主の祈り

2023年9月10日(主日)
主日礼拝『 誕生日祝福 』

ルカによる福音書 11章1~4節
牧師 永田邦夫

 本日も、主の日の礼拝に共に招かれましたことを感謝いたします。そして本日も引き続いて、ルカによる福音書からのメッセージをご一緒にお聞きして参りましょう。本日は、「主の祈り」について、皆さまと共に考え、そして分かち合うことができますようにと、願っております。

 早速、聖書個所に入っていきます。1節には「イエスはある所で祈っておられた。」と、本日箇所が置かれた情景から始まっています。ところで、“祈っておられる主イエスのお姿”は、イエスさまの特徴のひとつです。ルカによる福音書では、先ず3章21節、22節aにあります、主イエスがバプテスマを受けられたときの様子「民衆が皆バプテスマを受け、イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた。」とあります。このときは、主イエスのバプテスマと共に、聖霊も目に見える姿で天から降っております。
また、主イエスが十二弟子を選ばれたとき、6章の12節、13節「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。」とあります。“主イエスの徹夜の祈り”これも大きな特徴です。
また、“変貌のイエス”とも言われている、イエスさまの厳しい祈りのお姿があります。主イエスさまが、ご自身の死と復活を始めて予告されてから八日目のこと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ等、主立った弟子を連れて、祈るために山に登られまして、「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります。この時の主イエスのお姿を想像しますと、とてもこの世のイエスさまとは思えないお姿であった、と思わされます。 (9章21節から29節)。
では、神の御子であられる主イエスなのに、なぜ、父なる神に向かって祈る必要があったのでしょうか。それは、イエスさまが神の御子でいらっしゃるからこそ、父なる神に向かって、神の御心をお聞きするために、祈る必要があったのです。先に見てきましたように、主イエスさまが熱心に祈られているお姿を想像しますと、まさに、御父なる神の御子として世に来られた、そのイエスさまのお姿そのもの、と思わされます。

 聖書に戻り、再度1節を見ますと 「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。」とあります。ここで、ヨハネとはもちろんバプテスマのヨハネのことです。当時、ユダヤ教のラビ(先生、または指導者)は、自分たちの学派や、集団のために、固有の祈りを持っていた、と言われています。自分の集団の人々に対して、簡単な祈り方を教えることが習慣となっていたのです。この1節には、お独り祈っておられた主イエスさまのお姿があり、その祈りが終わるまで、傍らで弟子たちが、じっと待っていたのです。そしてイエスさまに頼みました。「ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも教えてほしい」とです。
 これを受けて主イエスさまが弟子たちに教えたのが、本日箇所に記されています「主の祈り」です。そしてこの「主の祈り」は、主イエスさまご自身が祈るための、“主の祈り”ではなく、弟子たち、すなわち、今日の私たちも含めて「祈るときは、こう言いなさい(祈りなさい)。」と教えてくださったのです。
大変長くなりましたが、祈りの内容に入って参ります。2節bには「父よ、御名が崇められますように」と、出だしの祈りを教えています。さらに、祈りの冒頭では「父よ」と呼びかけるところから始まっていることに注目しましょう。まずはじめに参考として、マルコによる福音書14章35節、36節を見ましょう。ここは、主イエスが十字架の出来事を前にして、ゲッセマネで祈られたその中に「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」とあります。ここで、アッバとは、アラム語で、「お父ちゃん」と、父親を親しく呼ぶ言葉です。ここでのイエスさまは、ご自身が本当に厳しい状況に置かれていますが、父なる神に向かって親しさを込めて、“お父さん”、あるいは、“父よ”、と繰り返しの言葉で呼びかけているのです。主イエスが苦しみの中にあっても、否、苦しみの中だからこそ、父なる神に、親しさを込め祈っておられる、非常に感動的な場面です。

 次は「御名が崇められますように」について見ていきましょう。ここで、御名の「名」すなわち、名前とは、その方の全存在、全人格を表す言葉です。参考までに詩編、111篇9節を見ますと「主は御自分の民に贖いを送り 契約をとこしえのものと定められた。御名は畏れ敬うべき聖なる御名。」とあります。ここは詩編の詠者が神を崇め讃えている言葉で、御名の意味がよく伝わってきます。
以上、主の祈りの冒頭の言葉は、神への呼びかけから始まり、それに続く祈りは「御名が崇められますように」でした。

 次は2節の最後の祈りの言葉「御国が来ますように」についてです。この祈りは、神がご支配されている世界、すなわち御国(あるいは神の国)が、私たちこの世界に実現しますように、との願いを込めた祈りです。ここでも、マルコによる福音書を参考にします。1章14節、15節には「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」と、主イエスがその伝道の初期に先ず、神の国の到来を告げていたことが記されています。
以上2節は、弟子の一人からの、“わたしたちにも祈りを教えてほしい”の願いに応えての、祈りの教えでした。またこの「御国が、神のご支配する国がこの地上に来ますように」は、今日の私たちにとりましても、いわば究極の祈りです。ところがどうでしょう。現在の世界は、神の国の実現どころか、益々そこから離れていくようにさえ思わされています。残念なことです。

