2024年1月21日(主日)
主日礼拝
ヨハネの黙示録 13章1~10節
牧師 常廣澄子
ヨハネの黙示録には、いったいどういうことをいっているのか想像できないような場面や、奇妙な怪物が出てきたりしますので、ただ漠然と読んでいても良くわかりません。けれども少しずつ考えながら読み進めていきますと、この書物は今私たちが生きている世界がたどってきた歴史や流れを生々しく映し出しているように思われます。そして今日の人間世界の有様を見抜き、その問題点を指摘しているようにも思われるのです。繰り返しくりかえし「耳ある者は聞くが良い。」とか「耳ある者は聞け。」と言われていますように、この文書を読む者は、しっかり耳を開いて聞きとる者とそうでなく聞き流す者、しっかり聞いて理解する者とそうでない者がはっきりしてくるのではないでしょうか。
前回は、天での戦いと地上の戦いを見て来ました。天での戦いに敗れた巨大な赤い竜が、地上に投げ落とされた事が書かれていました。天から地上に投げ落とされた竜は、すごすごと退散したかと思いきやそうではありませんでした。竜は執念深く男の子を産んだ女(教会を表す)を追いかけています。唯一の望みはその男の子にありました。彼はほふられた小羊の姿をしていて、天上の主権を持っているのです。
この幻は、天上にいられなくなったサタンが、地上に投げ落とされてもなお迫害者や誘惑者の姿をとって活動していることを物語っています。彼の目的は人間を神から引き離すことです。人間が神に造られた時の本来の魂を持って生きているならば、すべての生き物のために神の言葉を聞いて、混じりけない清い目と聖い心で生きていなければなりません。神が創られたあらゆる被造物の中で、人間にはそのような責任があるからです。
しかし、もしその人間が神の言葉を聞かなくなったら、どうなるのでしょうか。人間のエゴイズム(利己主義)だけが横行して、どんなにすばらしい文明が栄えても、どんなに科学技術が発展しようとも、そこはいよいよ神から遠ざかった世界になってしまいます。人間はすべてを手中に収めていると思うようになり、今や人間は何事も自分たちの力で実現できると思っています。人間は自分や自国の利益のために悪賢い策略によって人を騙したり脅したり、時には甘い言葉で誘惑したり、あるいはもっともらしい言葉で、つまり時には正義の名、平和の名を使って悪い力を働かせるようになってしまいました。いつの間にか神を軽んじ、神を信じる信仰や神への祈りを価値のない無益なものとしてしまったのです。そしてとうとう神から離れて生きているのが当たり前で、神を信じるのは無力な人間のすることであって、何か特別なことででもあるかのように思わせてしまったのです。多くの人間は今や神の存在を否定し、神のない世界に生きています。私たち人間は現在、そのような時代に置かれているのです。つまり今の人間世界はまんまと悪魔の策略に捕らえられているということです。
お読みいただいた13章のすぐ前、12章18節に「そして、竜は海辺の砂の上に立った。」とあります。この竜は、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わすものです。竜は、天での戦いに敗れて地上に投げ落とされたことを激しく怒り、神を信じイエスの救いに与っている者たちを苦しめるために戦おうとして、今海辺の砂の上に立っているのです。そして、この竜の前に、海から一匹の獣が上がって来るのをヨハネは見ました。
「(1-2節)わたしはまた、一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒涜するさまざまの名が記されていた。わたしが見たこの獣は、豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。」ヨハネは神とイエスを信じたがゆえに、いまパトモス島に流されています。彼は日々海辺に立って、この海のかなたにいるであろう主にある諸教会の信徒たちを思っていたことでしょう。彼らが味わっている苦しみや迫害を思っていたかもしれません。そんな時に、ここに書かれているような、海の中から一匹の獣がせり上がってくる幻を見たのです。
海が大好きという人はたくさんおられるでしょう。マリンスポーツと言われ、ヨットや水上スキー、サーフィンやスキューバダイビング等、海での楽しいスポーツはたくさんあります。しかし、地震による津波の現象(海の水が住んでいる町全体に襲い掛かって来る有様)を見たら、海は非常に怖いものです。2011年の東日本大震災の時も、今回の能登半島地震の時も、まるで生き物のように海が人間を襲ってきました。
