キリストの勝利

2024年9月1日(主日)
主日礼拝『 主の晩餐 』

ヨハネの黙示録 17章1~18節
牧師 常廣澄子

 皆さまとご一緒に難解なヨハネの黙示録を読み進めていますが、今朝お読みした個所も、すぐには何が書いてあるのか解らないような箇所です。けれども、今まで読んできたことから考えると、少なくともここには終末的な場面が書かれているということが想像できます。
1節を見ますと、七つの鉢を持っている七人の天使の一人が来て、ヨハネに語り掛け、「ここへ来なさい。」と連れ出します。「(1節)さて七人の天使の一人が来て、わたしに語りかけた。『ここへ来なさい。多くの水の上に座っている大淫婦に対する裁きを見せよう。(2節)地上の王たちは、この女とみだらなことをし、地上に住む人々は、この女のみだらな行いのぶどう酒に酔ってしまった。』(3節)そして、この天使は“霊”に満たされたわたしを荒れ野に連れて行った。わたしは、赤い獣にまたがっている一人の女を見た。」

 天使がヨハネを連れて行ったのは荒れ野でした。今までにヨハネが見せられたのは、天における開かれた門であり、天の宮であり、神の玉座がある法廷のような場所でした。そしてそこでは、地上での生活に対しての審きが行われ、宣告や裁判の判決を言い渡されるような場面でした。しかし今回は荒れ野です。ここは宣告された刑を執行する場所だといっても良いかもしれません。
 荒れ野に連れ出されたヨハネが見せられたのは、「(1節)多くの水の上に座っている大淫婦に対する裁き」でした。これが罪状書きです。「多くの水」というのは、15節にあるように「さまざまの民族、群衆、国民、言葉の違う民」のことで、地上のすべての人々を表しています。今私たちが生きているこの世界は、赤い獣にまたがった大淫婦が支配している世界です。人々から神を求める思いが消えていき、人間の力で何でもできると思っています。力を持った人間がこの世を動かしています。そのために人々は力を得ようとしのぎを削っています。そのような中にあって、教会は本当に小さな存在かもしれません。しかし、教会は小羊の勝利で満ちている世界なのです。

 さて、淫婦に対する裁きの内容が2節に書いてあります。それは、地上の王たちがこの女とみだらなことをしたり、地上に住む人々がこの女のみだらな行いのぶどう酒に酔っているからだというのです。地上の王たちというのは、政治的、経済的、社会的にこの世を支配している人たちです。
 ところでここに使われている「大淫婦」という言葉は大変嫌な言葉です。人を惑わす悪しきものを女性になぞらえること自体にも反発を感じますが、当時、女性は人間の数にも入れられなかったことからもわかるように、女性を蔑視している表われでもあるのでしょう。「淫婦」というのは「売春婦」という意味で、性を売り買いしているのです。しかし、これは決して性的な問題だけではありません。人間には性的欲望だけでなく、権力欲、所有欲、支配欲など、自分本位の欲望がたくさんあります。人間が一たびこれらの欲望に囚われると、それを獲得しようとあさましく行動します。そしてそれらはまるで彼らが拝む偶像のようになってきます。また自分の考えが絶対であるかのように固執し、次第に傲慢になって来るのです。聖書ではこのように神に背いて自分の欲望のままに動いている人間の姿を、みだらな行いというように表現しているのです。
 ここで「大淫婦」と言い表しているのはいったい誰のことなのでしょうか。ヨハネが置かれている状況を考えてみると、「大淫婦」とは当時のローマ帝国を指しているように思われますが、ヨハネは用心して直接的な表現を避けています。5節を見るとわかるように、遠い古代のバビロンと言っています。バビロンはバビロニアの首都であり、紀元前6世紀にユダヤ人が捕囚となっていた地です。その頃のバビロンは大変豊かに繁栄していて、人々を快楽で酔いしれさせていたのです。それをヨハネは今のローマに置き換えているのです。