 次は3節以降、すなわち主の祈りの後半へと入っていきます。ここは「わたしたち」すなわち、本日この聖書個所に出てくる弟子たちから始まって、今日のすべての人々につながる祈りでもあります。まず3節には「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。」とあります。ここを口語訳聖書では「わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。」とありまして、このほうが、意味をよく表しているように思います。わたしたちが生きていくためには、毎日毎日、食物を必要としています。その毎日の食物を、どうか毎日満たしてくださいますように、との祈りです。
ここで、出エジプト記の出来事を思い出します。イスラエルの民はエジプトで、長い苦難生活を強いられておりましたが、神は民をその奴隷生活から、モーセを指導者として立てて、導き出されました。しかしその途上で待っていたのは、“飢え渇きの苦難生活”でした。しかし神は、その苦難に対しても、天からのパンである、マナを日々降らせて、お腹を満たしてくださったのです(出エジプト記16章)。

 もう一つ、わたくしの経験からです。日本の国は、第二次世界大戦で敗戦しました。1945年のことです。敗戦後、わが日本の民は数年間、食糧難のときを経験しました。私が育った長野の我が家も然りでした。都会から、食料を求めての、いわゆる“買い出し”も時々来ていました。しかし、我が家は自分たちも貧しい生活をしているので、その買い出しにも十分に応じることができなかった、そんな思い出があります。しかし、国中がそうであれば、だれも愚痴をこぼす人もいなかったように思います。せっせと働き、そして、その困難な時代を乗り切ってきたのです。そしてやがて、次の言葉を(マスコミの言葉として)聞くようになりました。「最早、戦後ではない。」の言葉でした。

 次は4節「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」の祈りです。この祈りは、まず「わたしたちの罪の赦し」を神に祈り、そのあとに続いて、その条件として「わたしたちも、自分に対して負い目のある人を皆赦しますから」と言っているのです。
因みにこの箇所を、口語訳聖書では「わたしたちに負債のあるものを皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。」とありまして、この訳のほうが自然であるように思います。なお、この祈りの中で、「自分に負い目のある人を赦す」(新共同訳聖書)、あるいは「わたしたちに負債のある者をゆるす」は、ともに同じ意味です。すなわち、“負い目”とは、経済的な貸借関係ではなく、精神的に相手を傷つけ、また、精神的負担を与えて、相手に苦難や苦痛を強いていることを言っています。

 以上、この4節の意味を要約しますと、「もしも、わたしたちのことで、相手の人に負い目や精神的負担を与えている人がいましたら、その人を皆赦しますから、どうか主よ、わたしたちの罪をもお赦しください。」との祈りです。このようにわたしたちはいつも、謙虚に人との対人関係を持つことができましたら本当に素晴らしい、そして、そのようになりたい、と思わされております。

 今日の社会に目を向けますと、対人関係に由来する、と思われる痛ましい事件が沢山起きています。また国際的な出来事も然りです。そのような事件が少しでも減っていくように、改善されていくようにと、わたしたちは祈っていきましょう。

 ではここで、主イエスさまの、わたしたちに対する赦しに目を向けましょう。ご自身罪のない主イエスさまが、わたしたちの罪のすべて背負い、十字架の苦しみを経て、わたしたちを赦してくださったのです。その十字架上でのイエスさまのお言葉が、ルカによる福音書23章34節にあります。 「そのときイエスは言われた『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』」のお言葉です。

 最後は、4節の後半「わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」の祈りについてです。この祈りは、口語訳聖書では「わたしたちを試みに会わせないでください」としております。すなわち、新共同訳聖書での、“誘惑に遭わせないで”を、“試みに会わせないで”としているのです。
では、(口語訳聖書で用いている)「試み」と、(新共同訳聖書が用いている)、「誘惑に遭わせないで」について、どこがどう違うのかを把握したいと思います。
本来、「試み」については二通りの意味があります。一つは、「試練」の意味であり、もう一つは、悪しきものからの、「誘惑」のことです。
では前者、すなわち「試み」について、旧約聖書で用いている例を見ましょう。神がアブラハムを試されたこと、すなわち、「あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい、彼を焼き尽す献げ物として献げなさい」との命令によって、神はアブラハムの信仰を試されたという出来事がありました(創世記22章1節~19節)。
また、新約聖書での一例をあげますと、ヤコブの手紙1章に次のように、二つのことが記されています。一つは「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなた方は知っています。」(2節、3節)。また他のもう一つは、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」(同書1章12節)とあります。以上、これらから、「試す」とは、神からの試練を、良い意味で用いています。

 次は、先にあげました後者の例、すなわち、”悪しきものからの誘惑”の例を見ていきましょう。先にあげました、ヤコブの手紙1章の13節から15節を見ましょう、「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」とある通りです。

 では、主イエスさまが公生涯に入られる前に経験された、悪魔の誘惑のことを見ておきましょう。「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を “霊”によって引き回され。四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。」(ルカによる福音書4章1節~2節a)とあります。

 では、わたしたちはどうでしょうか。今のいまも、悪魔の誘惑に遭いかねない、弱い存在です。もしも「自分は強い」と思っている人がいました、そのような時こそ、悪魔の誘惑に付け入られる時かもしれません。
また、この「主の祈り」の中の最後の祈りとして、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください。」との祈りが置かれていることからも、多くのこと思わされました。

 以上、主の祈りにつきまして、皆さまと共に多くのことを学ぶことができましたことを感謝いたします。
これからも礼拝の中で、また日々、折々に、主の祈りを祈りながら、力強く、生かされて参りましょう。

(牧師 永田邦夫)