善いサマリア人

2023年8月20日(主日)
主日礼拝

ルカによる福音書 10章25~37節
牧師 永田邦夫

 わたしたちが今過ごしておりますこの8月は、わたしたち日本人にとりまして、原爆記念日、そして敗戦記念日があり、「平和についての思いを一層深くするとき」です。テレビや新聞では、そのことが連日、伝えられてきました。わたしたちキリスト者にとっては、主なる神、そして、キリストにある平和に思いを深くしていくときです。

 本日の説教は、「善いサマリア人」と題して、ルカによる福音書10章からです。もし、副題をつけるとしますと「本当の隣人とはだれか」です。そしてこの記事は、ルカによる福音書だけの独自記事でもあります。ある神学校で、「聖書の中で最も好きな譬え話はどれか」と、アンケートを取ったところ、圧倒的な支持を集めたのが、この善いサマリア人の譬え、だったそうです。そのように、人々から愛され、親しまれているこの譬え話も、その導入部分には「イエスを試そうとして言った。」(25節)とありますのは気がかりです。

 それは兎も角も、出だしの25節に「すると、ある律法の専門家が」とありますことから、この個所も、前の段落と関連があることを表していますので、それに簡単に触れておきたいと存じます。主イエスはエルサレム行きを決断されてから、七十二人の弟子を選び、伝道へと派遣、その七十二人が伝道から帰ってきて、喜びの報告をしている様子をご覧になったイエスさまは、聖霊によって喜びを弟子たちと共にした直後に、弟子たちに向かって言われました。「このような、師と弟子が喜びを共にする日(いわば「救いの日」)を昔の預言者や王たちは見ようとしても、見ることができなかった。」とです。

 前の段落での出来事を、傍らで聞いていたであろう、律法の専門家(以下では「律法学者」と呼ぶ)は、本日箇所に入りますと、「ここが我々律法学者の出番」と言わんばかりに立ち上がり、しかもイエスを試そうとする下心をもって、イエスに聞いてきた、と理解することができます。その律法学者は、主イエスに「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」(25節b)と問いました。この永遠の命は、当時から今も変わることのない大きな関心事でした。「小福音書」とも呼ばれる、ヨハネによる福音書3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とある通りです。

 本日箇所に戻りまして、律法学者の質問に対して、主イエスは問い返されました(26節)。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」とです。すると律法学者は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」(27節)と、得意げに答えました。なお、この答えの前半は申命記の6章5節から、後半はレビ記19章18節からです。

 この律法学者の答えに対して主イエスは、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」(28節)と告げ、すぐさまその実行を命じられました。律法学者は、律法について、自ら、他人に教える身ですから、その知識が深いのは当然ですが、大切なのは単なる知識ではなく、それを実行することなのです。しかし、イエスさまのこの命令に対して、律法学者は、そのまま引き下がるわけにはいきませんでした。

 29節「しかし、彼は自分を正当化しようとして『では、わたしの隣人とはだれですか』と言った。」とあります。この、自分を正当化するとは、自己弁護のことです。この「わたしの隣人とはだれか」のテーマは、今日の社会で、また世界の人々にとっても極めて重要なテーマです。冒頭でも触れてきましたが、「本当の平和」と「わたしの隣人とは」の二つは深い関係にあって、切っても切れない関係にあります。国と国同士、また人と人の間で、いつもこのことを自分に問いながら、行動を起こして行ったら、素晴らしい世の中になるのではないかと思わされます。

 聖書に戻り、主イエスは、30節から36節までの譬えと、さらなる問いをもってお応えになりました。まず30節前半に「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。」とありますので、まずこの二つの街を繋ぐ道など、その状景を先に見ておきます。

 エルサレムからエリコまで、その距離は27キロ程ですが、その高低差が大きく、約1000メートルあります。それはイスラエルという国の地形によります。因みに、エルサレムは海抜750メートルの高地にあり、エリコは死海から約7キロで、海抜もほぼ同じ(海面下300メートル位)です。よって、エルサレムからエリコに通じる道は急な坂道で、当時はあまり整備されておらず、岩が多く曲がりくねった坂道で、そのため、追いはぎも時々出没するような危険な道だったと言われます。30節後半「追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。」とあります。恐ろしいことです。

 次は31節からです。次々に三人の人がそこを通りかかりました。(31節、32節)「ある祭司がたまたまその道を下ってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。」とあります。この個所を読みますと、本当に胸が締め付けられるような悲しい思いになります。

 瀕死の重傷を負って、そこに倒れている人を見ながら、見て見ぬ振りをして、道の向こうがわを通って行ってしまう。全くの人でなし、そんな思いにされます。こともあろうに、祭司やレビ人は、当時神殿で神に仕える人だったのです。そのことをどこに捨ててしまったのかと疑いたくなります。

