狭い戸口から

2024年6月9日(主日)
主日礼拝『 誕生日祝福 』

ルカによる福音書 13章22~30節
牧師 永田邦夫

 本日もルカによる福音書からのメッセージをご一緒にお聞きして参りましょう。
主イエスは、天に上げられる時期が近づいたとき、エルサレム行きを決意されてから(ルカによる福音書9章51節)、その目的地であるエルサレムに上って行かれる(19章28節)まで、その道中では、弟子たちに対しては勿論のこと、イエスの元に集まって来た多くの人々に対しても、数々の教えを告げ知らせながらの旅でした。

 さらにその目的地エルサレムでは、ご自身の十字架の出来事が待っているという、非常に厳しい旅でした。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(ルカによる福音書9章22節)とありますように、その途上では、ご自身の死と復活予告を三回にわたってなさる旅だったのです。

 本日箇所の冒頭22節には「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。」と記され、次の23節へ進みますと「すると、『主よ、救われる者は少ないのでしょうか』という人がいた。イエスは一同に言われた。」とあり、足早に本日箇所の中心的な課題に入っておりまして、次の24節に「『狭い戸口から入るようにと努めなさい。言っておくが入ろうとしても入れない人が多いのだ。』」とあります。

 24節は、「救われる者は少ないのでしょうか。」との前節の問いに直接答えるのではなく、「狭い戸口から入りなさい」と救いへの入り方について教えています。
この二節は本日箇所の言わば中心的な箇所ですので、じっくりとその意味を汲み取って参りましょう。

 23節の問いかけ「救われる者は少ないのでしょうか」は、弟子たちの中の一人の問いなのか、それとも周りにいた一同の中の一人からなのかは分かりません。
それにしても、この問いかけの言葉は、主イエスにとりましては、心に突き刺さるような厳しい言葉であったことが想像できます。

 しかし、この質問をお聞きになった主イエスは、真摯(しんし)に、救いへの入り方について伝えておられるのです。

 主の福音を宣べ伝えている今日のすべての教会にとりましても、主を信じる人が一人でも多く起こされ、そして信じて救われ、教会員として加えられていく人となりますように、この願いは全ての人の願いでもあります。わたしたちはこの願いのもとに、日々試行錯誤し、かつ悪戦苦闘しながら、福音伝道に励んでおります。それがまた、教会のすべての人々にとっての喜びでもあり、さらには福音伝道の力ともなっています。

 さらにまた、救われる人の数も勿論大事ですけれど、それぞれの教会はまた、置かれた環境の中で、その環境に適した伝道方策を講じながら、日々祈りを持って歩んでいます。伝道方策とは、福音をお伝えする側の教会のことだけではなく、その教えを聞く人が、その福音のみ言葉を聞き、理解し、そしてその教えを信じて受け入れていくためには、どのような方法が一番いいのか、そのことにも心血を注いでいるのです。
 どうかわたしたちが、最善の方法を主なる神から示していただき、それに従って伝道の歩みが出来ます様にと、願っています。

 その信仰への入り方について、時代を遡って考えてみますと、かつて開かれた特別集会などには多くの人が集まり、講師の先生の説教を聞いた後で、「信じて受け入れる人は手を挙げてください」あるいは「前に出てください」などの呼びかけに応えて、立ち上がる人が沢山おられたことを思い出します。

 先ず救いを信じる決心をして、信仰生活をする中で、日々聖書に親しみつつ勉強をして、より理解を深めていこう、そのような考えの元に、信仰に入っていった人が多かったように思います。わたしもその一人です。

 では、24節から詳しく見ていきましょう。この節の言葉は「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」と一同に向かって言われています。
これをもしわたしたちが、一般的なイベントなどに置き換えて考えますと、もしもそのとき入場者が少なかったなら、どうぞどんどんお入りください、となることでしょう。

 しかしここは、わたしたちの信仰の問題です。もしも、信仰への入り口で、心にいろいろと迷いを抱えている状態の人がおられたら、どうぞそのままの状態でいいですから、先ず信仰への決断をなさり、そして、信仰への扉を開け、どうぞそのままで中にお入りください、となります。いろいろな迷いや悩みは信仰が解決してくれます。

 24節の「狭い戸口から入るように努めなさい、言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」の下線部分の言葉「努めなさい」は、英語では、agonize(アゴナイズ)“苦悩する”“苦闘する”という意味の言葉です。さらのこの、アゴナイズの語源は、競技で賞を得るために、また走者が注意をそらさないように、注意力を失わないように努力する、からきているそうです。

