2024年10月6日(主日)
主日礼拝『 主の晩餐 』
ヨハネの黙示録 18章1~24節
牧師 常廣 澄子
このヨハネの黙示録には奇妙な獣たちが出て来ますし、想像することが難しいような幻想的な場面がいろいろ描かれています。それはこの黙示録が、キリスト信徒たちが自由にものを言えなかった時代に書かれたので、こういう表現をとらざるを得なかったのです。そういう厳しい時代に、神の霊に導かれたヨハネが書いたものですから、それを聞く者も読む者も、神の霊に導かれなければ、これらの事柄の意味をほんとうに理解することはできないのだと思います。17章9節に「ここに、知恵のある心が必要である」と書かれていますが、これは神を信じ、神を崇め、神を畏れる知恵のことです。神が示されたこの出来事はいったい何を語っているのだろう、何とか理解したいと、神の前に謙虚に出て行く者に、神の御心が明らかにされていくのではないでしょうか。
ここまで黙示録を読んできておわかりのように、天上で強力な力を振るっていた悪しき力は、天における戦いで負けてしまい、居場所を失って巨大な竜の姿となって地に投げ落とされてしまいました。そして今地上でその力をふるっているために、神を信じる者たちが悩み苦しんでいるのです。この黙示録では、神を信じずにこの世の大きな力に飲み込まれてしまっている者たちと、キリストの救いを信じて生きる者たちを対照的に描いています。そして、神を信じる者たちが迫害を受けて殺されていくという状況であったその時代に、今朝お読みいただきましたように、はっきりとその結末が宣言されています。
それは2節にありますように、「倒れた。大バビロンが倒れた。」という言葉です。この言葉は、今までにも何回か出てきました。14章8節には「倒れた。大バビロンが倒れた。怒りを招くみだらな行いのぶどう酒を、諸国民に飲ませたこの都が。」とありました。17章5節には「その額には、秘められた意味の名が記されていたが、それは『大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母』という名である。」とありました。17章18節には「あなたが見た女とは、地上の王たちを支配しているあの大きな都のことである。」と書かれていて、バビロンがひとりの女の姿として描かれています。人間はその女によって目を眩ませられて、その中にどっぷりと飲み込まれている状態だといっているのです。
「倒れた。大バビロンが倒れた。」と力強い声で宣言したのは、天から降って来た、大きな権威を持つ天使です。1節に「地上はその栄光によって輝いた。」とありますから、まばゆいばかりの光の中で天使が語ったのです。このバビロンについて少し考えてみましょう。古代に栄えた四大文明の一つに、今のイラク地方に起こったメソポタミア文明がありますが、その首都バグダッドが古代のバビロンです。旧約聖書を読んでいきますと、紀元前587年にイスラエルの国はバビロンに侵略されて滅ぼされてしまいました。首都エルサレムは破壊され、夥しい人たちがバビロンに強制連行されていきました。いわゆるバビロン捕囚です。紀元前539年にペルシア王キュロスによって解放されるまでの50年あまり、イスラエルの人たちはバビロンでの暮らしを余儀なくされていたのです。バビロンは圧倒的な力を持っていましたので、エルサレム神殿を破壊し、彼らの信仰をも奪ってしまいました。そのように、イスラエルの人たちにとって、バビロンというのは自分たちの国を滅ぼした国として悪魔的な響きを持つ名なのです。
かつて私たちの国日本は隣の朝鮮に侵略して統治し、38年間に亘って植民地政策を行いました。日本が敗戦の日を迎えるまで、日本の国や軍隊は、今の韓国や北朝鮮の方々にとっては、まさにここでいうバビロンのような存在だったのです。1945年8月15日、隣国の方々にとってはまさに「大いなるバビロンは倒れた」と言えたのではないでしょうか。
聖書の中でバビロンは、神を神としないこの世の退廃的な有様の比喩として用いられています。バビロンが最盛期でまだまだ繁栄していた時代に、当時の預言者たちは、いわゆる預言者的過去形で「バビロンは倒れた」という言い方をしているのです。イザヤ書やエレミヤ書(今月から教会学校で学ぶ聖書箇所)を読んでいくと、そこには繰り返し「バビロンが倒れる」という預言が出てきます。それは同時にそこからの開放を示すものであり、真の神を信じる者たちにとっては大きな喜びの訪れ、福音でした。
人々が絶望のどん底に突き落とされ、諦めと無力感にさいなまれている中で、預言者たちは人々に向かって、希望を持って忍耐し、勇気をもって生きるように励ましたのです。今私たちが読んでいるヨハネの黙示録に古代のバビロンのことが出て来るのは、当時イスラエルを支配していたローマ帝国のことをバビロンになぞらえて言っているのは明らかです。しかし、ヨハネが幻を見ているこの時には、まだローマ帝国は滅んでいません。むしろ繁栄を誇っています。その時に「倒れた」という過去形でこれから起こることを言いきっているのです。それはこれから起こることが確かな約束の出来事であることを表しています。そして、ここに出てくるバビロンはローマ帝国を指していると同時に、今のこの時代、この社会のことを語っています。ここで「彼女」という言葉で言い表されていることは、今のこの世の有様のことなのです。
