2024年11月3日(主日)
主日礼拝『 主の晩餐 』
ヨハネの黙示録 19章1~10節
牧師 常廣 澄子
お読みいただいた箇所には「ハレルヤ」という賛美が響き渡っています。「ハレルヤ」という言葉は、教会に行ったことがない人でも、どこかで聞いたことがあると思います。よく知られているのは「ハレルヤコーラス」ではないでしょうか。クリスマスの時期によく演奏されるヘンデル作曲の「メサイヤ」で歌われる大合唱です。この曲が1743年にロンドンで演奏された時、ハレルヤの合唱になった時に当時の国王ジョージ2世が感動して起立されたので、その場にいた聴衆も皆立ち上がったそうです。それ以来、ハレルヤコーラスの時には聴衆が起立して聞くような習慣が起こったのだと言われています。
「ハレルヤ」というのはヘブライ語です。「ハレル」というのは「ほめたたえよ」という意味で、「ヤ」というのは「ヤーウェの神、主」を意味する言葉です。旧約聖書、特に詩編には「ハレルヤ」がたくさん出てきます。今私たちが読んでいる新共同訳聖書では「ハレルヤ」がそのまま使われていますが、口語訳聖書では「主をほめたたえよ」という日本語になっています。「ハレルヤ」が出て来るのは新約聖書ではこのヨハネの黙示録19章にある四か所だけです。
この個所では、天の大群衆が大声で「ハレルヤ」と主を賛美しています。「(1節)その後、わたしは、大群衆の大声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。『ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。(2節)その裁きは真実で正しいからである。みだらな行いで地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、御自分の僕たちの流した血の復讐を、彼女になさったからである。』(3節)また、こうも言った。『ハレルヤ。大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。』」
また、二十四人の長老と四つの生き物もひれ伏して、玉座に座っておられる神を礼拝しています。「(4節)そこで、二十四人の長老と四つの生き物とはひれ伏して、玉座に座っておられる神を礼拝して言った。『アーメン、ハレルヤ。』」二十四人の長老と四つの生き物のことは、黙示録の始めの部分に出てきました。覚えておられるでしょうか。彼らは天の玉座のまわりにいて、小羊が封印された巻物を一つひとつ開いていく度に神をほめたたえて賛美していました。
「(5節)また、玉座から声がして、こう言った。『すべて神の僕たちよ、神を畏れる者たちよ、小さな者も大きな者も、わたしたちの神をたたえよ。』」天からの声は、小さき者も大きな者も、すべての神の僕、神を畏れるすべての者が神をほめたたえるようにと告げています。その呼びかけに応えて歌われている賛美の声は、6節にあるように、大群衆の声のようであり、多くの水のとどろきのようであり、激しい雷のようでもあり、ものすごい響きになっていました。では何をどのようにほめたたえているのかというと、「(6節)ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。(7節)わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。」すなわち全能者である神が王となられたことを宣言し、その栄光を讃える爆発的な喜びです。私たちは今朝ここで、天の喜びの声を聞いているのです。
ところで、前回、18章のところで私たちが聞いた声はどんな声だったでしょうか。それは悲しみ嘆く声でした(18章16節、19節参照)。大淫婦と呼ばれている「バビロン」が滅びるのを見て悲しんで嘆く人たちがいたのです。当時、圧倒的な力でユダヤの国に君臨していたのはローマ帝国で、皇帝礼拝が強要され、キリスト教徒への迫害が厳しかった時代です。このローマ帝国を、かつて圧倒的な力を持っていたバビロンになぞらえているのです。「不幸だ、不幸だ」と嘆いていたのは、地上の王たちや商人たちや海で働く人たちです。彼らは彼女(バビロン)によって富や権力を得ていたのです。彼女のおかげで贅沢に豊かに生きていられたのですから、彼女が滅んだことは大きな打撃だったのです。
一方、19章に入りますと、ハレルヤと喜びの声をあげている人たちがいます。バビロンが滅んだことを喜んでいるのです。18章20節には「神がこの都を裁かれた」と書かれていました。バビロンは裁かれるべき都だったのです。ですから19章1-2節で「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。その裁きは真実で正しいからである」と賛美しているのです。実に救いと栄光と力は神のものです。確かに現状を見れば、この世の悪の力が勝利しているようかのように見えているかもしれません。しかし、神は必ずこの地上に栄光を現わされ、救いを実現されます。神にはそれがおできになる力があるのです。