 さらにこの24節の言葉は、どうして救われるためには、狭い戸口から入らなければならないのか、そして、入ろうとしても入れない人が多いのか、です。
 それは23節の言葉に関連しまして、“救われる人が少ない”中で、わたしたちが、救われるために、何をどのようにしたらよいのか、ということです。それは、先ずわたしたち自身がイエス・キリストを信じる者となること、そして、主イエス・キリストと共に歩むことです。そのためには、その入口がたとえ狭かろうとも、先ずその入り口から入って、主イエス・キリストの元へと行くことが大事なのです。
 繰り返しになりますが、24節の言葉を、①なぜ狭い戸口から入っていかなければならないのか。そして②なぜ入ろうとしても入れない人が多いのか、このことを分けて考えてみましょう。
 先ず①です。救いへの門は“入口が非常に狭い”ということです。それは、すでに前の箇所でお伝えしてきたことですが、教会では御国の福音を、主日ごとの礼拝で、また特別集会(礼拝)でお伝えしてきていますが、先ずそれを信じて受け入れていくことが大事です。しかし、そのような人は多くはいません。このことを24節では「狭い戸口から入るように努めなさい。」と言っているのです。

 以上は、象徴的な言葉や譬えの言葉でもありますが、わたしたちが先ず、狭い戸口、狭い門から入るためには、物理的に“着ぶくれ”をしていてはだめです。まず身を軽く、小さくすることが必要です。着ぶくれとは、いろいろなものを身に纏(まと)っていることを表します。それは自分の趣味であったり、習い事、娯楽等々いろいろあるでしょう。しかし、できるだけ身軽にすることが大事です。

 次の②の「入ろうとしても入れない人が多い」ということについてです。御国に入るためには、心の問題が大事です。心の中でいろいろなことを大切にするあまり、身軽になり切れない、捨てきれない、そのような状態では御国に入ることができません。また、信仰の妨げにもなってしまいます。

 次は、御国へ通じる門についてです。その門は神が握っておられるのです。そして主なる神は、わたしたち一人ひとりを、そのチャンスが来た時に、御国へと招き入れてくださるのです。神がわたしたちを招いていてくださるのに、主の招きにお応えすることが出来ずに、わたしたちの側から、そのチャンスを失ってしまうこと、それは非常に残念なことです。

 このことを、24節後半、すなわち②で「入ろうとしても入れない人が多いのだ。」とわたしたちに伝えています。わたしたちは、御国へと招かれている、このチャンスを失わないように、主なる神への信仰をしっかり持ちながら、生きていくことが大切です。

では25節以降に入ります。その初め25節で、家の主人が立ち上がって言いました。戸を閉めてしまってからでは遅い、もう中には入れない、と。これが25節の言葉の大意です。

 主イエスの教えの言葉は、父なる神からの教えでもあります。
25節の冒頭で「家の主人が立ち上がって、云々」とは、父なる神のことです。神が立ち上がって、いまそこにいる人々に、またわたしたちに、大事なことを教えているのです。それを25節以降で、もしもそのチャンス失ってしまったらどうなるのか、そのことを教えています。

 そして、この25節の言葉は、譬え話や比喩の言葉などではありません。ズバリ核心を突いた教えの言葉です。そしてその説明が26節以降に続いています。
本日箇所での、主の招きの言葉とは、25節までにありましたように、「わたしたちが救われるためには、そのままでよいので主の元に来なさい。」と招いていてくださるのです。この招きは、聖書が教えている、わたしたちへの招きです。

 わたしたちの日頃の生活では“狭い戸口から入る”ことに関連することが沢山あります。主日ごとの礼拝での説教や、日頃聖書を開いて読むときの聖書の言葉への応答のことです。でもその中で、直ちに、そのみ言葉のように歩みます、生きていきます、ということになかなか繋がっていきません。

 そのような中で、わたしは神を信じ、神に従って生きていきます、という決断をしていくこと、これが“狭い戸口から入る”ことになるのです。

 以上をまとめますと、主イエスが町々、村々を教えながら、エルサレムに向かっておられたとき、ある人が「救われる人は少ないのでしょうか」と主イエスに問う人がいた、とのことです。
これに対して主イエスは、「狭い戸口から入るように努力しなさい。」そうでないと、「信仰に入りたくても入れない人が沢山いるのですよ」と、そこにいた一同に告げ知らせたのです。要するに信仰に入るには、そのチャンスを決して逃さないように、と主イエスはおっしゃったのです。

 どうか本日の教えのように、わたしたちが、主なる神の招き、イエスさまの招きにお応えし、主の福音を確りと信じ、そしてそれを周りの人に告げ知らせていくことができますようにと、主なる神に願って止みません。

(牧師 永田邦夫)

聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』©️1987, 1988共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による。