 その後で、そこを通りかかった人はサマリア人でした。そのことが33節以降に記されています。まず33節、34節を見ましょう。「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。」とあります。

 ここから、いわゆる“善いサマリア人の譬え”です。ここで登場したサマリア人が、瀕死の状態でそこに倒れている人のそばに近づき、自らの危険も一切顧みずに、重傷を負っている人の手当てをしている、この個所を読み進めていくとき、わたしたちの心は“ホット”させられ、また“胸にジンと”来るものがあります。

 次は35節「そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』」でした。(デナリオン銀貨二枚は、日当にして二日分に相当)このサマリア人の行動は、正に至れり尽くせりの介抱と周りへの気配りでした。

 この“善いサマリア人”の行いを参考にして、赤十字運動が起こされたのです。1959年、イタリアの統一戦争のとき、戦場で傷ついた人たちの悲惨な姿に心打たれ、故国スイスに帰り、政府に働きかけたことから、実際にこの運動が起こされたといわれます。それは、スイス人のジャン・アンリ・デュナンというクリスチャンによってです。

 聖書に戻りまして、このサマリア人によって行われた出来事は、多くの人の心を引きつけ、世界に大きな影響を残しております。この出来事は、普通の人同士でも勿論人を引きつけるものがありますが、掘り下げて見ていきますと、傷つき倒れていた人はユダヤ人であり、またそれを助けた人はサマリア人でした。すなわちこの両者は、日ごろから、また歴史的に見ても、悲しい対立関係にあったことを、皆さんもよくご存じでしょう。そのことを簡潔に見ておきましょう。

 イスラエルの国は、ダビデ、ソロモンの時代は統一王国でしたが、紀元前10世紀に分裂して、北イスラエルと南ユダの二国に分かれました。北イスラエルはゲリジム山に独自の神殿を築いていましたが、やがてアッシリアに攻められて敗れ、指導者は捕囚民としてアッシリアに連行されたのです。残された民は、アッシリアそのほかから入国してきた人達との混合の生活となり、また国際結婚(雑婚とは言わない)が行われ、異教の宗教も持ち込まれました。すなわち偶像礼拝が起こったのです。

 その後、南ユダも、バビロンの攻撃を受け、捕囚生活を強いられました。そして、紀元前5世紀の預言者エズラの時代になると、帰還した人々が神殿の再建に着手したとき、北イスラエルは南ユダ国に対して、その協力を申し出たにもかかわらず、南ユダはそれを断るという事態が起りました。南ユダは、北イスラエルの宗教的堕落を嫌ってのことですが、両国はこのように“犬猿の仲”の関係に陥ってしまったのです。

 この両者の関係は、新約聖書の時代になっても続いておりました。ルカによる福音書の本日箇所ももちろんですが、ほかにも代表的な出来事があります。それは、ヨハネによる福音書4章です。そこには「イエスとサマリアの女」という小見出しがついて、その9節には「すると、サマリアの女は『ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか』と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。」とあります。ここにもユダヤ人とサマリア人の冷え切った関係が表されています。

 本日箇所に戻りまして、主イエスはこの譬え話をされた後で、律法学者に向かって問いました。(36節)「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」とです。そして、その問いに対する律法学者の答えは「その人を助けた人です。」(37節前半)でした。

 以上、主イエスの問いと、律法学者の答え、当然といえば当然、ごく普通のやり取りに見えますが、微妙な言い回し、そして気遣いのような面も見られます。主イエスは、最初から自分を試そうと思いながら、種々聞いてくる律法学者に対して、丁寧に「あなたは」と繰り返しながら、言葉を、そして答えを繰り返しています。一方の律法学者は、最後の主イエスの問い「追いはぎに襲われた人の隣人とはだれか」に対して、「サマリア人」とは口に出すことなく、「その人を助けた人です。」という言い回しをしているのにも注目です。要するに、律法学者の魂胆が何であろうが、主イエスは最後まで丁寧に応えつつ、大事なのは単なる知識だけではない「行動あるのみ、実行あるのみ」と言われているのです。37節の後半でも言われています。「行って、あなたも同じようにしなさい。」と、その実行を促し、諭しています。

 すなわち、主イエスを試そうとして近づいてきた律法学者に対して、大切なのは知識ではない、また言葉だけでもない。たとえ日ごろは対立している人であっても、その人が困っているとき、また人が助けを求めているときは、その人に近づき、その人の隣人となり、その人の必要を満たしてあげる、このことが本当の隣人になることである、と教えておられたのです。わたしたちも、このことをよく肝に命じながら、これからも人々の隣人として励んで参りましょう。

(牧師 永田邦夫)