聖霊による喜び

2023年7月9日(主日)
主日礼拝『 誕生日祝福 』

ルカによる福音書 10章17~24節
牧師 永田邦夫

 本日も、ルカによる福音書からのメッセージをご一緒にお聞きして参りましょう。
主イエスさまのご生涯での伝道は、御自身の十字架と復活の予告を分岐点として、その前後で、大きく変わっていきます。そして、十字架と復活予告後の福音伝道に関する記事は、ルカによる福音書だけの独自記事としても、その多くが記されております。それは、このルカによる福音書が世界伝道を視野に入れながら、執筆され、ローマの高官テオフィロあてに献呈されている(本書の冒頭に記されています)ことからも理解できます。

 なお、主イエスさまが、最初の直弟子の十二人とは別に、世界伝道を視野に入れながら、七十二人の弟子を選び、伝道に派遣し、また、その帰還報告を聞く、これらは、ルカによる福音書ならではの典型的な記事です。そして、この伝道にまつわる出来事は、わたくしが担当させていただいた前回の説教から、さらに、本日の説教まで続いております。

 ここで、記憶を新たにしていただくために、前回説教の要点をお伝えしますと、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(10章2節)。そして「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」(10章3節)とありました。これらの言葉からは、いつの時代においても、伝道には、困難が伴うもの、また一方では逆に、これらのみ言葉からは、わたしたちの伝道の働きへの意欲と、力を沢山いただくことも出来ます。さらに加えますと、主イエスさまが、七十二人を派遣するに当たって、大切な指針となる言葉、即ち、行く先々で、相手の人に対し「神の国はあなたがたに近づいた、と言いなさい。」との御言葉は、今日のわたしたちの伝道に当たっても、大きな指針を与えてくれます。伝道に当たって、相手に伝えるべきは、決して難しい言葉ではない、単純に“神の国の到来を告げ知らせること”と、わたくしは思わされました。

 大分長くなりましたが、早速本日箇所に入っていきましょう。本日箇所は、二つの段落からなっていまして、最初は、遣わされた七十二人の帰還報告、後の段落は、弟子たちの報告を聞かれた主イエスさまの聖霊による喜びの祈りと、さらに、弟子たちへ送る言葉、となっています。先ず、帰還報告から見ていきましょう。七十二人は喜んで帰って来て言いました。「主のお名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」(10章17節)とです。彼らが喜んで帰って来た、までは良かったのですが、その後の言葉、“主のお名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します”という言葉が問題だったのです。これは、自分たちを中心にしての言葉、“悪霊さえもがわたしたちに従う”と言っているからです。このことは、続いてイエスさまも指摘されています。

 では、弟子たちの報告を聞いた直後に、イエスさまから出たお言葉を先に見ておきましょう。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。」(18節)とあります。以心伝心、と言いますが、弟子たちの伝道の中で起こった大きな出来事は、主イエスさまが即刻察知され、一部始終を読みとっておられたのです。そしてさらに続けてイエスさまは言われました「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を与えるものは何一つない。」(19節)とです。

 以上を要約しますと、弟子たちが遣わされた場で、全ての悪霊追放のわざが出来たのは、予め主イエスさまが、その権威と力を与えてくださっていたからです。そして弟子たちが行った先で行ったすべての出来事は、すでに、師であるイエスさまに伝わっていたのです。

 そして、20節のお言葉が、この段落の全てを締めくくる、極めて大切なお言葉です。それは「悪霊があなたがたに服従するからと言って、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」というお言葉です。

「名が天に書き記されている」とは、「命の書にその名が記されている」ということであり、また、「その人の国籍が天にある」、ということでもあります。また、このことは、そのとき傍にいた七十二人の弟子に限らず、全てのキリスト者に対しても通じるお言葉です。さらに加えますと、全てのキリスト者は、これを励みとして、伝道に携わらせていただいているのです。

 わたしたち、この志村教会の伝道の歴史は、すでに60有余年となっておりまして、ここ数年の間に、御国に召される方々も多くなっていますが、わたしたちは今も、地上での命をいただき、伝道に励んでいまして、やがては、天にある国籍へと召されるわけです。そして、天の国籍のことを、今は、力とし励みとして、この地上で命のある限り、精いっぱい働きたいと思わされております。

