神の激しい怒り

2024年7月7日(主日)
主日礼拝『 主の晩餐 』

ヨハネの黙示録 16章1~21節
牧師 常廣澄子

 ご一緒にヨハネの黙示録を読み進めていますが、黙示録に書かれている御言葉を語っていくのは大変難しいことです。この御言葉が私たちに伝えようとしていることはいったいどういうことなのか、実際のところ、それはなかなか理解しがたくてわからないことがたくさんあるからです。しかしながら、ヨハネが見た幻は、信仰を持って生きる者への励ましであり、イエスが勝利者として今天におられ、私たちを導いておられることを心から感謝したいと思います。

 私たちは今、21世紀の日本に生きており、宇宙船地球号に乗っているわけですが、私たちの世界はどこに向かって進んでいるのでしょうか。本日は都知事の選挙が行われています。東京を良くしていくために、各候補者がいろいろな公約を語っていますが、誰一人この先、東京が、日本が、この世界がどういう状況になっていくのか、明確に語ることができる人はいないのではないでしょうか。
世界に目を向ければ、二年前に無謀に起きたロシアとウクライナの戦争は今なお止むことなく続けられていますし、続いて起きたイスラエルとハマスの争いも世界中の人たちの痛みになっています。それを止めようと多くの国々が話し合っていますが、なかなか思うように解決への道に進むことができずに、日々尊い命が失われ続けています。その他にも世界各地にはたくさんの争いや戦争が起きています。そういう世界の現状にあって、この時点で分かってきたことは、この世界が決して明るい光の方に向かっているのではなく、逆に暗い方向に向かっているのではないか、ということです。

 エフェソの信徒への手紙5章16節には「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。」と書かれています。ペトロの手紙一5章8-9節には「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」と書かれています。これは今と同じように、およそ二千年前、キリスト教の初期の頃にも、悪魔ともサタンとも言われる力が、人間の心を惑わし、悪に向かわせるように働いていたことがわかります。

 聖書の中によく出てくる、この悪魔とかサタンとかいうものの恐ろしい悪しき力を、現代に生きている人たちはどのように理解しているでしょうか。もしそういう質問をしたら、そのような事を考えること自体、愚かな事だと言われるかもしれません。実際そう思っている人たちが今の世の中にはたくさんおられるのではないでしょうか。しかし、目に見える物や目に見える事柄だけを問題にしているのでは、人間はまんまとサタンの思うつぼにはまっているということなのです。私たちの霊的な視力が衰え、感度が鈍ってくれば、人間は神の世界から遠ざかってしまい、聖書を読んでも何が書かれているのかわからなくなります。しかし、今の時代こそ、私たちは悟らなければならないのではないでしょうか。神の被造物である人間の知恵だけでは、神が創られたこの世界について知ることはできないということです。

 聖書はこのように語っています。ローマの信徒への手紙1章28節です。「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」2章5節には「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」
人間同士が殺し合ったり、富や権力が集中して貧富の差が拡大し、強い者と弱い者が分断されていく今の社会状況や世界の有様を考えてみますと、確かに今の人間世界は、神の怒りを蓄えているかのようないびつな悪い状況にあるのではないでしょうか。神が寛容で忍耐強い心でおられるのを良い事にして、私たち人間は神の赦しの心を甘く見て軽んじていてはならないのです。

 神は私たちのそういう罪をなかったことにするなどということはあり得ません。ローマの信徒への手紙6章23節には、はっきりと「罪の支払う報酬は死です。」と言われています。この場合の「死」は、私たち人間が地上の生を終えた後に来る死を遥かに超えた意味を持っています。これは神の前で裁かれ、滅びていく永遠の死です。もし人間がこの死に至るならば、そこから回復される余地はありません。そのように大変厳しい内容を持つものですが、今の時代はこの厳しさまでもがないがしろにされ、丸め込まれているのです。しかしこの黙示録では、最後の時に現わされる神の怒りの極みが幻によって示されています。私たちは、神に背いて生きる者に対する神の怒りがどれほどのものであるか、知らなければなりません。神は義なるお方ですから、正しいがゆえに裁かざるを得ないお方であることをはっきり知らなければならないのです。