津波ではありませんが、ここには海から一匹の獣がせり上がって来た様子が描かれています。これは非常に怖い情景です。その獣には十本の角と七つの頭があり、それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒涜するさまざまの名が記されていました。何という異様な怪物でしょう。これは12章3節に書かれている竜とよく似ていて「豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった」というのです。これはダニエル書7章に出てくる四頭の獣を思い起こさせます。きっとヨハネの言葉を聞いた人たちはダニエルの言葉を思い出したことでしょう。ダニエル書では、第一の獣は獅子のよう、第二の獣は熊のよう、第三の獣は豹のようであって、第四の獣は非常に強くて巨大な歯を持ち、十本の角が生えていたのです。これらもまた海から現れました。聖書の中で海というのは、しばしば諸々の民、全世界の民という意味で使われることがあります。
2節に「竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた」とあります。実は11節以下にもう一匹別の獣が登場してきます。つまり、天上から落とされた竜は、今度は二匹の獣に姿を変え、全権を委任されて暴れるのです。サタンはいろいろなものに変化し、姿や形を変えて私たち人間に挑んできますが、今朝お読みしたところは、一匹目の獣が現れて動きだしたところです。この獣はきわめて暴力的で激しくて、言葉を変えれば強い軍事力を持っているということかもしれません。
「(3節)この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。そこで、全地は驚いてこの獣に服従した。」これはどういうことなのでしょうか。先ほども言いましたように、この幻はダニエル書に書かれたものとよく似ていますので、そこを参考にすると、ダニエル書では、幻を見たダニエルがこれを理解できずにいて悩み、そこに立っている人に尋ねると、「これら四頭の大きな獣は地上に起ころうとする四人の王である。」(ダニエル書7章16-17節参照)と説明し、解釈してくれました。
そこで、七つの頭について当時の世界情勢をもとに考えてみると、当時活躍したいろいろな国の王を想定することができます。例えば古代バビロニアのネブカデネザル王、アッシリアのチグラトピレセル王、メデア、ペルシアのダレイオス王、マケドニアのアレクサンダー大王、あるいはローマのカイザルや悪名高い皇帝ネロなどがあげられます。
皇帝ネロはキリスト者を迫害し暴虐の限りを尽くし恐れられていました。この黙示録が書かれたのは、ドミティアヌス帝の時代ですが、彼もまたキリスト者を迫害しました。ですから、彼をネロの生まれ変わりだ、ネロの再来だという伝説まであったようです。一度は衰えたローマ帝政でしたが、ドミティアヌス帝の時に再び隆盛となり、彼は自分を神として拝むように命じました。彼はネロ以上にキリスト者を迫害したので、全地はこの獣に服従したともいえるのです。
「(4節)竜が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は竜を拝んだ。人々はまた、この獣をも拝んでこう言った。『だれが、この獣と肩を並べることができようか。だれが、この獣と戦うことができようか。』」竜はこの獣を使って人間社会を惑わしています。この獣を拝むようにさせ、人々を神ならぬものを拝むように仕向けています。この圧倒的な力や権威に対抗できるものは誰もいませんでした。さらにはその獅子に似た口が神を冒涜し始めます。「(5-6節)この獣にはまた、大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。そこで、獣は口を開いて神を冒涜し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒涜した。」ただそのようにできる期間は、四十二か月の間だと限られていました。これは7年半ですが、文字通りの年月ではなく、神が限定した時のことを言っています。