 21世紀に生きている私たちにとっては、バビロンもローマも直接的には何の関係もありません。しかし今も、人間の心を神に向かわせず、逆に神から引き離して自分の方に引き付けて魅了し、その心を捕らえて放さないようにする圧倒的な力を持つもの、つまり私たちをその支配下に置いてしまう力があります。ヨハネはそういう力をバビロンと言っているのです。「(5節)その額には、秘められた意味の名が記されていたが、それは、『大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母』という名である。」
では今、私たち人間の心をひきつけるものとは何でしょうか。まず富やお金の力があります。有名になることや人に褒められることも大好きかもしれません。また、地位や権力があります。政治的な面でも経済的な面でも軍事的な面でも、今の時代の最先端をいくAI技術を含む科学的な面においても、私たち人間の心をつかんで離さない魅力的な力がこの世にはたくさん蠢いています。ですから「(9節)ここに、知恵のある考えが必要である。」と書かれているのです。これは、この世を生きていくには、単に頭が良くて知識があるだけではなく、本当に神を畏れる知恵、神の言葉をわきまえる知識が必要だと言っているのです。

 3~6節にはヨハネが荒れ野で見せられている光景が書かれていますが、大変おどろおどろした不思議な光景です。3節の「赤い獣」とは、今もこの世界を徘徊し牛耳っている悪魔の姿です。この獣は、全身至るところ神を冒涜する数々の名で覆われていて、七つの頭と十本の角がありました。その上にまたがっている女に代表されているのは、間違いなく人々を引き付け熱狂させる、贅沢な富や誉れを身にまとった権力者の姿です。「(4節)女は紫と赤の衣を着て、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものや、自分のみだらな行いの汚れで満ちた金の杯を手に持っていた。」紫や赤は高価な衣装で、王や位の高い人が着るものです。人々はこのような華やかできらびやかな姿に惹かれるのです。また、女は金と宝石と真珠で身を飾っています。21章に新しいエルサレムのことが書かれていますが、この都は金と宝石と真珠で飾られているとあります。それを考えると、女はあたかも自分が神であるかのようふるまっているのです。ですから人々は惑わされてしまうのです。また、この女が手に持っている金の杯には、忌まわしいものや、自分のみだらな行いの汚れが満ちています。

 今の私たちにとって心を満たすものは何でしょうか。たくさんお金がたまって、人々に褒めたたえられ、崇め奉られたりしたら誰でも良い気持ちになります。人間は周りの人々に称賛され、名声を博するようになると、その状態が長く続くことを願い、その状態に陶酔していくのです。しかしそこに神は必要ありません。そこでは自分が神になっているからです。ですから神の前に頭をたれ、神を崇め、神を畏れて生きる生き方は弱い者の生き方であると見下し、思い上がり、次第に傲慢な心になっていきます。このように、人間の権力や財力や名声がその人にとって重要なものになってくると、人間は必ず神とは相いれない立場に立つようになるのです。今の時代、あちこちにこのような人間の姿が見られます。

 赤い獣にまたがっているこの女は、悪魔と密着している者の姿です。「(6節)わたしは、この女が聖なる者たちの血と、イエスの証人たちの血に酔いしれているのを見た。」この女に象徴されているのは、神を信じる者たちを迫害し、殉教に追い込んでいく悪魔のような権力者の姿です。ヨハネのいた頃、当時はローマ帝国全盛期で皇帝ネロやドミティアヌス帝の時代でした。信仰は弾圧されました。今も残る円形劇場は、飢えたライオンを放ち、信仰者をその餌食として放り出し、かみ殺されるのを楽しんだ場所です。信仰者を迫害してそのようなひどい目に遭わせたのです。

 ヨハネがこの女を見て大変驚くと、天使は言いました。「(7節)すると、天使がわたしにこう言った。『なぜ驚くのか。わたしは、この女の秘められた意味と、女を乗せた獣、七つの頭と十本の角がある獣の秘められた意味とを知らせよう。』」そしてさらに天使は言います。「(8節)あなたが見た獣は以前はいたが、今はいない。やがて底なしの淵から上って来るが、ついには滅びてしまう。地上に住む者で、天地創造の時から命の書にその名が記されていない者たちは、以前いて今はいないこの獣が、やがて来るのを見て驚くであろう。」「(11節)以前いて、今はいない獣は、第八の者で、またそれは先の七人の中の一人なのだが、やがて滅びる。」と語ります。つまり、この世を支配している獣、まるで自分が神のようにふるまって人々を惑わす獣は、永遠にこの世を支配するのではない、やがて滅びるのだと言います。私たちは、目の前の出来事だけに心を奪われていてはいけないのです。私たちを導かれ、歴史を支配される神を信頼していくことが大事だと思います。