 次の段落(21節~24節)に入りましょう。ここは「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。」(21節a)と始まっています。そして、21節bから22節までを一気に見てからにします、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」とあります。冒頭の「そのとき」とは勿論、前の段落で、弟子七十二人が伝道から帰還しての、報告を聞いた直後のことです。主イエスが聖霊に満たされ、喜びにあふれての、言葉です。そして先に見てきました、21節bから22節は主イエスさまの祈りの言葉です。

 前の段落では、弟子たちに対する、きついお叱りのお言葉もありましたが、弟子たちの伝道報  告をお聞きになった、イエスさまご自身は、「今こそ救いの時が始まった」と心底喜ばれていたのです。遡りますと、イエスさまは御自身の、十字架と復活を予告され、それから間もなく、エルサレム行きを決断され、その後、七十二人の弟子選びをして“ご自分が行くつもりのすべての町や、村に”その人たちを伝道へと送り出しました。その人たちが伝道から帰って来ての報告が、本日箇所の最初の段落でした。その弟子たちの帰還報告に対して、一旦は、かなり厳しい言葉を使ったものの、内心は、喜びに溢れていたのでしょう。それが後段の冒頭で出て来た、「聖霊によって喜びに溢れて言われた」言葉となっています。

 また、21節bで、主イエスが言われていたお言葉の中に「幼子のような者」という言葉が出て来ました。これも弟子たちを表現している言葉です。これは、決して弟子たちの水準の低さを揶揄しようとした言葉ではありません。そうではなく、雑(まじ)り気のない、弟子たちの純真さを表した言葉、それが「幼子のような者」となったのです。

 以下、21節bから22節の、主イエスの祈り言葉について、もう一度、見ておきましょう。祈りの冒頭では、御父なる神への祈りがあり、次は“これらのこと”として、伝道先で行った七十二弟子のすべての業のことを挙げて、これらのことを弟子に与えてくださったことについて、父なる神を讃えて、感謝をおささげしています。

 以上は、御父なる神、御子イエス、そして、弟子たち、三者の喜びの祈りであることを、ここから教えられます。そしてさらに、教会の伝道の業は、それに携わる全ての者が、お互いに相手のことを、よく理解し合い、知り合い、そしてさらに、感謝し合うことが大切であることも示されました。

 このことが次の、23節、24節、段落の最後の言葉、「それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた、『あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。』」となっています。

 このとき、イエスさまが弟子たちを見ているその顔とその視線は本当にやさしい、顔、そして目であった、と想像できます。では、この、23,24の二節に記されている意味を見ていきましょう。旧約聖書の時代に、多くの預言者によって、メシア、すなわち救い主の到来が告げ知らされてきました。またそのメシア像は預言書にも記されてきました。ところが、そのメシアを預言者自身、さらに王たちは、実際に見ることはありませんでした。それは後の時代となるからです。

 ところが、いまこの23節、24節で、イエスさまが振り向いて見ておられる弟子たちは、その“メシアたる、主イエスさま”を実際に、今現在、見ているのです。ところが、イエスさま御自身が当事者ですので、それ以上のことは、何も言われていません。ただ、弟子たちの幸いを、讃えるにとどまっています。

 では、今日のわたしたちはどうでしょう。その主イエスさまは、十字架を経て、復活の主として、父なる神のもとにおられるのです。そしてさらに、その復活の主は、現在“イエスさまの体なる教会の主”として、わたしたちと共にいてくださる、という、信仰に基づいて、わたしたちは、生き、そして、教会の業(わざ)なる福音伝道に携わらせていただいています。感謝なことです。

 本日の段落全体を通して、わたしたちが示されておりますことは、主イエスさまが“エルサレム行きの途上”で選ばれた、七十二人の弟子とは、主イエスさまから、世界伝道を託された弟子達であって、そこには、現在のわたしたちも含まれており、この七十二人に告げられた宣教命令、さらには、その途上での、お叱りの言葉、逆に、お褒めの言葉、喜びの言葉も、そのすべてのことを含めて、わたしたちへの言葉でもある、ということを信じながら、これからも、ご一緒に、伝道の業に、励んでいきたい、と願っています。

(牧師 永田邦夫)