知識が増え技術が発展していくと、人間は何でもできるという自信を持ち、それと同時に傲慢にもなります。まるで自分が神になったかのように、神を信じる者を罵倒したり、神は何の役にも立たない、神など不要であると考え、終には自分が神になって支配すればよいなどと考えるようになります。人間の心に生まれかねない尊大な心です。そしてその心が、ある時、宗教の名を持って登場するのです。今までにも今でも、実に様々な人が自分を神だといって、その教えの教祖として登場してきました。なぜこのような愚かな人々の発言や思想や姿にひかれていくのか不思議ですが、人間を引き付けるその力にはいつも富をむさぼる人間のどん欲な心が結びついているのです。
「(7節)獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた。」ここにある「獣は聖なる者たちと戦い」とあるのは、獣が教会やキリストを信じる者と戦うことです。そして勝つことが許されたというのです。どうして獣が勝つのか、大変大きな疑問であり、大きな謎ですが、これは神が赦された事なのだとヨハネは語っています。
その時、ささやく声がします。「耳ある者は、聞け」サタンが勝ち誇って大声で神を冒涜している中で、私たちは神の言葉を聞くのです。「(8節)地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。」これは神からの祝福の言葉です。「屠られた小羊」とは私たち人間のために命を捧げてくださったイエスのことです。その贖いによって私たちは命の書にその名が記されています。そしてそれは天地創造の時からだといいます。私たちがまだ生まれてもいない天地創造の時から小羊の命の書にその名が書かれているといっています。イエス様も同じことを語られました。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカによる福音書10章20節)この個所は否定形になっていて、小羊の命の書にその名が書かれていない者は獣を拝む、つまり真の神を信じないで偶像のとりこになっていくであろうとあります。地上でどんなに賞賛され褒められ高められても、神への信仰が無ければ何の価値もないのです。ただ神を信じ天に名を記された者は、一人も滅ぼされることがありません。
「(10節)捕らわれるべき者は、捕らわれて行く。剣で殺されるべき者は、剣で殺される。ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。」ここには殉教が語られています。私たちがイエスに従って行く時には自分の十字架を負います。こんな辛い損な生活は嫌だと思っても、神が定めておられるならば、私たちは忍耐強くこの道を生きていくのです。苦しいけれども私に与えられた道として受け入れるのです。しかしこれは実は私たちの忍耐ではなく、神が私たちに伴って忍耐していてくださることなのです。まず耐えるべきものは自分の弱さです。神の支えや守りを信じられなくなる自分の信仰の弱さに耐えるのです。そういう私たちの存在を知っておられる神が、愛の忍耐で受け入れ、赦し、御子の救いの中で導いてくださいます。
私たちが神を信じて生きるなら、天地創造の時に造られた人間の本来の姿をとりもどし、新しく豊かに生きることができるのです。それも死に至るまで忠実に。これが私たちに与えられている恵みであり祝福です。私たちが生きる源にあるのは、御子イエスの十字架と死と復活です。死に勝利し、罪に打ち勝ったお方の前では、サタンは太刀打ちできないからです。今なお残存勢力があるとしても、私たちは敢然として悪しき力と戦わねばなりません。ですから教会はこの世にあって、はっきりとキリストの福音を掲げなければならないのです。「ここに聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。」私たちには様々な戦いがありますが、信仰者の忍耐はただの辛抱や我慢ではありません。忍の字を見てみると、刃の下に心があります。刃の下に立ってもたじろがない心です。なぜならそこにはキリストの勝利と祝福という希望があるからです。
昔も今も、暴力や武力、軍事力で人を殺そうとする人がたくさんいます。しかし「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイによる福音書10章28節)この御言葉は長崎市の西坂にある26聖人殉教記念碑に刻まれているものですが、時代が代わっても信仰を持って生きる者の大きな慰めです。
昨年から改修工事がなされており、私たちの教会は会堂の屋根も外壁もきれいにされて、新しい年度に向かって歩み出そうとしています。この世には悪しき力があふれていますが、皆さんと力を合わせて勝利の主を信じて生きていきたいと願っております。
(牧師 常廣澄子)