 天使の解き明かしは続きます。獣についている七つの頭はローマの七つの丘を指しているとも、ローマ皇帝を示しているとも言われています。「(10節)五人は既に倒れたが、一人は今王の位についている。他の一人は、まだ現れていないが、この王が現れても、位にとどまるのはごく短い期間だけである。(11節)以前いて、今はいない獣は、第八の者で、またそれは先の七人の中の一人なのだが、やがて滅びる。」この七人の皇帝が誰を指しているかはいろいろ研究されていますが、第八番目が先の七人の中の一人であると書かれていたり、この辺のところは理屈で考えると混乱してしまいます。この背景には死んだ皇帝ネロが再臨するという言い伝えがあったからだと考えられています。

 ところで、黙示録が書かれたのは二千年も前のことですから、ここに書かれているようなことは既に解決済みのことであり、21世紀に生きている私たちには関係ないと思ってしまうかもしれません。例えば、過去に伝染病として指定されていた恐ろしい病気や感染症が、環境を改善したり良い治療薬のおかげで、指定が解除されてきているように、時代が変わることによる変化はあります。
しかし、現在では今まで見たことも聞いたこともない新しい種類の病気や感染症が出てきて、人々を苦しめる事態が起きています。ですからどれ一つとっても決着はついていないのです。むしろそれらはますます強力な形になり悪化していると言えるかもしれません。肉体的にも精神的にも、人間の魂を蝕むものがまん延してきて、今世界中に深刻な状況が満ちています。
 病気のことだけではなく、私たち人間を苦しめ、重くのしかかって拘束する恐ろしい力が次々と現れてきますが、それらは終には滅びてしまいます。そのようなこの世の力、獣の力に立ち向かい、勝利したお方がおられるからです。神の小羊イエス・キリストです。「(14節)この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める。」神に敵対するものたちが総力をあげて戦ったとしても、小羊に勝つことはできません。そして小羊を信じる者もまた勝利するのです。

 私たちは戦いに勝つには、自分たちが相手側よりも強い力をもっていなければ勝てないと思っています。神に敵対する獣の軍勢が攻撃してくるのならば、神の側も天の軍勢を集めてそれに勝る力が必要だと考えます。ところが神の計算は違います。小羊はただお一人で勝利されたのです。その勝利は力によるものではないからです。神の小羊イエスは弱く無抵抗でした。いけにえのように十字架に架けられて死に至り、人々の目には敗北だと写りました。しかし、この小羊の贖いの死こそ、神の愛の勝利だったのです。今朝、私たちはその勝利の食卓に招かれています。主の晩餐を感謝したいと思います。
 
 イエスを十字架につけて殺し、当初は勝ったと思っていたこの世の力は自ら崩壊していきます。「(16節)また、あなたが見た十本の角とあの獣は、この淫婦を憎み、身に着けた物をはぎ取って裸にし、その肉を食い、火で焼き尽くすであろう。」獣と淫婦は仲間ですから、一致団結して神に反逆していたのですが、十本の角(十人の王)と獣が淫婦を憎むようになるというのです。そして淫婦は悲惨な死をとげることになるのです。このように神に敵対する力は内部崩壊して失われてしまうのです。

 私たちはもう気づき始めているのではないでしょうか。この世の権力は崩壊します。権力者は自分を脅かす権力者を亡き者にします。民衆は権力者を殺して力を得たとたん、そこに民族紛争が起こります。今世界を見まわすと、どこも権力のつぶし合いの争いが繰り広げられています。このまま進めば人類は破滅に向かってしまうでしょう。そんな中にあって、神を信じる者が希望を失わずに生きていけるのはどうしてでしょうか。それは既にキリストが勝利してくださっているからです。
 この世の富や力や地位を得られなくても、この世で上手に生きられなくても、みんなに弱虫、敗北者だと言われようとも、小羊イエスはそういう私たちと共にいてくださいます。イエスは「わたしは既に世に勝っている。」と宣言されています。ここに希望があります。私たちはキリストの勝利の中で生かされています。この世の暗闇の中で、主の光は今も輝いているのです。

(牧師 常廣澄子)

聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』©️1987, 1988共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による。