平和をつくる

2023年8月13日(主日)
主日礼拝『 平和礼拝・証・誕生日祝福 』

マタイによる福音書 5章9節
牧師 常廣澄子

 8月は夏の真っ盛りで大変暑い時期ですが、夏休みに入っている子ども達が路地や近くの公園で楽しそうな声を響かせていて、散歩している高齢の方々もつい足を止めてにこにこしておられます。青空の下のこのような平和な日常が突然破られたのが78年前の出来事です。8月6日と9日、広島と長崎に相次いで恐ろしい原子爆弾が投下され、一瞬にして多くの命が奪われました。命が助かった人達もこの世の地獄を体験しました。皆さんも写真や映像でその恐ろしさをご覧になったことがあると思います。その上にその後何十年も後遺症で苦しんでおられる方々がおられるのです。戦争は何という惨い残酷なことを引き起こすのでしょうか。

 6日と9日は、それぞれの市で平和祈念式典が開かれ、それぞれの市長が平和宣言をいたしました。長崎市長は、原爆を体験してご自身も酷い火傷で苦しんだ谷口稜曄(すみてる)さんがニューヨークの国連本部で語った言葉「私を最後の被爆者に」を引用されました。こんな惨いことは自分で最後にしてほしいとの願いです。しかし、原子爆弾こそ落とされていませんが、今なお世界の各地で戦争や争いが続いています。たくさんの方が殺され、傷つき、苦しんでいます。平穏に暮らしていた人達が住む所を奪われ、家族を奪われ、生活を奪われています。一体何のために愚かな戦争をするのかと思いますが、世界には戦争をして何らかの利益を得る人達がいるのでしょう。自分さえよければ人が死のうが傷つこうが関係ないと思う人間がこの世界にはいるのです。

 イエスはここで、弟子たちに「平和を実現する人々は、幸いである。」(口語訳聖書では「平和をつくり出す人たちは、さいわいである。」)と言われました。「平和を楽しむことができる人たちはさいわいである。」と言われたのではありません。「争いを好まない人たちは、さいわいである。」と言われたのでもありません。誰でも争いは好まないでしょうから、イエスのお言葉がもしそうであったなら気が休まります。私は臆病な人間で争いが好きではありませんからほっとします。しかし、イエスは「そうではない。あなたがたは平和をつくり出す人間になるのだ。」と言われたのです。「争いを避けて通る人ではなく、平和をつくり出す人こそ、さいわいなのだ。」と言われたのです。

 今、これを聞いている皆さまの中に、あるいは皆さまの身近なところが平和でなくて争いが起きているところがあるでしょうか。あるいは、争いがあるところに出向いて行って、その争いを止めさせ、平和をつくろうとしている方がおられるでしょうか。これを聞くと、皆さんはすぐに日本バプテスト連盟のミッションボランティア佐々木和之さんのことを思い浮かべるかもしれません。1994年にルワンダで起きた民族対立による大虐殺で、100万人以上が犠牲になりましたが、そこに残された被害者と加害者のために「償いの家づくり」等を通して和解のために働いておられます。今は、PIASS(プロテスタント人文社会科学大学Protestant Institute of Arts and Social Sciences)に平和紛争学科を設立し、平和構築学の教授としていろいろな国から集まって来た学生達を教えておられます。この大学には日本から留学する方もおられ、卒業後は世界に羽ばたいて平和のために働いておられます。大変素晴らしいことですが誰にでもできることではありません。

「平和を実現する」「平和をつくり出す」という言葉は非常に重い言葉です。まして、この言葉について語ることは非常に重い責任があります。私は今日の平和礼拝のためにこの聖書個所を選んだ後、大変苦しくなりました。私達は今までに何度も何度も繰り返してこの御言葉を聞いています。そして、たてまえとしてこの御言葉を受け入れていますが、その心の奥では、この御言葉から遠く離れて生きていることを認めざるを得ません。主なる神は、この御言葉に対しての人間の現実をよくわかっておられたに違いありません。しかし人間の現実をおわかりになった上で、あえて「平和をつくり出す者として生きなさい。」と語っておられるのです。そして平和をつくり出すという、積極的な行為を勧めておられるのです。

