復活の福音

2024年7月28日(主日)
主日礼拝

コリントの信徒への手紙 一 15章1~19節
牧師 常廣澄子

 私たち主を信じる者は毎日聖書を読みます。聖書が私たちの人生を導く指針であるからです。
テモテへの手紙二3章16節には、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」と書いてあります。聖書が神の言葉であるということを語っているのですが、もう少し具体的に考えてみたいと思います。

 聖書が神の言葉であるというのは、聖書の中に人間に対する崇高な倫理道徳の教えが書かれているからではありません。反対に聖書には人間の様々な罪の有様が書かれています。また、聖書には神についての深遠な思索が語られているのでもありません。聖書が神の言葉であるというのは、天地の創造者であるお方、つまり万物の根源であられる神が、この罪深くて汚れに満ちた人間世界のただ中に、人間の思いを遥かに超えた形で現れてくださり、罪深い人間の中で働いてくださって、その人間を救うための道を開いてくださったということを語っていることにあるのです。

 聖書は、人間の歴史のただ中に現れてくださった神の行為や働きが書かれているという意味において神の言葉であり、その具体的な行為者がイエス・キリストです。ですから聖書の中心はイエス・キリストであると言うことができます。そしてこのイエスが地上で過ごされた人間生活において、一番中心的な位置を占めるのが、その死と復活なのです。イエス・キリストのご生涯の中で死と復活は切り離すことはできません。

 イエス・キリストがこの世に来られ、一人の人間として地上で過ごされた生活は、つつましやかな庶民の生活であって、そこに神の栄光が輝いていたとはとても思えません。むしろイエスのご生涯は、イザヤ書53章の預言にもありますように「主の僕」としての生涯でした。「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」(イザヤ書53章2-3節)のです。人々を愛し、病気を癒され、多くの不思議な業をなさいましたが、実際イエスは軽蔑され、人々に見捨てられた人だったのです。そういう謙虚なお姿でしたから、彼の弟子たちもまた、最後の最後まで信じつつも疑い、疑いつつ信じるというありさまだったのです。

 しかしながらこのイエスが十字架に架けて殺され、葬られた後、彼らは全く新しい体験をしたのです。すなわちイエスの復活です。死んだはずのイエスが生きたお姿で現れたのです。そしてこの復活されたイエスが天にお帰りになり、約束された御霊が降された時、弟子たちは全く別人のように力強く立ち上がったのです。

 パウロはこの15章で、キリストの復活について力強く語っています。パウロはキリストの復活こそが福音の中心であり、これが初代の教会が宣べ伝えていた公同の福音であるのだと語っています。
また、これはパウロ自身が受けた福音、つまりパウロ自身がそのことを信じて受け入れたことによって救われた福音であり、あなたがたコリント教会の人たちに伝えた福音であると語っています。そのメッセージから聞いていきたいと思います。

「(3節)最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、(4節)葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、(5節)ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」第一はキリストが、聖書に書いてあるとおり、私たちの罪のために死なれたこと、第二は、葬られたこと、第三は聖書に書いてあるとおり、三日目に復活したことだと語っています。

 このように、キリストの死と復活ということが、福音の中心原理となっていることがわかります。
しかもキリストの復活ということは、イエスの地上でのご生涯とその教え、またその死についての真実の意義を明らかにする事件であって、このことによってはじめて、イエスが神から遣わされた方、神の言葉の受肉者であったこと、また彼の死が、罪深い私たち人間を、聖なる神との和解に導く贖いの出来事であったということが知らされるのです。

 パウロはこの復活の福音について語る前に、いくつかのことをその根拠として示しています。まず第一の根拠は、すでに語ってきたようにパウロ自身が受けたことであるということです。これは1-2節にありますように、初代教会の公同の福音であることが示されていますが、同時に、パウロ自身が直接生けるキリストから受けたものであるということが語られています(ガラテヤ書1章11-12節参照)。次にキリストの復活という出来事は、「聖書に書いてあるとおり」と語っているように、聖書(当時は旧約聖書)の預言(詩編16編10節、イザヤ書53章、イザヤ書55章3節、ホセア書6章3節等)にあらかじめ示されている神の御心であることを示しています。

 パウロが一番の根拠としていることは、復活のキリストが自分にも現れてくださったという事実です。「(5節)ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。(6節)次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。(7節)次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、(8節)そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」復活されたキリストはペトロを始め弟子たちに次々と現れてくださいました。ここに書かれているヤコブというのは、イエスの兄弟のヤコブです。そして、復活のキリストは、主を信じる者たちを迫害していたような自分にも現れてくださったことを強調しています。9-11節を見ますと、ここには主の前にあるパウロの謙遜さと共に、神の恵みによって福音を語る使徒とされ、主のために命を懸けて働ける喜びと光栄が語られています。いずれにしても、パウロが伝えた福音は復活の福音以外の何物でもありませんでした。

