すべての民の大きな喜び

2023年12月24日(主日)
主日礼拝『 クリスマス礼拝 』

ルカによる福音書 2章8~20節
牧師 常廣澄子

 皆さん、クリスマスおめでとうございます。厳しい社会状況の中ですが、今年もこのように、ご一緒にクリスマス礼拝をお捧げできますことを心から感謝いたします。
 日本も例外ではありませんが、今、世界情勢は誠に危機的なところに置かれています。世界の各地で戦争や争いが止まず、連日、尊い命が奪われています。日々報道されるこれらの悲惨なニュースに私たちの心は痛み、悲しみとやり場のない怒りで満ちています。そのような中で迎える今年のクリスマスです。世界中の人達にとって、今まで以上に平和を願い、神の救いを願う気持ちが強くなっているように思います。神の御子がこの世にお生まれになったというこのクリスマスの出来事は、二千年前に、神がこの人間社会に介入されたという、驚くべき出来事ですが、神の御子は今、この時にも私たちのところに来ておられること、神にある平和はここにあるのだということを御言葉から聞いていきたいと思います。

 私たちは毎年、毎年、繰り返し、繰り返し、聖書に書かれているクリスマス物語を読み、その場面を想像し、それについて語り、またその物語を聞いています。そして独り子イエスをこの世に送ってくださった神の愛を感謝いたします。今朝お読みいただいた聖書箇所も良く知られているお話で、クリスマスの絵画によく描かれるクリスマス物語の一場面です。イエスは良い羊飼いであるといわれていますように、私たち人間は羊に例えられていますし、聖書の中には羊や羊飼いが良く出てきます。イスラエルの王となったダビデも、小さい頃、羊の世話をしていました。聖書の土地ユダヤには、羊飼いの仕事をする人がたくさんいました。

「(8節)その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」羊を飼う仕事は本当に大変です。たくさんの羊の群れを草や水のあるところに導いていき、危険や危ない場所から遠ざけ、夜は羊を狙ってやってくる狼などの動物から羊を守らなくてはなりません。羊飼いは羊と一緒に野宿しながら、夜通し交代で起きて羊の番をしていたのです。

 ある夜のこと、いつものように羊飼いたちが羊の番をしていた時のことです。「(9節)すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」その夜、主の天使が突然現れたのです。「主の栄光が周りを照らした」今まで経験したことがないすごいパワーの光が射しこんできたようです。何が起きたのかわかりませんから、羊飼いたちは非常に恐れました。するとこの天使は人間にわかる言葉で語ったのです。「(10-12節)天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」

 これはクリスマスの佳き訪れ、救い主イエス誕生の知らせです。「あなたがたのために救い主が生まれる」というニュースは、このようにまず最初に、野原にいた羊飼いに知らされたのです。羊飼いという仕事は、先ほど触れましたように、夜通し起きて羊の番をしなければいけませんし、草や水を求めてあちこち移動しなければならないので、安息日を守って神殿に詣でたり、細かい律法の規定を一つひとつ守ることなどとてもできません。ですから、彼らは人々から罪人だと言って卑しめられ、市民の権利さえも奪われていました。まさにこのような名もなく、みんなから虐げられていた人々の所に、まず最初に救い主の誕生が知らされたのです。

「あなたがたのために救い主が生まれる」ここで「あなたがたのために」と言われているのは、野原にいたこれらの羊飼いたちのことだけではありません。「あなたがた人間のために」つまり「この世界のすべての人々のために救い主が生まれた」ということです。それが「(10節)民全体に与えられる大きな喜び」ということです。天使が伝えたこの知らせは、人間が生きている現実の歴史の只中で、すべての人間に対して、その時間や空間を超えて響き渡っているのです。そうです。いまこの所にも神の恵みの訪れがあり、救いの喜びが与えられているのです。

 この後、天使たちが羊飼いたちから離れて天に去って行った時、羊飼いたちは「(15節)さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合いました。「(16節)そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。」とあります。ここには、救い主がこの世に来られた時の最初の礼拝もまた、最も貧しく卑しい人々によって捧げられたことがわかります。

 救い主である神の御子が生まれるのであるのなら、きっと王様の住んでいる立派な宮殿や、大きなお屋敷を想像するかもしれませんが、神はそのような行動はとられませんでした。神の御子は「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったから」(ルカによる福音書2章7節)たぶん家畜小屋で誕生し、「飼い葉桶」に寝かせられていたのです。「飼い葉桶」というのはやはり貧しさや低い姿を表しています。へりくだって、私たちの生活の真ん中に、しかも社会的に何の地位も立場もない、無力で貧しい人々の中に降って来られたのです。すべての人間の救い主は、その誕生のはじめから、いと小さき者、いと弱き者、いと貧しい者の救い主でした。

「飼い葉桶」に寝ている乳飲み子が救い主、メシアのしるしであるということについて、イザヤは「牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、私の民は見分けない。」(イザヤ書1章3節)というように、イスラエルの民が主イエスの飼い葉桶を知らないという預言を語っています。
確かに、イエスを救い主と認めない人々がたくさんいました。しかし、お読みしたように、ここで羊飼いたちは飼い葉桶のイエスを探し当てました。神の恵みから遠く離れているように思われていた者が、御子イエスの誕生を知って、神の恵みに与ることができたのです。クリスマスはそのように、悔い改めと喜びの時でもあると思います。

