自分の十字架を背負う

2024年10月27日(主日)
主日礼拝

ルカによる福音書 14章25~33節
牧師 永田 邦夫

 ルカによる福音書の本日箇所について、共観福音書では、マタイによる福音書に僅か二行だけの記事があるのみですので、本日の説教箇所は、ルカによる福音書だけの独自記事とみてよいと思います。

 また本日の説教箇所となっている、新共同訳聖書には「弟子の条件」との小見出しがついていますように、直接は主イエスに従ってついて来ている人たちが、主イエスの弟子となるための条件として記されています。しかしこの箇所は、今日のわたしたちに向けての言葉でもあって、厳しさもありますが、すばらしい教え、教訓となっています。

 本日箇所に入る前に、14章に入ってから本日箇所に至るまでの聖書の流れを知っておくことも大事ですので、先に確認しておきましょう。

 そこには、主イエスがある安息日に、ファリサイ派の議員の家にお入りになって、食卓を囲んでの会話や諭(さとし)の言葉が記されています。このような食卓を囲んでの会話は、一般に「食卓語録」(スムポシオン)と言われるそうです。これをわたしたちのことに置き換えて、幼少期から大人になるまでに経験したことを振り返ってみても、食事時の会話や、家族団らんには、とても楽しい思い出があります。
 お互いにそのことも重ねながら、聖書個所を見てまいりましょう。

 第一段落(14章1~6節)について:前述のごとく、主イエスが安息日に食事のためファリサイ派議員の家に入った時のことです。そこに水腫を患っている人が同席していまして、ファリサイ派の人々や律法学者らは、イエスがどうなさるのか、その様子を虎視眈々とうかがっていました。その安息日の癒しが、彼らにとっては、行ってはいけない労働に当るからです。

 すると主イエスは先手を取って「安息日に病気を治すことが律法で許されるかどうか」と皆に問いました。勿論この問いは、本心からの問いではなく、彼らの穿った考えを確かめるためでした。しかし彼らは、主イエスの考えを見越してか、その問いには“黙して語らず”でした。
 この後、主イエスは水腫の人を癒して、帰宅させたのです。このことには、わたしたちもほっとさせられます。“安息日規定よりも、いま病の中にあって、苦しんでいる人の痛み苦しみを直ぐ取り除き、その病を癒してあげる”それが優先されたからです。
 人の生活に先立って安息日規定があるのではなく、人の生活の方が先にあるのです。人が安心して生きていける状態にしてあげることが優先されなければなりません。

 第二段落(7~14節、「客と招待する者への教訓」):主イエスは、招待を受けた客が好んで上席に着いている様子をご覧になり、譬えを用いて婉曲に注意を与えました。また、招いてくれた側の人にも、「お互いに裕福であって、招いたり招かれたりして楽しむのではなく、それが出来ないでいる、貧しい人のことを考えて、宴会を催すときは、むしろ、貧しい人、体の不自由な人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」と教え諭されました。

 この箇所で難しい言葉は、最後の14節「そうすれば、その人たちはお返しできないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するときあなたは報いられる。」の言葉です。“お返しできないのになぜ幸いなのか”その答えは、直接はそこに物のやり取りや損得勘定が伴わないからです。愛や憐みの心だけの関係がそこに成り立っているからであり、それは素晴らしいことです。そして、主を信じて生きてきた人たちは、やがてこの世の生を終えて、御国へと招かれる時に、復活の命へと変えられる、と主なる神は約束してくださっているのです。

 次は第三段落(15~24節)です。今まで食事を共にしていた客の一人が主イエスに告げた言葉「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」(15節)から始まっています。これを聞いた主イエスは、譬えを用いて対応されました。その言葉の趣旨は次の通りです。

「神は天国での食事の席へと、全ての人を招いていてくださる。しかし、これに応えて、その食事の席に着こうとする人は殆どいないのだ。夫々が自分を中心に、断る理由を見つけ、その招きを断るのだ。」が趣旨です。そしてこの譬えの最後は24節「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。」と結んでいます。この世の現実の姿を主イエスは譬えで言われたのです。残念としか言いようがありません。でもそのような中で、主なる神は、あの手この手で、世の人々を、そしてわたしたちをご自分の元へと招き続けていてくださるのです。その招きに一人でも多くの人が応えていきますようにと願っています。