今の社会は、富という経済的な力が絶対的な力を持っています。その力がすべての事柄を支配し、人々の心を縛っています。もちろん富んでいること自体が悪いのではありません。旧約聖書では富んでいることは神の祝福の表われでした。しかし、富が悪魔的な力を持つことがあるのです。私がまだ子どもの頃は、どの家もまだ戦後の貧しさを引きずっていました。けれども人々は助け合い肩寄せ合って暮らしていました。生活の中に人のぬくもりがありました。ところが経済が発展してきて、快適で豊かな生活が送れるようになると、人の心が損なわれてきたのです。人が富を用いるのではなく、富が人を支配するようになったからです。今やお金がこの世を動かしています。政治も経済も人間さえも、どんなものでもお金で動かすことができるようになってきたのです。また、富はこの世界に数や力による支配をもたらしました。富を多く持っている者が力を持つようになるのです。お金でも、土地でも、物でも、多いことが良い事になってきました。ですから、何でも数の多い少ないで評価するようになりました。学生はテストの点数で優劣がつけられ、働く者はどれだけ業績を上げたかで評価されます。それによって地位が上がっていきました。
また、数が支配するところでは競争が生まれます。今はどこも競争社会です。また、数が支配する所では効率が問題になります。いかに小さな力で効果を上げられるかが問われる効率主義です。そして効率を上げるためには画一化が求められます。みんな同じ枠にはめ込まれるのです。みんな同じであることがよいことであって、規格外ははじかれます。このようにして富とそれによって生まれた権力は、人間を奴隷のように動かしています。人々は必死になって上を目指して争います。そのようにして高みに上った者はおごり高ぶり、そうでない者は人生の失格者のようになって、傷つき疲れて病んでいきます。それが今の社会です。
このように人間を支配しているこの世の悪の力を、「彼女」と表現しているのです。バビロンもローマ帝国も彼女に支配されていました。今の社会も同様です。私たちが生きているこの世で力をふるっているのが悪しき力であるということは、まさに今現実に起こっている各地の戦争や争いで多くの尊い命が奪われていることや、日々伝えられるニュース、これが人間のすることであろうかと思うような恐ろしいニュース等からもわかります。
彼女はおごり高ぶって言います。「(7節)わたしは、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。」彼女は自分を女王だと思っています。女王というのはすべてを支配しているということです。女王が最高の地位にあり、やもめというのは最も低い立場に置かれている人です。聖書ではやもめは最も困難な境遇に置かれている人であり、不幸な人の象徴でした。自分を女王だと思っている彼女は、やもめを見下しています。困難な状況に置かれている人を関係ない人だと切り捨てているのです。そして自分は決して悲しい目に遭うことはない、つまり自分の王座は奪われず、自分の支配はずっと続くと思っているのです。しかし、この女王は倒れます。「倒れた。大バビロンが倒れた。」彼女の罪は積み重なって天にまで届いたからです。神は彼女がなした罪をすべて覚えておられます(5節)。
その有様が描かれています。「(2節)そして、そこは悪霊どもの住みか、あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた忌まわしい獣の巣窟となった。 (3節) すべての国の民は、怒りを招く彼女のみだらな行いのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女とみだらなことをし、地上の商人たちは、彼女の豪勢なぜいたくによって富を築いたからである。」「(6節) 彼女がしたとおりに、彼女に仕返しせよ、彼女の仕業に応じ、倍にして返せ。彼女が注いだ杯に、その倍も注いでやれ。」「(8節) それゆえ、一日のうちに、さまざまの災いが、死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。また、彼女は火で焼かれる。彼女を裁く神は、力ある主だからである。」
