2024年2月11日(主日)
主日礼拝『 誕生日祝福 』
ルカによる福音書 12章13~34節
牧師 永田邦夫
本日もルカによる福音書からのメッセージをご一緒に聞いて参りましょう。早速ですが冒頭13節は、「群衆の一人が言った。」との書き出しで、前の段落との繋がりを示していますので、そのことを先に見ておきましょう。
先ず大きくは、主イエスご自身が天に上げられる時期が近づいていることを自覚され、エルサレムに向かう決意を固めてから(9章51節)、エルサレム入城(19章28節)まで、教えの数々が続いており、今日の箇所もその一つです。
そして本日箇所の始めの13節は、11章の最後の段落で、主イエスからファリサイ派の人々や律法学者に対する厳しい教え諭(さとし)の言葉があったことに続き、数えきれないほどの群衆が集まって来て、その中の一人が、主イエスに願い事をするところから始まっています。その願い事とは、兄弟間で起こっている遺産分けのトラブルを、イエスさまに何とか解決してほしい、という依頼でした。
これに対する主イエスの答えは、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」(14節)でした。すなわち、兄弟間の遺産分けや金銭トラブルのことは、社会でそれ相当の役割を持つ人に依頼すればいいじゃないか、という意味です。続いて15節、「そして、一同に言われた『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。』」でした。
ここで言う貪欲について、広辞苑には「自己の欲するものに執着して飽くことを知らないこと」とあります。また一般的に言いますと、人間が持っている根本的な物質欲、金銭欲のことです。人がこれらに執着するあまり、善悪の見境がつかなくなってしまい、挙句の果て、大きな事件にまで進展するのです。残念ながらこのような出来事は、社会に沢山その例を見ています。またこのような中でこそ、教会が果たさなければならない役割があることにわたしたちは痛感させられています。
次の16節から、主イエスさまが譬えを用いながら、そこに集まって来た一同に向かっての諭の言葉があります。「ある金持ちの畑が豊作だった。」と始まっています。次の17節から19節までには、その金持ちの言葉が記されています。「『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らした末に、こうしよう、倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。」
また、聖書には農業のことがよく出てきますが、そもそも農家にとって豊作とは、神からの大きな恵みの出来事です。先ずその豊作を神からの恵みとして、神に感謝をささげることが大切なことです。聖書の本日箇所に出てくる金持ちは、神に感謝をささげるどころか、それを自分だけでどうやって蓄えておくか、どうやって長く楽しむか、このことに腐心しているのです。
この箇所について、原文に近い表記をしている岩波版聖書の12章17節に「そこで彼は、自分の中で思いめぐらして言った、『俺はどうしようか。俺には、自分の収穫物を入れておくところがない』。18節19節には、「そして言った、『こうしよう。俺は自分の倉(原文でこの「倉」は複数表記している)を壊し、より大きな倉を建てよう。そしてそこに俺の穀物と財とを集めよう。そして俺の魂に言おう、「魂よ、これでお前は何年分もの、多大な財を持っているわけだ。休め、食え、飲め、喜べ」と』。と記されています。ここには、“俺が”、“俺が”という言葉が頻発しており、いわば、強い“自己表現”、“自己所有欲”がそのまま表されています。
そして、16節から続いていた譬え話の締めくくりが、20節21節で「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われ、さらに、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」とあります。これらの言葉は、前の15節で、主イエスが「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない。」と諭されていた、その教えの結論です。
この箇所に関連して、創世記1章26節に記されている、天地創造のときの神の言葉「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」の言葉を思い出します。人の命は、“神のかたち、神の似姿”でもあり、何物にも代えることのできない、尊い存在なのです。このことをわたしたちは肝に銘じながら生きていきたいと願っています。
ルカによる福音書から、もう一つの出来事に注目しましょう。18章18節で、ある議員が主イエスに「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができますか」と尋ねたその問に関する、主イエスから議員に対する返答が「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という掟(出エジプト記20章12節から16節)をあなたは知っているはずだ。」でした。すると、その議員は「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と返答したのです。するとさらに主イエスは、「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と命じたのです。
しかし、これを聞いた議員は非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである、と結んでいます。この議員は、自分の財産や富に対して執着するあまり、主イエスの招きに従っていくことができなかったのです。この出来事もまた、先ほどの段落に続いて、「金持ちにとって、天に宝を積むことがいかに困難であるか」を示しています。
22節からの段落に入ります。冒頭22節23節には、「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。』」とあります。ここで主イエスは弟子たちに、“思い悩み”に陥りやすい原因として、食べ物、衣服のことを挙げていますが、当時、弟子たちの置かれていた環境は決して豊かではなかったことの現われです。
次は、わたしの証です。戦争中、またその直後の頃には家が貧しく、父が戦争に出征したこともあって、母一人で我々兄弟5人を養ってくれました。当時、食べ物など決して豊かではなかったが、しかし、それに不平不満を言わず、満足しながら日々すごしていたことを思い出します。
聖書に戻ります。主イエスが人々に対して「弟子の覚悟」として言われた言葉「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」の言葉(ルカによる福音書9章58節から)を思い出します。次は24節、「烏(からす)のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥(とり)よりもどれほど価値があることか。」とあります。誠にその通りです。
25節に「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」とあります。因みに、ここで言う「寿命」の言葉(ギリシア語ではエリキアという)には、「背丈」という意味もあり、この25節を「自分の背丈を一尺ほどでも伸ばせるだろうか」と翻訳している聖書(岩波版聖書)もあります。
次の26節以降では、数々の例を挙げながら、“思い悩み”について、主イエスからの戒めと諭の言葉が続いています、その全てについて説明することは避け、その概略だけ触れていきます。
27節、野原の花について、それらは“働きもせず紡ぎもしない”と擬人化し、ユーモアを持って語っています。次は、あの歴史的に有名な栄華を極めたソロモンのことについて、“この花の一つほどにも着飾ってはいなかった”とあります。因みに、ソロモンは何時も決まった紫色の服に身を包んでいた、と言われています。28節、野の草も然りです。今日は野に生えていても、明日は炉に投げ込まれるかもしれない、その通り、野の草花は儚(はかな)いものかもしれません。しかしながら、これらも精一杯生きているのです。
以上を整理しながらまとめますと、当時の弟子たちは、日常的には非常に貧しい生活だったことでしょう。しかし、その貧しい中でも、強い信仰を持って主イエスに従っていった、そのことが示されていました。
29節30節には、今までのことを繰り返しながら、念押しするように「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。」とあります。以下に抜粋した一つひとつのみ言葉は、わたしたちを感動させます。
「ただ、神の国を求めなさい。」(31節)
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(32節)
「尽きることのない富を天に積みなさい。」(33節)
「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」(34節)
このように、神はすべての人に呼びかけていてくださいます。この呼びかけに、わたしたちは日々お応えしながら、共に力強く生きてまいりましょう。
(牧師 永田邦夫)