 次の15章では「『見失った羊』のたとえ」や、「『無くした銀貨』のたとえ」、さらには「『放蕩息子』のたとえ」などが待っています。楽しみにしていきましょう。

 早速本日箇所、25節以降に入っていきます。冒頭25節「大勢の群衆が一緒について来たが、」と始まっています。その群衆は、14章の始めの、ファリサイ派の議員の家での食事とその雰囲気に、未だ酔いしれていたかもしれません。ずっと、主イエスの話を聞きながら、そこまで従って来ていたのです。

「イエスは振り向いて言われた。」そのお言葉が26節の「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」です。ここで言っています「わたしのもとに来る」は、わたしたちにとっては、主イエスに従っていくこと、すなわち、キリスト者(クリスチャン)になることです。

ではここで、主イエス・キリストに従っていくための条件を整理しながら見ていきましょう。
 第一は、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命までも、これを憎めと言うことについてです。

 ここで言う“憎め”について、ユダヤ人は、AとBという二つのものの中から一つを選ぶときには、「Bを憎んで、Aの方を選ぶ」という表現(否定的に表現された言葉を肯定的言葉に言い換えたもの)をするそうです。

 以上の表現方法をとりますと、主イエスに従って行くためには、父、母、等々、さらには自分の命までも憎む、これが条件となります。これは何とも厳しい命令です。

 そして第二は、「自分の十字架を背負って主イエスについていく」ことについて考えてみましょう。聖書の当時はまだ主イエスの生前ですから、今日わたしたちが考えるイメージ(十字架に架けられているイエス)とは違います。「自分の十字架を背負って」の言葉どおり、「受刑者は自分の十字架を背負ってゴルゴダの坂道をゆっくり上っていく」、これが当時の現実でした。

 整理します。この25節から27節は、大勢の群衆が自分について来るのをご覧になって、自分に従って弟子となるための条件を二つ提示されました。
 第一:父母や身内の者、さらには自分の命までも、すなわち、“自分中心の生き様”を捨て去って、主イエスに従っていくこと。
 第二:自分の十字架を背負って主イエスに従っていくこと。
 ここで“自分の十字架を背負う”というのは、信仰的に考えるなら、神が自分に与えてくださっているその役割や努めを、全て喜んで受け入れていくように、とのことです。

 主イエスがご自身の十字架(死と復活)を最初に予告されたお言葉は、9章22節に「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」とありました。この主イエスの言葉の中にも、十字架の出来事は、父なる神が自分に与えてくださった役割であり、自分が通らなければならない道である、と理解しておられたことが伺えます。

 ここで注目しておきたいことは、前述の二つの条件を挙げ、それを果たしたうえで、主イエスについていく、すなわち従っていく、ことが命じられています。

しかもこの条件の最後には、「そうでなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」と、強い口調でその教訓を締めくくっています。

 この後28節から32節までは、今まで与えた教訓を説明するために、二つの例話を用いて説明しています。要点のみ確認しておきましょう。
 先ず、大きな建築をしようとする時は、初めに種々のことを想定しながら全体の見積もりを出します。費用が足りなくなって、途中で中止するなどは、もっての外です。
 第二は、王が(一つの国が)戦争を起こすとき、普通は初めに軍備力などすべてを算出してから始めます。若しそれができないなら、途中で相手に和睦を申し出るだろう、と記されています。いま世界で起こっている戦争も、この様に中止してくれればと思わされました。

 最後は、本日箇所の結論、すなわち主イエスの弟子となるための条件の結論が、33節に記されています。「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」です。
 ここで、“自分の持ち物の一切”とは、前述26節の、父、母、妻、等、さらには自分の命をも含めたものです。

 わたしたちは、それぞれの立場から、そして、置かれた条件の中から選び出され、今ここに立たされています。願うことは、どうか主なる神が、それぞれの人を守り、祝福して、その役割を全うしていくことが出来ます様にと祈るばかりです。

(牧師 永田邦夫)

聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』©1987,1988共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による