2023年12月31日(主日)
主日礼拝
使徒言行録 4章1~22節
牧師 常廣澄子
2023年最後の礼拝となりました。この一年を感謝しながら、今朝も聖書から私たちの命の糧である御言葉をいただきたいと思います。
前回は3章のところをお読みしました。神殿に詣でたペトロとヨハネが、生まれながら足の不自由な男の人を立たせて歩かせたという驚くべき出来事に驚いて、大勢の人々が弟子たちのいた「ソロモンの回廊」と呼ばれる所に集まって来たので、ペトロは神の御業について熱く語った場面でした。イエスが十字架に架けられた時には、「イエスなど知らない」と逃げ惑っていたペトロでしたが、この時は、大勢の人を前にして見違えるように堂々と語りました。
話に夢中になっていたペトロたちが気づかないうちに、「(1節)ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。」二人が一所懸命話しているのをじっと聞いていたのでしょう。2節には「二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち」とありますから、3章のところに書かれている内容以外のことも、つまりイエスの復活やその他いろいろな話をしたことがわかります。時刻は、生まれつき足の不自由な男の人を癒したのが「午後三時の祈りの時」でしたから、それから既に1、2時間は経っていたと思われます。それで既に日暮れになっていましたので、「(3節)二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。」こうして、キリスト教が始まって以来、始めての逮捕、留置という事件が発生しました。
ペトロたちが逮捕されたことにはいくつかの理由がありました。彼らを逮捕したのは1節にあるように「祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々」でした。この中の「サドカイ派の人々」というのは、主に祭司や貴族や金持ち階級など、当時のユダヤ社会で政治的権力を握っていた階級で、ユダヤ教の信仰をきわめて合理的に解釈しようとしていた進歩主義者たちでした。また、23章8節に「サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。」とあるように、サドカイ派は復活を信じていませんでした。そういうサドカイ派の人々の教義から考えると、ペトロたちが「(2節)イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、いらだった」のは、当然のことでした。
次に、サドカイ派の人々の中には「祭司たち、神殿守衛長」がいました。「神殿守衛長」は、大祭司に次いで権力を持っている祭司で、神殿の治安を司っていました。こうした立場の人々にとっては、何の許可もなく神殿で民衆に教えること自体が、ゆゆしき問題だったのです。それで、このことを協議するために、次の日には議員、長老、律法学者たちが招集されました。議員というのは、宗教上の役員のことで、大祭司や神殿守衛長、祭司たちのことです。祭司たち、長老、律法学者たちというこの三階級が招集されたというのは、ユダヤ最高議会(サンヘドリン)が開かれたということです。議長を務める大祭司はカイアファでしたが、当時、彼の舅であり、前々代の大祭司であったアンナスもまだ存命中でした。旧約の教え通り、大祭司は終身職と信じていた保守的なユダヤ教徒にとってはアンナスこそが大祭司だと思われていました。「(6節)大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。」このヨハネという人は、アンナスの子ヨナタンのことかもしれないという説もありますが、アレクサンドロのこともよくわかっていません。とにかく大祭司の一族が集まって来たことは確かのようです。
しかしここで注目すべきことは、サンヘドリンには、「長老、律法学者たち」が参加していたということです。これら一般民衆の代表者「長老」や「律法学者たち」は、ファリサイ派の人々でした。ですから、昨日の夕方、ペトロとヨハネを逮捕した時の、復活に反対しているサドカイ派の教理的な理由は、この議員たちには通用しませんでした。それで結局、尋問の内容は「(7節)そして、使徒たちを真ん中に立たせて、『お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか』と尋問した。」というように変わってしまったのです。
「ああいうこと」というのは、生まれつき足の不自由な男を癒した奇跡のことです。また「何の権威によって」というのは、「何の力によって」ということで、法律に従っているか従っていないかということより、奇跡を起こした力の正体がどこにあるのかを問うているのです。
この「だれの名によって」という質問については、当時の迷信や魔術がどのようであったかを考えなくてはよく分からないことです。イエスが活動されていた時、弟子ではないユダヤ人が勝手にイエスの名をかたって悪霊追放の真似をしたことがありました。「そこで、ヨハネが言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。』」(ルカによる福音書9章49節)またエフェソでは、ユダヤ人の祈祷師たちが、試みにパウロの唱えるイエスの名を使って悪霊を追放しようとしたことが書かれています。「ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、『パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる』と言う者があった。」(使徒言行録19章13節)このように、古代の人々の間では、「だれの名によって」奇跡を行うかは大きな問題だったのです。
ペトロはこれらの問いに対して的確に答弁しました。問題となった「ああいうこと」については、「(9節)今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば」と語り出します。逮捕されたのが、神殿の秩序を乱したとか、死人の復活の有無ではなく、「ああいうこと」だけが問題なら、それは「良い業」であり、「癒された、めでたい出来事」に他なりません。ですから良い業について調べられ、罰せられるいわれなどないのです。