「罪の支払う報酬は死です」この御言葉が持つ峻厳な意味を思わなければ、いつまでたっても私たちはイエス・キリストの十字架が解らないと思います。どうしてイエスがあのような苦しい十字架で死んでくださったのかは理解できないと思います。実際、イエスは私たちの罪を背負って私たちの代わりに神の裁きを受けて死んでくださったのです。神から要求された罪の罰を、私たちに代わってきっちりと清算してくださったのです。ここに私たち人間の唯一の救いがあります。神は罪に対する裁きには妥協しておられません。その過酷なまでの厳しさを御存じでありながら、私たち人間を愛するがゆえに、御子イエスを私たちに与えられたのです。この罪のない神の御子イエスによって私たち人間に救いの道が開かれたのです。私たちはもっともっと、罪を憎む神の裁きと、それを赦すために御子イエスが架かってくださった十字架のたとえようもない恵みの大きさと豊かさを思わなければならないのではないでしょうか。本日はこの後で主の晩餐に与りますが、神の赦しと愛を心から感謝したいと思います。

 さて、今朝お読みした16章には、神の怒りによって起こされる幻が示されています。「(1節)また、わたしは大きな声が神殿から出て、七人の天使にこう言うのを聞いた。『行って、七つの鉢に盛られた神の怒りを地上に注ぎなさい。』」神殿から大きな声で神の命令が出されました。七人の天使によって七つの鉢に盛られた神の怒りが地上に注がれ、七つの災いが次々と起こっていきました。これは、今までに見てきた七つの封印を解いていった時の災い、七つのラッパを吹いていった時の災いに続く最後の災いです。神の怒りの極みともいえる災いです。
「(2節)そこで、第一の天使が出て行って、その鉢の中身を地上に注ぐと、獣の刻印を押されている人間たち、また、獣の像を礼拝する者たちに悪性のはれ物ができた。」獣の刻印を押されている人間たち、また獣の像を礼拝する者たちに、悪性のはれ物ができました。決して癒されることのない、激しい痛みを伴う悪性のはれ物ができたのです。
「(3節)第二の天使が、その鉢の中身を海に注ぐと、海は死人の血のようになって、その中の生き物はすべて死んでしまった。」海が死人の血のようになって、その中の生き物はすべて死んでしまい、海に生き物がいなくなるというのです。「(4節)第三の天使が、その鉢の中身を川と水の源に注ぐと、水は血になった。」最近は川や海の汚染が叫ばれ、生態系が崩れていることが指摘されていますが、海に流れ込む川やその水源さえもが死をもたらす汚染物で汚されているというのです。命の源である水が血に変えられては、もはや人間は命を支えることができません。最近はPFASという化学物質による水の汚染が問題になっています。大変な事態が近づいているのかもしれません。
 
「(8節)第四の天使が、その鉢の中身を太陽に注ぐと、太陽は人間を火で焼くことを許された。(9節)人間は、激しい熱で焼かれ、この災いを支配する権威を持つ神の名を冒涜した。そして、悔い改めて神の栄光をたたえることをしなかった。」人間は太陽の光が無ければ生きることができません。その人間を強め養う太陽が、人間を殺すもの人間を滅ぼすものに変わってしまうというのです。最近の夏の暑さは異常ですが、太陽の炎熱で地球は砂漠化し、緑地が失われていくことで酸素も失われていき、地球はいつしか死の天体になってしまうということを聞いたことがあります。しかしそのような状況にあっても人間は悔い改めることをしなかったというのです。

「(10節)第五の天使が、その鉢の中身を獣の王座に注ぐと、獣が支配する国は闇に覆われた。人々は苦しみもだえて自分の舌をかみ、(11節)苦痛とはれ物のゆえに天の神を冒涜し、その行いを悔い改めようとはしなかった。」第五の鉢を傾けた時には、闇が地球を覆いました。真っ暗な世界で人間はどうやって生きていけるでしょうか。
このように、次々と恐ろしい災いが起こされていくのですが、これらの災いはどこか出エジプト記に出てくる災いと似ています。神はモーセに告げて、エジプト王ファラオに様々な災いを下しますが、ファラオは心をかたくなにして、イスラエルの民をエジプトから去らせることをしませんでした。同じようなことがここでも起こっています。災いを受けた人間たちは悔い改めるどころか、神を冒涜したというのです。舌は神の栄光をたたえるためにあるのですが、苦しみのあまり自分の舌をかみ切ってしまうというのです。つまりその心を神に向けることなく、自らの命を絶ってしまうのです。ここには悔い改めることをしない人間の悲惨な状態が示されています。