「(13節)すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。」「(14節)いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」羊飼いに語りかけた天使に続いて、天からさらに多くの天使たちが現れて加わりました。天の大軍と書かれていますから、すごい数なのでしょう。そして共に神を賛美しているのです。ここには天使の賛美が満ちあふれています。その夜、天使たちは、この世界に降された神の御子の誕生によって、新しい世界が始まったことを喜んで歌っていたのです。

 神の御子の誕生が何のためであったかというと、それは御子が人々の救い主となられるためでした。天におられる神は、人々が(つまり人間が)救われることを望まれ、そのことを喜ばれたからです。しかしながらそれは、神の御心がわからない私たち人間にとってはとうてい考えられないこと、思いもしないことでした。しかしここで天使たちが賛美して歌っているのは何のことかと言えば、イエスがマリアとヨセフという優しい両親のもとで生まれたことを喜び、羊飼いたちがこの御子を歓迎したことを喜んでいるのではありません。この世に神の御子が誕生したことによって、「あなたがた」と言われている人々(つまり私たちすべての人間)が救われるようになったということを喜んで歌っているのです。つまり神の力強い御業が現れたことを賛美しているのです。

 イエス御自身も、後に人々に語っておられます。放蕩息子の譬えの中ですが「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」(ルカによる福音書15章32節)「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちに喜びがある。」(ルカによる福音書15章10節)このように、一人でも悔い改めて(神を知り、神のもとに生きること)救われたならば、天において大きな喜びがあるというのです。そのことのために神がその独り子を世に降されたのですから、天で大きな喜びがあるのは当然です。今ここに生まれられた神の御子によって、神の栄光が輝いているのです。ですから、天使たちはまず神の栄光をほめたたえているのです。

 天使たちはいつも事ある毎に神のみ業をたたえ、神の栄光をほめたたえています。しかし、この時は今までにない言葉が付け加えられています。「地には平和、御心に適う人にあれ。」これは、この世界が平和でありますように、という祈りです。世界の各地で争いや戦争が続いている今、私たちは本当に平和を願い、日々祈り求めています。どうしたら平和な世界になるのでしょうか。

 今この世に新しく生まれた幼子は、この世界の新しい王であり、人々を罪の縄目から解放して、暗闇を打ち破って平和を与えられる王です。私たち人間は平和を求めています。今の緊迫した世界情勢の中では特に、世界中の人々が平和を求めています。しかし、人間は何と罪深い者でしょうか。平和のためには戦争もやむを得ないと思っています。しかし、真の平和は争いからは生まれないのです。罪人である人間と審判者である神の間に起こる不思議な平和、つまり罪を赦された魂と、罪を赦される神の間にある平和こそが本当の平和の源です。それを天使たちが賛美しているのです。

 天使たちはその平和は「御心に適う人にあれ(あるように)。」と歌っています。「御心に適う人」とは誰なのでしょうか。神を信じている人が「御心に適う人」なのでしょうか。しかし私たちはどう考えてみても神の御心に適う者ではあり得ません。神がどんなに私たちを愛していてくださったとしても、私たちは傲慢で冷ややかで、決して神を愛して御心に適うように生きているとは言えない者です。では「御心に適う人」とはいったい誰なのでしょうか。

 天使は羊飼いたちに告げました。「(10-11節)わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」この言葉から考えるなら、この「あなたがた」というのは、自分は御心に適わないと思っているすべての人のことではないでしょうか。この御言葉が語っていることは、たとえ私たちの罪がどんなに大きくても、神は「私(神)があなたがた(人間)を愛さないなら、あなたがたのために独り子を手離すはずがない。」と言われているのです。神は人間をこよなく愛しておられるのです。すべての人を愛され、赦そうと望んでおられるのです。すべての人を赦すために独り子をこの世にお降しになられたほどに、人間を愛しておられるのです。そしてその救いと赦しを信じた人々の心に、真の平和が訪れることを望んでおられるのです。

 天使が語る言葉を直接聞いたのは羊飼いたちでした。しかし、彼らがとりわけ貧しくて弱い存在だから救われるのではありません。反対に、頭が良くて律法を守ることができる学者や祭司長などこの世で立派だと言われている人たちが救われるのでもありません。後の時代の人たちが、一番最初に救いの御言葉を聞いた人たちが、この世で本当に弱くて小さな存在であったことを知ったなら、自分は彼らのようではないから救われないと言うことなどありませんから、最も小さな弱い立場の彼らが選ばれたのだと思います。神はすべての人が救われて神の民となることを望んでおられるのです。

 羊飼いたちは、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。そしてそれは、天使が語った言葉の通り「(12節)あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」であったのを見て、その乳飲み子が救い主であると信じ、「(20節)羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」のです。さらに羊飼いたちは「(17節)その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。」のでした。彼らは神の御心にそって最善の応答をしたのだと思います。救い主に出会い、神を賛美し、人々に知らせたのです。彼らは自分たちの人生を新たにスタートさせたのです。

 二千年前に起きたこの出来事が、クリスマスの大きな喜びです。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」は、「私のために、私の救い主としてお生まれになられた方だ」と信じるならば、誰であろうとその心の中に平和が満ちてきます。喜びがわいてきます。そして神を賛美しながら生きていくことができるのです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」神の御子が一人の人間としてこの世に来られたクリスマスの恵みの時、一人ひとりの心の中にも救い主がお生まれくださいますようにと心からお祈りいたします。

(牧師 常廣澄子)