これが彼女の最後です。力ある神が彼女を裁きます。このようにして富と権力を誇って思うままにこの世を支配していたバビロンは倒れるのです。これは終にはローマ帝国は滅びると宣言しているのです。それはつまり今の私たちの社会にも当てはまります。私たちは今まさに悪しき力が支配している世の中、富や権力が支配する世界に生きています。先ほども言いましたように、数値によって価値が決められ、効率化が求められ、競争させられています。時には富や権力を持つ者を羨望のまなざしで見てしまいます。そのような力を得たいと心の底で思っていないでしょうか。残念ながらそのような思いが時には教会にも入り込んできます。たくさんの人たちが集う教会に比べて、自分たちの教会は小さいと引け目を感じたり、数が少ないことで何もできないと、将来の希望を失ってしまうのです。神の前では数など意味がないにも関わらず、数にこだわってしまうのです。ですから、神は言われるのです。「(4節)わたしの民よ、彼女から離れ去れ。その罪に加わったり、その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。」つまりそういう考えから「離れなさい」「加わらないようにしなさい」「巻き込まれないようにしなさい」と告げているのです。
私たちは命に至る道と、滅びに向かう道とを見極めなければなりません。私たち人間はどうしても目に見える華やかな姿に惑わされてしまいます。ですからその背後にあるものを見抜く目が必要なのです。この世の力は確かに強くて、私たちの心を惑わしますが、そこから逃れる唯一の方法は、ただ一つ、神の御支配の中に飛び込むことです。ただイエス・キリストだけを見ていくことです。フィリピの信徒への手紙2章にあるように、キリストは神の身分であられたのにそれに固執せず、ご自分を無にして僕の身分となり、人間の姿となられて死に至るまで従順だったのです。7節にあるような傲慢な彼女とは正反対のお方です。また、コリントの信徒への手紙二の8章を読むと、主は豊かであったのにあなたがたのために貧しくなられた、それはあなたがたが豊かになるためだと書いてあります。何という大きな驚くべき愛でしょうか。私たちはキリストの中でこそ本当の安心をいただくことができるのです。
ここには滅びたバビロンを見て悲しみ嘆いている人たちがいます。誰が泣いているのかと言えば、三つのグループの人たちで、一つは地上の王たち、二つ目は地上の商人たち、三つめは船に乗って働いている人たちです。皆同じような言葉で嘆いています。 「(10節)不幸だ、不幸だ、大いなる都、強大な都バビロン、お前は、ひとときの間に裁かれた。」「(16節)不幸だ、不幸だ、大いなる都、麻の布、また、紫の布や赤い布をまとい、金と宝石と真珠の飾りを着けた都。(17節) あれほどの富が、ひとときの間に、みな荒れ果ててしまうとは。」「(19節) 彼らは頭に塵をかぶり、泣き悲しんで、こう叫んだ。『不幸だ、不幸だ、大いなる都、海に船を持つ者が皆、この都で、高価な物を取り引きし、豊かになったのに、ひとときの間に荒れ果ててしまうとは。』」ここで「不幸だ」と訳されている言葉は「ウーアイ」という嘆きの声、うめき声です。心を痛めて思わず口から出た音です。地上の王たち、地上の商人たち、海で働く者たち、彼らの共通点は彼女によって富と権力を得ていたことです。王たちは彼女と通じていることで、ぜいたくに暮らしていました。商人たちは巨額の富を得ていました。どのような商品を扱っていたかが、12~13節に書かれています。どれも高価な物ばかりですが、何と人間までもが商品の一つになっています。当時のローマ帝国には奴隷が6千万人もいたそうです。彼らは自分たちがもう富を得られないので嘆き悲しんでいるのです。
さて21節には、もう一人の力強い天使が現れて、重ねてバビロンの滅びを告げています。天使は大きいひき臼のような石を取り上げ、それを海に投げ込んで言います。「大いなる都、バビロンは、このように荒々しく投げ出され、もはや決して見られない。」水の中に沈んだ石が二度とその姿を現わさないように、バビロンは消えてしまうのだ、ということです。22節から後は、 竪琴を弾く音も、歌をうたう者の声も、笛やラッパの音ももう聞こえなくなり、技術を誇っていた者もいなくなって生活の音がなくなり、ともし火も消えて真っ暗になり、人生の喜びを歌っていた花婿や花嫁の声も聞かれなくなって、全くの空しさが訪れるのだと預言しています。すなわち、この天使はバビロンの決定的な敗北を宣言しています。
「倒れた。大バビロンが倒れた。」これは、イエス・キリストにサタンが打ち破られた姿です。悪しき力は全く消えてしまいました。確かに残存勢力はまだ戦い続けていますが、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって既に決定的に勝利しているのです。ヨハネによる福音書16章33節「あなたがたにはこの世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」この御言葉は、今なおいろいろな戦いの中にある私たちに、大きな勇気を与えてくれるものです。主の勝利を信じて歩んでまいりましょう。
(牧師 常廣澄子)
聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』©1987,1988共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による