「(12節)第六の天使が、その鉢の中身を大きな川、ユーフラテスに注ぐと、川の水がかれて、日の出る方角から来る王たちの道ができた。(13節)わたしはまた、竜の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。(14節)これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのところへ出て行った。それは、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。」
第六の天使が鉢の中身をユーフラテス川に注ぐと、川の水がかれてそこに道ができました。この道を通って、神に敵対する勢力が、神との戦いの日に備えて集結するというのです。神に敵対する勢力は、蛙のような汚れた三つの霊、すなわち竜と獣と偽預言者の口から出る霊によって集められてくるのです。竜は12章で、悪魔とかサタンと呼ばれるもの、全人類を惑わす者だと書かれています。獣は13章によれば、竜からその権威を与えられた世界の権力者です。そして偽預言者というのは、第二の獣として示されていて、獣であるこの世の権力者を拝むようにと、人々を惑わす者のことです。

 偽預言者はまるで神の言葉であるかのように巧妙に、神の言葉でない言葉を語るのですから、多くの人が惑わされてしまうのです。竜も獣も偽預言者も、神に敵対する者たちです。そして彼らの口から蛙のような汚れた三つの霊が出てくるというのです。出エジプト記の蛙の災いを思い出します。この汚れた霊が全世界の王たちのところへ出て行って、この世の支配者、権力者たちが集められるのです。世界の各地から、干上がったユーフラテス川を渡って権力を持った者たちが集結していきます。彼らが集まったところはヘブライ語でハルマゲドンと呼ばれるところです。ハルは山を意味する言葉で、マゲドンはメギドという地名ですから、メギドの山という意味です。竜、獣、偽預言者、それらにそそのかされた地上のあらゆる権力、神に敵対するすべての勢力が一か所に集結して、神との戦いに備えています。彼らは神に勝って自分たちがすべてを支配することを目論んでいるのです。

 最後に「(17節)第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大声が聞こえ、『事は成就した』と言った。」この「事は成就した」とは何のことでしょうか。神の大いなる日の戦いはこれから起こることですのに。聖書ではこの後、17章以下にサタンの敗北や最後の裁きが記されていて、21章になると新しい天と新しい地が示されます。つまりこの16章で「事は成就した」と言っているのは、これから起こることの結末の先取りなのです。今はまだ苦しみや戦いの中にある者たちが、もしこの戦いは勝利に終わるという結末を知っていたら、どんなにか安心してことにあたれるでしょうか。苦しくても耐え忍ぶことができます。実際18節からは、人間が地上に現われて以来、いまだかつてなかったほどの災害が起こってくるのです。

「事は成就した」この言葉で教えられるのは、イエスによってすでにこの戦いには決着がついているということです。黙示録が映し出している幻で語られているのは、神を軽んじ、神に背いて生きる者には、人間の本当の意味の幸せはないということです。唯一、神に立ち帰ってのみそれは与えられるし、その道を神ご自身が備えてくださるということなのです。七つの鉢が傾けられていく中で、その道を備えてくださったお方がイエス・キリストであることが鮮やかに知らされていきます。

 今世界は行きつくところまで来てしまったと見る人たちがいます。人類の文化も科学も既に飽和状態だと考えている人たちもいます。私たちはこの世界の有様と歴史とを神の言葉によって見極めなくてはなりません。その時に私たちは確かに神の愛と忍耐、そして大きな赦しへの招きを知ることができるのです。人間の心を蝕んでいる悪の力が横行し、いよいよ時代が暗さを増していく今こそ、インマヌエルの主に導かれ、私たちの霊の目が曇らされることがないように、主の御霊に満たされて生きていきたいと願っております。

(牧師 常廣澄子)

(聖書の引用は、『聖書 新共同訳』©️1987, 1988 共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による)