2024年10月20日(主日)
主日礼拝
使徒言行録 8章26~40節
牧師 常廣 澄子
私たちが信じているイエス様は、私たちの罪を負って十字架に架けられましたが、そのまま死んでしまわれたのではありません。死を打ち破って復活され、信じる者たちに約束の聖霊を送ってくださったのです。そしてこの聖霊(主の御霊)は信じる者と共にいて絶えず励まし続けてくださったので、聖霊を受けた弟子たちを喜びに満ちて大胆に主の福音を語っていったのです。使徒言行録にはその様子が生き生きと書かれています。前回は8章の前半から、フィリポが、ユダヤ人たちが軽蔑して交際していなかったサマリアに行って福音を語った様子を読みました。このフィリポは、堂々と主を証ししながら殉教したステファノ(7章参照)と同じように、十二使徒の働きを助けるために選ばれた七人の中の一人です。彼らは本当に信仰と聖霊に満ちていたのです。
26節ではまず主の天使がフィリポに「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と告げたとあります。ガザというのは、エルサレムの南西部の地中海沿いにあり、エジプトにつながる通路に当たります。今はガザ地区と呼ばれてパレスチナ人が住んでいて、昨年の10月から始まったイスラエルとイスラム原理主義ハマスとの戦争が続いている所です。イスラエルがこのガザ地区を攻撃して多くの被害が出ており、既に4万人以上の尊いパレスチナ人たちが殺されています。救援にあたっている国連軍の活動さえも妨害されたりして、ガザは今非常に厳しく悲惨な状況にあります。ところが二千年前のこの聖書個所は、読んでいくとお分かりのように本当に美しい物語ですので、当時と今との違いに驚くと同時に、人間社会は今や何という恐ろしく罪深い有様となってしまったのかと心が痛みます。
ガザはエルサレムからは標高差もあり、当時はかなり荒れ果てた地域であったようです。26節には「そこは寂しい道である」と書かれています。きっと人もあまり住んでいなかったのでしょう。フィリポは何のためにそこに行かされるのか、理由もわからずにすぐに出かけていきました。ただ従順に主の御霊の導きに従っています。すると、エチオピアの女王カンダケの高官が、馬車に乗って聖書を読んでいるところに出会ったというのです。このエチオピアの高官は、女王の全財産の管理をしていた宦官で、エルサレムに礼拝に来て帰る途中でした。馬車に乗っているということだけでも、その人はかなりの身分の人だとわかりますし、エルサレムの神殿の礼拝に来た帰りだといいますから、きっと高価な衣装に身を包んでいたことでしょう。聖書を読んでいたのはそういう立派な人だったのです。
エチオピアという国は、古くソロモン王の時代からユダヤの国と関係があった国です。この高官が遠い距離をわざわざエルサレムの神殿にまで詣でたということは、彼がユダヤ教への改宗者となっていたことが考えられます。この高官はエチオピヤ人ですから、ユダヤ人から見れば異邦人です。つまりイスラエルの宗教が異邦世界にまで広がっていて、人々の魂を動かしていたと想像することができます。
この高官は何かを真剣に求めていたのではないでしょうか。彼の心は何か生きるよりどころを必死に捜し求めていたように私には思えます。律法(申命記23章2節)によれば、「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない。」とあるように、去勢した男子はイスラエルの宗教的特権から締め出されていたことがわかります。ですからせっかく遠い道のりをエルサレム神殿にやってきても、異邦人の庭までしか入ることができないのです。どんなに求めても突き破れない壁がありました。満たされない心を抱えていたのではないでしょうか。彼の悲しく空しい心の状態を察することができます。そしてそれは、彼が一心に律法の書を読んでいる様子からも想像することができます。
当時は、王宮の奥、とりわけ女性の館で働く男の人は、強制的に宦官にされた時代でした。今では女王の側近として財宝を管理する役職を得て、優秀な家令として何不自由ない生活をしているかもしれませんが、彼がどのような気持ちを抱えて生きてきたかは誰にもわかりません。人の本当の苦しみというのは、表面にはなかなか現われてこないものです。しかし、読んでいたイザヤの御言葉が彼の心を表しています。彼が読んでいたのは、イザヤ書53章「苦難の僕」と言われるイエス様のことを預言している個所だったのです。当時、聖書は声に出して読まれていましたので、どこを読んでいるかが分かったのです。
