イエスは神が遣わされた方

2023年7月30日(主日)
主日礼拝

使徒言行録 2章14~36節
牧師 常廣澄子

 5月のペンテコステ(聖霊降臨)礼拝では、2章の前半部分の御言葉から聞いてまいりました。聖霊が降った時、その場は本当に前代未聞の騒然とした状況だったのです。その驚くべき出来事に遭遇した人々の中には、自分の国の言葉で神の御業が話されているのを聞いて、感動した人達もいたでしょうが、逆に言葉のわからない人達や、真の神を信じようとしない人達は「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と嘲り、ののしるような人達もいたのです。そういういろんな人達を相手に堂々と語ったのがペトロでした。今朝はペトロが弟子達を代表して語った長い演説から聞いていきたいと思います。これはキリスト教最初の説教とも言うことができると思います。

 まずペトロは、自分たちが「新しいぶどう酒に酔っているのだ。」と嘲る人達に向かって言いました。「(15節)今は、朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。」ユダヤ人は朝、昼、晩の一日に三回お祈りをしました。おそらく「朝の九時」が朝の祈りの時刻だったのでしょう。ユダヤ人は神殿で朝のいけにえが捧げられて、祈りが終わるまでは食事をとりませんでした。ですから朝食前から酒を飲んで酔っぱらうことなど考えられませんでした。ではこの驚くべき出来事の原因はどこにあるのか、ということをペトロは預言者ヨエルの言葉から説明していきました。「(16節)これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。」

 ペトロはヨエル書3章1-5節を、いくつかの修正を加えて引用しています。それが17節から21節までに書かれています。「(17-21節)『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』」

 ペトロがヨエル書を引用して語っていることは、今起きている出来事(聖霊降臨)が、終末到来のしるしだということです。「主の偉大な輝かしい日が来る前」に、「天」や「地」や「太陽」や「月」に起こる大規模な天変地異と同じように、終末の前兆なのだということです。旧約時代の預言者達は、来るべき時が来る顕著なしるしとして、神の霊が大きな働きをすることを預言していました。17節にあるように、神の霊がすべての人に注がれるのです。「注ぐ」という表現が示すように、それほどに豊かにすべての人に与えられるのだということです。

 その聖霊の賜物は、無差別にすべての人に満ちるものではなく、21節にあるように「主の名を呼び求める者」に与えられるというのです。つまり、イエスを主と呼ぶ者に聖霊の注ぎがあるというのです。ペトロの説教は、このことを証しするものでした。つい五十日ほど前にエルサレムで十字架に架けて殺されたイエスはいったい何者であるのか、そして今ここに注がれている聖霊とはどういう関係にあるのか、それをペトロは解明していくのです。

 イエスというお方はいったいどういう人間だったのでしょうか。ペトロはイエスについて一つ一つ解き明かしていきます。先ず生前のイエスについてです。イエスはナザレ人でしたが、決して片田舎のただの人ではありませんでした。「(22-23節)イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」一気にこのように語りますが、ここまでは、ここに集まっているエルサレム市民にとってことごとく見聞きしていたことでした。

 ここからは旧約聖書を引用して丁寧に論証していきます。イエスを知らないと否認したり、いつも何かと失策をやらかすペトロが、このように旧約聖書の御言葉をもって論証する知恵や、その語り方の見事さには驚くばかりです。

 まず始めは、イエスが死後三日目に復活されたことです。「(24節)しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。」このところで、ペトロはダビデの言葉を引用しています。これは詩編16編8-11節の御言葉です。「(25-28節)ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』」

 ダビデはいつも自分の前に主を見ていました。また主がいつも自分の右におられるという信仰をもって、神との交わりの中で生きていました。ダビデの心は喜び、楽しみ、希望に生きていたのです。ですから例え死んだとしてもこの関係は続くだろうと考えていました。27節に書かれているように、きっと主なる神は「わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれないだろう。」との確信を述べたわけです。ところが、ダビデがいかに信仰深くて偉大な王であったとしても、彼の希望していた言葉はその通りにはならなかったのです。続く29節には「兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。」というように、ダビデは死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあるのだと語っています。史実では、この墓はエルサレム市の南東にあり、紀元133年頃ローマ皇帝ハドリアヌスの頃までそこにあったということです。
 