 キリストが復活され、天に挙げられた後、約束された聖霊を受けた弟子たちは、一つのメッセージを携えて立ち上がりました。それは「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(使徒言行録2章36節)ということです。弟子たちが宣べ伝えたことの中心はイエスの十字架と復活の福音でした。

 このようにキリスト教は、まさしくイエスの復活によって起こされた神への信仰であり、それは復活の福音であるということができます。しかし、二千年前のギリシアのアテネで復活を説いたパウロがあざ笑われたように、復活について疑いを持ち、信じられないという人はたくさんいました。今でもたくさんいます。復活を否定するのは、主として唯物論を信じる人かもしれませんが、科学の発達した現代社会では、多くの人は死んだ人間が生き返ることには科学的根拠がないと言います。しかし、人間が理解できることだけを信じているのであれば、それは信仰ではありません。つまり人間が神の立場になっているのです。目で見えないものを信じることこそが信仰であることを思い知らされます。

 パウロの時代は、主としてギリシア的二元論の考えがありました。彼らは霊魂不滅ということは信じていても、キリストの復活は信じられなかったようです。そこでパウロは、復活ということを否定するのであれば、キリストも復活されなかったことになる、もし復活がなかったとするならば、重大な結果を招くのだということを12節から語っているのです。

「(12節)キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。(13節)死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。(14節)そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。(15節)更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。(16節)死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。(17節)そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。(18節)そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。(19節)この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」

 キリストの復活は、救いの福音の中で一番大事なことです。しかし、これを受け入れたはずのコリント教会の人々の中に、「死者の復活などない」と言う人が出て来たようです。それがどのような人たちであったのかはわかりませんが、理性だけで判断するなら、復活は確かにわかりにくいことであったかもしれません。人間にとり、復活を本当に起こった事として受け入れさせてくれるのは信仰だけです。

 イエスの弟子たちは、自分たちを「復活の証人」であると呼んでいます。「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」(使徒言行録2章32節)また「神はイエスをよみがえらせた」のだと証ししています。ですから、もしこのことが事実でないのだとしたら、彼らは嘘偽りを語る者、偽証人であり、神についてさえも偽証していることになってしまいます。過去二千年にわたる人間の歴史において、人が生きる最高の理想を示し、尽きることのない愛や赦しや美しい倫理道徳に根差して人々に尽くし、社会を豊かに形成して来た多くのキリスト教徒たちは、実は最も憎むべき嘘つきだったというのでしょうか。復活を否定するならば、このような結論になってしまいます。

 もしキリストの復活が事実でないとするならば、キリストの十字架が人間の罪の贖いのためであったという確証がどこにもないことになります。キリストの復活こそが、十字架上での罪の贖いが神に受け入れられ、救いが成就したことの保証なのです。私たちが信じるキリストは死んだお方ではなく、今も生きておられるお方です。罪の罰である死を打ち破られたからです。私たちが信じて救われる信仰は、この復活の福音を信じることに他なりません。

 もし、この福音の言葉が確かでないとするならば、復活の主を仰いで永遠の眠りについた代々にわたる聖徒たちや主の弟子たちは皆、永遠の命どころか、哀れにも滅びたことになってしまいます。既に死んでしまった人たちだけではありません。キリストにある救いや永遠の希望が空しいものであるならば、現に生きている私たちもまたこの世で最も憐れむべき惨めな存在と言わざるを得ません。

 復活を否定する人たちはこうして自ら救いの道を閉ざし、また人間が地上で営む貴重な生涯を無意味なものとしてしまうのです。しかしそうではなく、キリストの復活を信じて受け入れるならば、神が造られたその人の人生において、またこの世界のありかたにおいても、限りない希望が約束されるのです。すなわち人間の復活の希望であり、万物の復興の希望です。

 人間にとって最大の謎であり悲しみは死ですが、その死に向かわせる真に恐るべきものは、神を神として生きようとしない人間の罪です。しかもこのことはアダムに属する私たち人間すべてに共通の運命です。しかし御子イエスは、その復活によって死を滅ぼし、永遠の命の恵みを与えてくださいました。これはキリストが今も生きておられ、天と地の主、世界と歴史の支配者として働いておられることを信じる信仰によるのです。復活の福音を信じて、今も生きておられる主と共に生きていく者こそ、本当に幸いな者です。

(牧師 常廣澄子)

聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』©️1987, 1988共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による。