彼はそこを読みながら、まるで自分のことが書かれているのではないかと思いながら読んでいたのでしょう。「(32-33節)彼が朗読していた聖書の個所はこれである。『彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。』」
自分は去勢された男、自分の子孫は残らない、自分には命がないのも同じである、誰が自分の子孫について語れるだろうか、彼は羊のように屠り場に引かれて行った、これはあの時の自分と同じではないか、いったいこれは誰のことを言っているのだろう、そう考えながら彼は繰り返し繰り返し読んでいたのでしょう。
その時なのです。「(29節)すると、“霊”がフィリポに、『追いかけて、あの馬車と一緒に行け』と言った。」それでフィリポが急いで馬車に近づき走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と尋ねたのです。何というタイミングでしょうか。それが御霊のなせる業です。「(31節) 宦官は、『手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう』と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。」高官はフィリポに一緒に馬車に乗ってくれるように頼みました。そして「教えてください」「これは誰のことを言っているのですか」と尋ねたのでしょう。高官の必死の思いが伝わって来るような気がします。こうして高官はフィリポに教えを乞い、フィリポは喜んで語り、そしてイエスの十字架の贖いが伝えられていったのです。
ここで「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」という御霊の声に導かれて、馬車に近寄って行き、高官の傍に座ったフィリポの姿は、イエスを信じて生きる者のすばらしいお手本だと思います。先日のスティーヴン・クンケル宣教師をお招きしての特別礼拝で、先生は言われました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」まず「あなたがたは行って」行くことが大事ですと。求めている人のところに行かないことには何事も始まりません。
フィリポは主と共に歩んでいました。ですから御霊の導きによって行動したのです。まず高官の良き隣人となりました。実際に馬車に乗って高官の隣の席に座ったのですから、物理的にも隣人でしたし、さらには心理的にも、御霊に満たされ愛に溢れているフィリポは、高官の質問に答え、彼の話をしっかり聞いてあげたことでしょう。今彼が読んでいたイザヤの御言葉を軸にして、高官が今どんなことを考えているのか、何を悲しんでいるのか、その心に深く寄り添っていったのだと思います。このフィリポに出会えて、高官はやっと自分の思いを打ち明けることができたのです。心に抱えていた闇をさらけ出すことができたのです。
人間は誰彼かまわず自分の本心を語ることはしませんし、できません。人が心に抱えていることを話せるのは、本当に自分を受け止めてくれる人、信頼できる人と出会った時です。高官は主の愛に満ちたフィリポと語りあいながら、イエスがなさった贖いの御業を知らされていきました。自分のことのように読んでいた御言葉を通して、自分以上に辛く苦しい生涯を生きてくださったイエスというお方の存在と神の御業を知りました。フィリポがどのように語っていったのかとても興味深いことですが、ずっと長い間高官の心を占めていた暗い闇の部分に、イエスの光が差し込んでいったのです。フィリポがイエスを信じる喜びの心で語る一言一言に、ずっと飢え渇いて、何かを求め続けていた高官の心に希望の光が射しこんできました。高官は自分がたどってきた人生にも意味があるのだと思えたのではないでしょうか。
私は思うのですが、人は本当に真剣に求め続けているところに道が開けてくるのではないでしょうか。いまや、彼の心の目が開かれてきました。そして澄んだ目で外を見渡すとそこには水のある場所が見えてきたのです。彼はすぐに「ここに水があります。」と叫びました。彼の弾んだ喜びの声が聞こえるようです。これもまた何というタイミングでしょう。ここはガザに下る道です。ガリラヤの緑豊かな平地ではありません。このあたりは乾燥した土地で、石ころだらけ、土ほこりがたつ所です。探してもなかなか水など見つかりそうにない所です。それなのに水があったのです。神はちゃんと用意しておられたのです。
これはもちろんバプテスマの水なのですが、高官の心の中には渇くことのない「いのちの水」があふれ出しているのです。高官はこの水を見て、すぐにもバプテスマを受けたいと思いました。36節「洗礼(バプテスマ)を受けるのに何か妨げがあるでしょうか。」と尋ねています。
