2023年6月18日(主日)
主日礼拝『 特別礼拝 』
ルカによる福音書 15章11~32節
シンガポール国際日本語教会牧師 伊藤世里江
昨年11月に伊藤が志村教会に来てから、半年余りの間に、教会の大切な方々を続けて、天に送る経験をされたことを思います。シンガポールでも、訃報の連絡が入るのですが、その時に、なになにさんは、天の家にお帰りになりましたというように書かれてきます。Went back to Home 家に帰る、地上の仮の住まいから、永遠の天の住まい、家賃の心配も、雨漏りも心配しなくていい、契約更新の必要もない、天の永遠の住まいへと居を移す。クリスチャンの地上での別れのとらえ方は、悲しく寂しいけれども、ポジティブです。辛いけれども絶望ではない。地上では辛いことも次々と経験する。しかし、どっこい、それは絶望で終わることはない。その先の永遠の希望へと導かれていく。天に帰ると考えるときに、わたしが思う聖書の箇所は、いわゆる放蕩息子の帰郷の箇所です。
今、読んでいただいた聖書の箇所は、放蕩息子のたとえ話と呼ばれてきました。しかし、今日の箇所のたとえ話は、ある人に息子が二人いた、とあるように、二人の息子と父の話です。いつの時代でも、親子やきょうだいの関係というのは、良いこともあれば、さまざまな葛藤を生むことでもあります。聖書は決して、理想的な絵に描いたような家庭をあらわしているのではありません。このたとえ話のこの家庭も、決して理想的な家庭とは呼べないものです。今日の箇所を改めてみていきましょう。
最初に弟息子が登場します。どのような理由かわかりませんが、この弟息子は家を出たくてしかたがありません。家を出るためには、お金も必要です。そのために、父が生きているうちに、財産を分けてくださいと父に頼むというありえない要求をします。これは、父に死んでくれというようなものです。今でさえも、財産分与は親が亡くなってからすることが普通です。それが家父長制度が強い、当時のユダヤ社会において、父親が生きている間に、財産分与を求めるのは、父親のことも、また、そのコミュニティのあり方も無視する非常識なことでした。
しかし、驚いたことに、父親はこの弟息子の要求を受け入れ、兄と弟に財産を分けました。兄には弟の2倍の財産が分けられました。それを受け入れた父親も当時の常識をはるかに超えています。弟はそれをすぐに現金化します。先祖代々の土地を簡単に売り払うことも、ありえないことでした。それはコミュニティの人たちの仕事を減らし、コミュニティの仲間であることも無視することでした。なぜ、この弟はそれほどまでに急いで、この家を出ようとしたのでしょうか?また、ここにはまったく女性が登場しません。母親は弟息子を止めなかったのでしょうか?兄もなぜ、弟を止めず、自分も財産を受け取ったのでしょうか?この家族の間でのコミュニケーションがよく取れていたとは思えません。今でいう機能不全家族だった可能性さえあります。
弟息子は遠い国に旅立ちます。遠い国というのですから、行った先は異邦人の国でしょう。そこで、財産を無駄使いして使い果たしてしまいました。なにもかも使い果たしたときに、飢饉が来ます。当時のイスラエルで大きな飢饉がたびたび来ていたことが記録されています。弟息子は食べるものがまったくない、ということを初めて経験します。そして、その地方のある人のところで豚の世話までします。豚はユダヤでは汚れた動物とされていました。その世話をするというのは、最低の仕事です。豚のえさのいなご豆をも食べたいと思うほどの空腹感。飢餓。だれも彼に食べ物をくれる人がいなかったという疎外感、孤独。彼は自分の人生の底を経験します。
17節以下「そこで、彼は我に返って言った。父のところには、大勢の雇人と有り余るほどのパンがある。雇人の一人としてでも、家に帰ろう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にしてください。」極度の空腹。食べることができないという生命の危機感は、弟息子を立ち返らせました。彼はそこをたち、父から離れようとしていたかつての自分から向きを変えて、父親のもとへと向かっていったのでした。
弟息子が遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走って行って、息子を抱き寄せ、接吻しました。息子が言う謝罪の言葉を途中でさえぎり、しもべたちに最上のお祝いの用意をさせます。それは、息子を雇人ではなく、「息子」として迎えることを、村の人たちにも示すことでもありました。良い服、指輪、履物など息子としてのしるしを用意させ、肥えた子牛をほふる。最上のお祝いです。村中の人を招けるだけの牛一頭をほふる大祝宴が用意されました。故郷を捨てていった息子が、コミュニティで迎えられるように、父親は先手を打って、息子を地域社会での信頼回復の道を開こうとします。
一方、兄は畑にいましたが、音楽や踊りの音に何事かとしもべの一人に聞きます。そこではじめて、弟が返ってきたことを知ります。「あなたの弟さんが返ってきたというので、お父様が子牛をほふられたのです。」そこで兄の怒りが爆発しました。兄は、祝いの席に入ろうとせず、弟の帰還を受け入れず、父親に向かって、初めて正面から怒りをあらわします。自分は何年もお父さんに仕えてきた、この仕えてきたと訳されている言葉は、奴隷として仕えてきたという言葉が使われています。喜んで仕えていたのではなく、義務だったから奴隷のようにそうしてきたというのです。あなたの言いつけに背いたこともない。それなのに、あなたは、自分には、友達との宴会のために、やぎ一匹くれなかったではありませんか。それなのに、あのあなたの息子(自分の弟とは決して言わない)、が娼婦どもと一緒にあなたの財産を食いつぶして帰ってくると、肥えた子牛を屠ってやる。弟息子は、聖書の言葉によると、「無駄使いした」とあるが、「娼婦たちと遊んで」とは書いてはいません。兄は本当は自分もそうしたいという願望があったのかもしれません。勝手に娼婦たちと遊んで使い果たしたと決め込みます。身勝手な弟に対しても、あまりに寛大すぎる父に対しても、そして、自分は父に弟のように扱ってもらえなかったという不満も一気に爆発します。