次に「何の権威によって」ということについては、「(10節)あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」ユダヤの権力者たちが殺してしまったイエス・キリストは、神が死者の中から復活させられたのだ、そのように、神殿の権威も死をも上回る神の力がこの奇跡をもたらしたのだと語ったのです。またそれが「だれの名によってか」と言うならば、「神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」と。
しかしイスラエルでは、ただ結果だけを見て、それが素晴らしい立派な奇跡だからといって、それを行った名(その人)を崇拝することは禁じられていました。そのことは申命記13章1-3節に書かれていますが、イスラエルの民が真の神を離れて、他の神々を礼拝するようになることへの警告です。ですからイエスの名によって奇跡が起こったことや、その奇跡が良い業であったこととは別にして、ユダヤ最高議会が冒涜罪で死刑にしたナザレ人イエスの名が、「他の神々」のような非合法の偶像や、迷信や邪教の名でないことを立証しなければなりませんでした。
それをペトロは詩編118編22節を用いて語ったのです。「(11-12節)この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
ソロモンの神殿は紀元前587年にバビロン軍によって滅ぼされました。その後50年程経った紀元前539年に、バビロンに捕らわれていたユダヤ人たちは帰国を許され、神殿を再建しました。その再建の時、天井部分で二つの壁が合わさる隅の部分に位置する最も栄光ある親石のことを、詩人が歌っているのです。それと同じように、イエスは、神の家を建てる者たちである「あなたがた」権力者たちからは「捨てられた」けれども、今や復活と昇天によって神の家の「親石」となっておられるのだと語ったのです。神の家の一員となる救いは、神の家の頭であるイエス・キリストによってだけ与えられるのです。
このペトロの答弁に対し、ユダヤ最高会議の面々は「ひと言も言い返せなかった」とあります。彼らが驚いたのは、13-14節にありますように「ペトロとヨハネの大胆な態度」です。彼らは「無学な普通の人」でした。彼らがそのように立派に語ることができたのは、8節にあるように「聖霊に満たされて」いたからです。しかし彼らには二人の霊的な力については何もわかりません。わかっていたのは、二人がイエスと一緒にいた者だということでした。イエスと共にいたことが二人に不思議な力を与えたのだとしか考えられなかったのです。彼らは自分たちがした行為を悔い改めることも、イエスを信じようともしませんでした。
「(15-17節)そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、言った。『あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう。』」
彼らが恐れたことは、エルサレム中に知れ渡っている今回の癒しの奇跡のことだけではありません。むしろその奇跡が示している真理、つまり、十字架に架けられたけれども、復活されたイエスこそがメシア(救い主)であるという教えです。要するに「今後あの名によってだれにも話すな」ということは、イエスの救いを語るなということです。この禁止命令に対しても、ペトロとヨハネは大胆に答えました。「(19-20節)しかし、ペトロとヨハネは答えた。『神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。』」
当時ユダヤ最高会議(サンヘドリン)は神の声を代弁していると考えられていました。従ってサンヘドリンに服従することが、神の前に正しい態度でもありました。しかしこの二つが矛盾する場合には、どちらが究極的な権威を持っているか、最高会議の皆さん、判断してください、と言うわけです。そしてたとえその判断がどうであろうと、自分たちは見たことや聞いたことを話さないではいられないのだ、と語りました。こうして二人は議会の禁止命令にも関わらず、イエスの名によって伝道を続けていったのです。
この事件は、できたばかりの教会にとっても、ペトロとヨハネにとっても初めての体験でした。しかもユダヤの国の最高権力者から、イエスの福音を宣べ伝えることを禁じられたことは、きわめて困難な事態になったのです。私たちは今、この日本の国で自由にキリスト・イエスの福音を語り、このように自由に集まって主なる神を礼拝していますが、今後いつ礼拝や伝道が禁止され、教会の業が止められる時が来るかわかりません。私たちはペトロたちのように「(12節)ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」この確信に立って生きていくことが何より大切なことではないでしょうか。
実際、今社会にある宗教の中で、キリスト教は唯一の神だけを正しいとしていて、あまりに排他的であると誤解されていますが、人間がどの神を信じようが結局は同じ救いに達するのだと信じているのなら、伝道する意味はありません。ただ神の愛と赦しによって、人間に与えられた神の御子イエスだけが救いの道へと導かれるのです。一人でも多くの人にこの御名を宣べ伝えることは神の前での「良い業」です。
実際、真の救い主イエスを信じるなら、感謝と喜びに生きていくことができます。語られる福音が人々にほんとうの命を与え、生き生きと生きていく力を与えることが真の救いだと思います。大事なことは、神の御言葉は語られなくてはならないということです。「(4節)しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。」ペトロやヨハネが逮捕されてしまったのに、この日、信仰を持った人は男の人で5千人もいたのです。それはペトロやヨハネというすばらしい人間を見たからでもありませんし、奇跡を見たからでもありません。御言葉を聞いたからです。ただキリストの福音の言葉が驚くべき力を発揮したということです。
明日から始まる新しい年がどのような年になるかわかりませんが、私たちはイエスの御名を喜び、イエスの救いを感謝し、神の御言葉を糧として生きてまいりたいと願っております。そしてそれは神の前に喜ばれることです。
(牧師 常廣澄子)