐」の礼典に私たちを招いてくださるのは、イエス・キリストです。私たちはこの礼典で、救いの完成者、復活の主、生けるキリストに出会うのです。
次に「このように行いなさい。」と言われていることにも注意する必要があります。「主の晩餐」では、一連の行為が続きますが、一つひとつが大切な意味を持っています。まずパンを「取り」「感謝して」これを「裂き」ます。同じように杯も、「取り」「感謝して」「与えられた」のです。これらの行為は、イエスが十字架の上でご自身の肉を裂き、血を流された行為を具体的に表現しています。そのこと覚えながら「主の晩餐」に参加することで、私たちも救いの福音の恵みに与るのです。
そして、この「主の晩餐」の礼典は、「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(コリントの信徒への手紙一11章26節)という大事な福音宣教の働きを担っています。世の終わりまで、この礼典は繰り返し行われます。私たち主を信じる者は、この礼典を通して主イエスの死を告げ知らせることによって、私たち人間が神に救われて生かされていることを語り伝えているのです。
「主の晩餐」は単なる儀式ではありません。毎週の礼拝では、言葉による説教が行われますが、「主の晩餐」は行為による、見える説教だとも言えます。主イエスの十字架と復活という人間の救いの福音を語るものです。しかも、それはたった一人ではなく、信仰者の共同体としてなされる業です。
「(17節)パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」ここでは、「主の晩餐」がキリストとの交わりだけではなく、主を信じる者同士の交わりをも形成することを示しています。言うまでもなく多様な信徒の集まりである教会が、パンと杯とに与ることによって、キリストの身体になることを意味しています。一つひとつの肢体である私たち一人ひとりが組み合わさって一つのキリストの身体を造っているのだということです。これは「主の晩餐」に秘められている実際的な力です。
このようなすばらしい恵みの中にいるキリスト者に対して、パウロは「(14節)わたしの愛する人たち」と呼びかけて、「偶像礼拝を避けなさい(14節)。」と勧めているのです。つまり、「主の晩餐」に与っているあなたがたは、偶像礼拝に陥ることがないように、逃れなさい、と勧めているのです。
先ほども言いましたように、コリント教会の人達は、偶像の神などは存在しないのだから、そういう偶像に関係した儀式や習慣に参加することは何の意味も持っていないのだと考えました。しかし、パウロが問題にしたのは、「偶像への供え物は、神ではなく悪霊に献げている」ということなのです。
18節に「肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。」とありますが、イスラエル人にとっては、供え物をする祭壇は神の臨在を現わしていました。従って祭壇の供え物を食するということは、見えざる神に近づき、交わり、恵みに与ると信じられていたのです。同じことが偶像の神に対しても言えるということです。ですから「(20節)いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。」と語っているのです。
それはまた、偶像に供えられた物を食べたり飲んだりすることもまた、やはり偶像礼拝に加担することになる、という論理です。偶像は一面から言えば、意味の無いものですが、しかし他面から考えれば、悪霊としての現実性を持っています。ですから、そういう供え物を食することは、その仲間になることになるのだというのです。そういう意味であなたがたは偶像礼拝を避けなさいと勧めているのです。
現代社会に生きる私たちは、直接的に異教の宮や神殿で宗教行事に参加したりすることはありません。しかし、先週もお話ししましたが、私たちの日常生活では、主なる神を崇める生活ではなく、自分のために偶像を造って拝んでいることがあるのではないでしょうか。忙しい毎日の生活も、主に感謝し主を崇めることを忘れて、お金や名誉や私利私欲のためであるなら、私たちはいつの間にか悪霊の仲間になってしまってはいないでしょうか。
パウロはコリント教会の人達に、「あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。」と言ってその理由を示します。「(21-22節)主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。」ここで、主の杯と悪霊の杯とが対比されています。現実には両方ともにあるのですから、「あれか、これか」の二者択一を迫っているのです。両方に与ることは不可能です。「主の晩餐」に与る者は主との交わりに与ることであり、偶像への供え物に与ることは悪霊の仲間になることです。この二つは対立しているものですから、両方の食卓につくことはできません。パウロは、主の食卓に与っている者が同時に悪霊の食卓に与るならば、「主にねたみを起こさせることになる」とまで語っています。
「ねたみを起こさせる」という表現は、申命記32章21節「彼らは神ならぬものをもって、わたしのねたみを引き起こし、むなしいものをもって、わたしの怒りを燃えたたせた。」の言葉に基づくもので、偶像を礼拝するイスラエルの民に対して、真実の神が怒りを現わしている個所です。選ばれたイスラエルの民と契約を交わした神は、混じりけのない純粋な愛を要求しておられるのです。ここではそれがキリストに適用されています。キリストもまた、私たちに純粋な愛と信頼を求めておられるのです。
最後にある「わたしたちは、主より強い者でしょうか。」という問いかけはもちろん皮肉です。コリント教会には、自分たちの知識を誇る強い人がたくさん存在していたことをふまえてのことでしょう。パウロがここで、「わたしたちは、主より強い者でしょうか。」と言っているのは、ある意味で、真の知恵は主を恐れることではないのですか、と説いているのだと思います。
私たちは主の食卓につく者とされたことを心から感謝したいと思います。「主の晩餐」に与ることによって私たちはイエスの死が私たちのためであり、私たちは復活の命に生かされていることを覚えたいと思います。そして新しい週も日々新しい命をいただいて歩んでいきたいと願っております。
(牧師 常廣澄子)