 聖書が語る平和(ギリシア語エイレーネ―、ヘブライ語シャローム)は、人間の内面の平安という心情面だけを指す言葉ではありません。もともとはあらゆる種類にわたっての繁栄、欠けのない状態を指す言葉です。神に救われ、仕事も健康も家庭もあらゆる面で満ち足りた完全な状態の総括だとも言えるでしょう。この言葉は究極的には神が成し遂げられる救いの目標であるかもしれません。しかし私達人間が、それぞれの力に応じて平和をつくり出すための努力をしていくならば、そのこと自体がこのような神の業に参与することにつながっていくのではないでしょうか。

 確かに今の我が国は、平和憲法のもとに戦後78年間、戦争をせずに平和な国として存在しています。しかし昨今は自衛のためという理由のもとに軍備が増強されています。どんどん戦争をする国に近づいているのです。平和という言葉が中味のないスローガンになってしまいました。実際の世の中を見ても、考えられないような悲惨な事件が頻発し、表面の華やかさの陰で多くの人が苦しみ悲しみ飢えているという現実は、戦争という出来事にはなっていないかもしれませんが、真の平和からは程遠いものがあります。では不和や争いが人間の現実であって、平和は夢に過ぎないのでしょうか。人間には平和をつくり出すことは無理なのでしょうか。

 聖書を見ていきますと、イザヤ書(9章5節)の預言では、イエスは「平和の君」と唱えられると書いてあります。エフェソの信徒への手紙2章14節には「実に、キリストは私たちの平和であります。」とあり、15節には「こうしてキリストは双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」と語られています。ここではイエスによってこの世界に真の平和がつくられていくことがわかります。では、平和は神の成されることであって、私達人間は平和のためには何もできないのでしょうか。しかし、その国の支配者であるか、あるいはローマ皇帝のような権力を持った者であれば、社会に平和をつくることが可能であるかもしれません。そしてこの御言葉では、平和をつくれば、彼は「神の子と呼ばれるであろう。」と言われています。しかし「神の子」という言葉は、聖書ではイエスご自身に対して用いられている言葉です。ただ聖書以外で用いられる時は、やはり支配する権力を持った者に対して使われます。つまり当時であればローマ皇帝でした。人々はローマ皇帝を「神の子」と呼んだのです。いや、皇帝自身がその名で呼ばれることを望み、要求していたのです。

 つまり地上には、平和をつくり出す者であるが故に「神の子」と呼ばれる人が現実にいたわけです。その国に生きる民衆は平和を欲していますから、平和な社会をつくって民衆に応える者こそ真の王、神の子とされたのです。ところが争いがあったのでは平和な社会とは言えませんから、平和な社会にするためにはまず争いを止めさせなければなりません。争いを止めさせるためには、どんな力にも対抗して勝つことができる強い軍隊が必要です。そのように、最大の権力と最強の軍隊とを持つ者こそが、平和をつくり出す者という名前に価したのです。力ある者こそ神の子にふさわしい、そのように人々が思ったとしても当然だったでしょう。

 しかしイエスはこの言葉を、皇帝のように権力がある強い人達に語ったのではありません。彼らとは全く無縁の人達です。ご自分の前に座ってじっと聞き入っている弟子たちや、その弟子たちを囲んで座っている民衆に向かって語ったのです。社会的には何の地位もない、無力で弱くて貧しくて、うずくまることしかできない人達に向かって「平和をつくり出す人たちはさいわいです。」と語られたのです。このイエスの言葉には激しさと力強さが込められているように思えます。イエスは当時の人々が思っていること考えていることをひっくり返したのです。イエスは今の私達にもそのように挑んでおられるのだと思います。イエスがこの言葉を語られたのは、当時の権力者や宗教指導者、律法学者達に対して語られたのではなかったことをしっかり覚えたいと思います。