 ではダビデは偽りを語っていたのでしょうか。そうではありません。それが30節で語られています。「(30節)ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。」ダビデは、神が彼の子孫の一人をその王座に着かせると言われたことを知っていたほどの預言者だったと言っています。ここではそのメシアのことを預言していたのです。ダビデは次の31節に「そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。」とあるように、ダビデはキリスト(メシア)の復活を知っていたのです。つまり、死んで復活することこそが、旧約聖書が預言していた、メシアの特色だったのです。

 そのことを踏まえた上で、「(32節)神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」とペトロは自信をもって語っています。このイエスを神が復活させられた事実をはっきりと知らなくてはならないのだと、ここに集まっている人達に向かって語っているのです。
そして復活に続くのはイエスの昇天です。「(33-35節)それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』」

 ペトロはここで、イエスご自身が生前引用されたことがある(マタイによる福音書22章44節参照)詩編110編1節を引用しています。これもダビデの詩ですが、ダビデの生涯には当てはまりません。ダビデが天に昇ったわけではないからです。当時の人達が皆認めていたとおり、この詩もメシア預言です。ですから、イエスがつい十日ほど前に天に昇ったというニュースは、イエスがメシアであるということの強力な証拠でもあったのです。

 そればかりでなく、復活という出来事には、旧約聖書の預言と、居合わせた人達皆の証言という二重の根拠があったように、イエスの昇天に関しても同様に、旧約聖書からの預言だけでなく、「( 33節)イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」というように、ここにいる人々が実際に目撃している聖霊降臨の事実を指摘しています。今起こっている出来事がぶどう酒を飲んで酔っぱらった状態でない以上、エルサレムの市民達は、イエスの復活と昇天を認めざるを得ないということです。

 イエスが五十日ほど前に復活された時、ユダヤ当局は空になったイエスの墓を説明するために、夜中にイエスの弟子たちが来て死体を盗んだのだというデマを飛ばさせました(マタイによる福音書28章13節参照)。それを聞いた弟子たちは何一つ反論せずに、それ以降、ひたすら神に祈りつつエルサレムを離れずに過ごしてきました。本当にイエスが復活して今も生きておられるということは、いまここで起きていること、つまり弟子たちの一団に、昇天したイエスからの贈り物である聖霊が降ったということで、始めて一般市民に立証されているのです。

 それはペトロが説教の結論で語っているとおりです。「(36節)だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」人々がてっきり偽のメシアだと思っていたこのイエスが、神から「主、メシアとして」立てられたお方であったというのです。つまり聖霊降臨こそが人々のイエスに対する見方を一変させる出来事であったわけです。

 ペトロの長い演説で大事なことは33節に「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」
とあるように、約束された聖霊はイエスの復活と昇天によって与えられたということです。ここに大切な真理があります。

 聖霊はいろいろなところで約束されていました。ヨエル書からも分かるように、旧約聖書では預言者によって約束されていました。イエス御自身も「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける(使徒言行録1章8節)。」という約束を言い残していかれました。また「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい(使徒言行録1章4節)。」と言われたように、天の神からの約束がありました。このように、いろいろなところで約束されていた聖霊ですが、ただ一つイエスが天に昇って行かない限り、実現しなかったのです。

 天に昇った人がいなかったわけではありません。エノク(創世記5章24節)もエリヤ(列王記下2章11節)も死を見ずに天に連れ去られました。死んでこの世から神の身許に召された信仰の先輩達は無数におられます。しかし約束の聖霊はそうした人達の取り次ぎでは降られなかったのです。ただ神の右に上げられたイエスだけが、約束の聖霊を送ってくださったのです。この聖霊は私達にイエスのことを知らせます。聖霊によらなければ、誰も「イエスは主です。」と言うことはできません(コリントの信徒への手紙一12章3節)。イエスを主と告白する信仰こそ聖霊の賜物です。また聖霊は、私たちの心を讃美と喜びで満たしてくれます。

 弟子たちはこの日、聖霊が注がれた時から、大きく変えられました。すべての信徒がイエスを主と告白し、讃美し、どこにいても、何ものをも恐れずにその信仰を語ったのです。この時から、キリスト教の礼拝が世の中で堂々と開始されました。そして二千年経った今も、私達が教会での礼拝を守っているこの中に、主の御霊が臨在され働いておられるのです。生まれながらの人間である私達が神を信じて、救いの喜びと感謝の生活へと導かれた幸いは、イエスの霊が今も生きて働いておられる証拠です。新しい週も、御霊なる生ける主と共に歩んでまいりたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)