私はいつもこのところを読むと深い感動を覚えます。考えてみてください。馬車の速度と、福音を語るフィリポの話、それを聞く高官の心の変化、その三者三つ巴、どれ一つでもかみ合わないと、ちゃんとタイミングよく水のあるところに来ることはできません。イエスを信じて行動する時、何と不思議なことが起こるのでしょう。場所も時間も人には見えない心の中も、神はすべてを支配してあらゆることを順序良く整えていてくださることがわかります。
この二人の旅をいろいろ想像すると楽しくなります。いったいここまで来るのにどのくらいの時間が経過したのでしょう。数時間でしょうか?一日?いや二日ぐらいでしょうか?一緒に食事をしたかもしれません。もしかしたら星空を見上げながらお互いのことを語り合ったかもしれません。
「ここに水があります。」何をためらうことがありましょうか。フィリポと高官はすぐに水の中に入っていきました。高官はフィリポによってバプテスマを授けられ、イエスを信じる者へと変えられました。「ここに水があります。」それは神がなせる業です。御霊に導かれて歩む時、すべては神が計画し、準備しておられることを知らされます。救い主イエスを知って主と共に歩む者とされるなら、そこが本当に生きる意味のあるところなのです。いのちの水があるところです。人はそこにたどり着くまで、その心に本当の平和や喜びはないのです。
「(39節)彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。」その後40節にあるように、主の霊はフィリポをガザの北方にあるアゾト(アシドド)に運んでいきました。また、フィリポと別れた高官は喜びにあふれて旅を続けました。喜びなのです。今や悲しみが喜びに変わったのです。彼は、命を捨ててまで自分を愛してくださった救い主イエスの愛、神の愛を知ったのです。今ここに、イエスは私と共にいてくださる、そのことを知っただけで十分でした。うれしいなあ、彼の身体はもとのままで何も変わっていませんが、その心はもう元の彼ではありませんでした。イエスの愛が心の奥まで沁みとおって生きる喜びにあふれていたのです。
この出来事からもわかるように、私たちはイエスを信じた時に心の目、物事を見る心の視点が変えられていきます。私たちはイエスの愛のふところに抱かれた時に、本当の安心、本当の平和を体験するのです。もちろん、不条理の世界に住んでいる私たちは、突然の事故で愛する家族をなくしたり、思いもかけない病気になったり、説明のつかないいろいろな問題に出くわします。イエスを信じたからといって、人間世界の苦しみはなくなりませんし、それまで抱えていた悲しみや辛さが無くなるわけでもありません。しかしながら神の御子イエスの贖いを知って、イエスがいつもどんな時も信じる者と共に生きていてくださることを知った時、不思議に「これでいいんだ」と思えるようになるのです。自分を助けてくださるお方、自分を導いていてくださるお方を見出した平和な心です。私のためにいのちを捨ててくださったお方がおられる、もう私は一人ではない、今私はイエスと共に生きているのだ、ということがわかってきますと、このこともあのこともすべてイエスは知っておられるのだ、このお方にすべてを委ねて生きて行こうという平安な心が与えられるのです。
このエチオピアの高官の話は、今の私たちと関係がない遠い昔の話ではありません。今私たちは使徒言行録の続きを生きているのです。ヘブライ人への手紙13章8節には「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」と書かれています。
イエスの救いはすべての人のためのものです。悲しんでいる人にも苦しみの中にある人にも、この世に生きているすべての人一人ひとりに恵みの福音が語られています。それが書かれている聖書の御言葉には力があり、それを聞いた人の中で大きく成長していくのです。神がその人をとらえて支え、力強く生きるように導いてくださるからです。それが神の言葉である福音の力です。本日は日本聖書協会の方がその活動をご紹介くださるためにこの礼拝においでくださいました。感謝いたします。聖書出版の働きを覚え、一人でも多くの方に聖書が読まれていきますようにと心から願っております。そして新しい週も、今も生きて働いておられるイエスを信じて、喜びをもって心豊かに生きてまいりたいと願っております。
(牧師 常廣澄子)
聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』©1987,1988共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による