 預言者エレミヤは平和について神の言葉を語りました。「(エレミヤ書6章13-14節)身分の低い者から高い者に至るまで、皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』と言う。」同じ言葉が8章10-11節にも繰り返されています。当時、信仰の指導者達は、神殿の祭事を司っている自分たちの働きによって、平和がつくり出されているのだ、と思っていたのです。「平和だ、平和だ」と叫び、心配するな、と民衆に呼びかけていたのです。ところが、そこに本当の平和はありませんでした。民衆を欺き、ごまかしただけです。イエスはこのエレミヤの言葉を受けて、本当の平和について語られたのです。

 考えてみれば、政治も宗教も平和を語っているのです。政治は社会の治安や繁栄という平和を語り、宗教は心の平和を語ります。政治家は自分たちこそ社会をよくする者、平和をつくり出す者だと叫んでいます。選挙になると、駅頭で自分たちの党の公約を叫んでいる候補者と同じです。しかし、イエスはそこで平和がつくられるとは言われませんでした。国のあり方を任せているのですから政治は大事です。私たちが落ち着いて暮らせるように国の治安を考え、法律や制度を検討しいろいろと努力されて改革してくれています。しかし、政治家が一生懸命に頑張っておられたとしても、それで平和がつくられるのでしょうか。今、教会学校では創世記を学んでいますが、そこでは罪の起源とも言うべきところを学んでいます。そこなのです。すべての人間が持つその根源的な罪というものの解決なしには、この人間社会では平和のつくりようがないのです。イエスはそれを知っておられました。

 ではそのような不可能なことをなぜイエスは人間に言われたのでしょうか。なぜ、「この世では本当の平和はつくれません。私が再び来る日まで人間が平和に生きることは不可能です。」と言われなかったのでしょうか。しかしここでイエスは、絶望的な言葉ではなく、人間に希望を託すかのように、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである。」と言われたのです。先ほども言いましたが、ここでイエスの言葉を聞いている人達は全く無力な弱い貧しい人達です。政治や軍事の専門家ではありません。彼らに向かって平和をつくり出すことを求めているのです。

 イエスは一体何を求めておられたのでしょうか。ある人は、平和をつくるというのは争っている人々の中に平和をつくり出すことだから、互いに和解させることだ。と言います。確かにそれは大事な事でしょう。しかしその前に気づかなくてはならないことがあります。それは、いかにしても平和をつくり出すことができない絶望的な人間に対して、イエスの方から近づいて救ってくださったということです。
このイエスにおける神の愛と平和が語られているのが、ローマの信徒への手紙5章1節です。「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。」私たち信じる者と神との間には既に平和が始まっているということです。私たちと神との間には和解が成り立っていて、今私たちは神との平和の中に生かされているのです。

 神は、私達人間を互いに争い合うために造られたのではありません。互いに平和に生きること、それが神の御心です。神に背を向け、殺すなという神の掟を無視し、戦いを止めない人間世界、そこには神との交わりが切れています。そこに平和がないのは当然です。しかしそこから立ち返る道があります。私達のところに近づいて来られ、手を差し伸べておられるイエスの手を握ることです。イエスはご自身の十字架の重みをかけて、私達の手を握っておられます。

 国と国、人と人の間に争いが絶えないこの世に生きている私達です。その中で平和を求めて生きるには、ただ一つの根源である神との平和無くしてはすべてが空しいのです。イエスは言われているのではないでしょうか。「わたしは命をかけてあなた方の間に平和をつくりました。あなたがたはそこに立っています。だからあなたがたも平和をつくることができるのです。」小さな小さな働きであり、空しい努力かもしれません。しかし主を信じて、平和の輪をつくっていきたいと願います。私達の小さな言葉、小さな行いから、小さな平和がつくり出せることを信じて生きていきたいと思います。イエスはやがて来られます。その時、この世に真の平和が建設され完成されるに違いありません。イエスは私達にその仕事の一部を委ねていかれたのです。

(牧師 常廣澄子)