実はわたしたちの多くは、この兄の気持ちがよくわかります。好き勝手なことをして、財産をなくしてしまい、行き詰って戻ってくる弟よりも、父のもとにずっと残り、不平不満はあっても口にせず、それほど悪いこともせず、無難に生きていたこの兄の憤りに、共感を覚えるのではないでしょうか。わたしたちの多くは、弟のような無茶苦茶なことはあまりしません。決められたことをきちんと守り、それなりに正しく生きてきたと思うのです。しかし、ここで、父の思いを理解できず、父から遠く離れていたのは、兄もまったく同じことでした。父からどれほど多くのものをもらい、「わたしのものは全部おまえのものだ」と父がいうほどに、兄は、必要なすべてを備えられ、弟の倍の財産も受け取り、何不自由なく暮らしてきたのでした。それにもかかわらず、この兄には、父への感謝も、多くを与えられていることへの喜びもありません。
祝いの席に入ってこない兄のことを聞き、父親は外まで出てきて、兄をなだめます。この「なだめる」は懇願するという意味です。お願いだから、一緒に中に入って、おまえの弟が帰ってきたことを喜んでくれ。兄に対してのことば。31節「子よ。 お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは、全部お前のものだ。 お前のあの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」兄に対して、「お前のあの弟」だと言い換えています。さあ、兄はこの後どうしたと思いますか?怒りを納められない兄。怒りの感情はひとたび、爆発すると納めることが難しい。
この機能不全に近い、家族の関係は修復できるのか。兄が弟を受け入れる思いにならなければ、弟は家に戻っても居場所がなくなるのではないか。父親の寛大な愛情をこの二人の兄弟はどこまで知ることができるのでしょうか。自分は正しいと思っている分、兄が招きに応えて、弟や父と共に喜ぶ場所へと、入っていくことはより難しいとも言えます。
ルカによる福音書では、神の国が何度もお祝いの祝宴にたとえられます。祝宴を主催する主人の思いは、祝宴の席をいっぱいにすることです。富んでいる人も、貧しい人も、どんなセクシュアリティの人も、どんな国籍の人も、主なる神がホストであるお祝いの食卓に、感謝と喜びをもって招きに応えていくことです。この例え話の寛大な父の愛を思うとき、小さな思想信条の違いや、考え方の違いを超えて、父が招いてくださる食卓で、一緒に、おいしく食事を囲みたいと思わされます。
このたとえ話に出てくる家族も決して、理想的とは言えない家族です。それは、わたしたちの現実の姿でもあります。争いが絶えないこの地上の愚かな姿を創造主なる神は、いい加減にして、一緒にお祝いをしてくれ。お前に必要なものは、ちゃんとわたしが用意するのだから。きょうだいたち、仲直りしてくれ、お願いだから。と言っているようにも聞こえます。
わたしたちは、このたとえ話をどう聞くでしょうか?わたしたちの天の父は、わたしたちがどのような道を歩んだとしても、創造主である方のもとに帰ってくることを待っておられます。父のそばにいたにもかかわらず、思いは父から離れていた兄に対しても、父は戸の外で待ち続けます。兄が自分の意志で、弟を受け入れ、父と共に喜びの食卓に着くことを待っておられます。わたしたちの正しさなど、神さまの目からみれば、たかが知れたものです。
わたしたちには帰るべき天のホームが備えられています。それを思うときに、地上でのさまざまな困難も乗り越えられない試練はないのだと、思わされます。わたしは今回の帰国で、7年ぶりに北海道を訪ねました。わたしたち家族は北海道で生まれ育ち、わたしが14歳6か月、中2から中3に変わろうとする4月の初めに突然、夜逃げをして北海道から東京に出てきたのでした。わたしが長女で下に二人の弟がいました。少しばかりの着替えを詰めたバックだけを持って、上野駅に着いたときのことは54年前のことですが、昨日のことのように思い出します。友達にさよならも言えないままでした。今回、その時の同級生たちが、わたしの帰国に合わせてクラス会を開いてくれました。54年ぶりの再会です。わたしのことをインターネットで探して、連絡をしてくれたのです。数えるときりがない、さまざまなことがあった人生ですが、一つひとつを乗りこえる道が備えられてきたことには、感謝しかありません。
なによりも、イエス・キリストを20歳の時に知ることができ、バプテスマを受けて新しい人生を歩み始めることができたこと、その後、両親も同じ信仰に導かれたこと、この志村教会で家族で信仰生活を送ることができたことは、私たち家族の大きな支えでした。わたしたちの天の父も、わたしたちが戻ってくるように、わたしたちを探し続け、待ち続けておられます。いろいろなサインを送っては、わたしたちの心と思いも、父と共にいることを喜べるように、天の父は、今もわたしたちを待っておられます。
(シンガポール国際日本語教会牧師 伊藤世里江)