神は正しいお方ですから罪を嫌われ、完全に裁かれます。そして罪を完全に裁いてくださることによって救いをもたらしてくださるのです。神は獣が支配するこの世界、神に逆らうサタンの力に満ちているこの世界をそのままにしておかれることはありません。2節には「みだらな行いで地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、御自分の僕たちの流した血の復讐を、彼女になさったからである。」また3節には「大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」とあります。悪が滅ぼされることによって、この世界に救いがもたらされるのです。
今、獣が支配する悪の時代を生きている私たちは、私たちを苦しめるいろいろなことを体験しています。人と人の間に不和があり、国と国、民族と民族の間に渦巻いている争いや戦争が止むことなく続いているこの世界にあっては、私たちがどんなに平和を願っても、その平和や自由を妨げる強い力が働いています。この世の権力者にとっては人々の自由は邪魔だからです。しかし、今朝の聖書には、人々を苦しめるそのような悪の力が滅ぼされていく様子、その裁きの煙が世々限りなく立ち上っていくことが示されています。
この黙示録には、小羊の名が記されている者と、獣の刻印を押されている者の二つのグループが登場します。小羊の名が記されている者というのは、神を信じる人たちのことです。獣の刻印が押されている者とは、神を信じないで、神に敵対している人たちのことです。今、獣とよばれる、神に敵対する者がこの世界を支配し、神を信じる者たちを苦しめています。しかし、やがてこの神に敵対する者は滅びていく、そして神ご自身が支配される国が来る、というのが、黙示録が語っているメッセージなのです。
ここで「ハレルヤ」と賛美と喜びの声をあげているのは、真の神が勝利を得て王となられたから、つまり神の国が来たからです。私たちが勝利してこの世界を支配するのではなく、私たちが信じている神が真の王となられたからです。私たちは皆この神のご支配の下に置かれるのです。私たちは皆神の僕だからです。それはこの圧倒的な力を持つ悪魔に唯一打ち勝たれたお方がおられるということです。それが神の小羊であるイエス・キリストです。イエスはただただ優しいお方であるだけではありません。サタン(悪魔)と格闘し、これを打ち破ったお方です。このお方の中にある時、私たちも悪魔の策略に勝つことが出来るのです。
初代教会の人たちは、ゴルゴダの丘で十字架につけられたけれども、そこからよみがえったイエスを救い主として賛美し、真の神への信仰を告白してきました。イエスは神の小羊、傷なき初子として捧げられましたが、このほふられた小羊は、勝利者として終にはこの世の王として世を治められるのです。神の救いと栄光と力は、実にこの小羊イエスにおいてこの世に現わされたのです。イエスの十字架と復活の出来事こそが、神の救いと栄光と力の表われです。神の正しい真実の裁きは、イエス・キリストの十字架において成し遂げられたのです。神は決して罪を見過ごされるお方ではありません。神は正しいお方ですから、罪は罪として厳格に正しく裁かれるのです。実に神はキリストの十字架によって、私たちのすべての罪を断罪してくださったのです。小羊の名が記されている者というのは、キリストの十字架によって罪が赦されたことを信じている人たちです。
「(7節)小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。」今や天におられる小羊イエスの婚礼の日が来ました。十字架において屠られた小羊イエスが花婿として再びこの世に来られるのです。小羊イエスを迎える花嫁とは誰でしょうか。それはイエス・キリストを信じる者の集まりである教会です。この花嫁である教会が用意を整えて、花婿なるイエスを待っているのです。それが私たちの現実です。
聖書は古くから神様とその民との関係、またキリストと教会の関係を婚姻によって表してきました。それは二つのものが一つに合わせられ、愛の交わりに生きるということです。二つのものが一体となる、そこに深い奥義があります。
「(8節)花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」花嫁は輝く清い麻の衣を着せられています。この世を牛耳っていたあの大淫婦が紫や赤の布で身を覆っていたのとは大違いです。「この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」とあります。しかしここに「正しい行い」とありますが、キリストの花嫁となるに何か立派な行いをしなければならないわけでもありませんし、善行を積まないといけないわけでもありません。花嫁は輝く清い麻の衣を着せられています。神が白く清い衣を着せてくださるのです。ただ神を信じ、神に自分を明け渡して、神がなさることを感謝して受け取るだけです。神の救いを信じること、それがキリストの花嫁にしていただく唯一の条件です。
天使は続けて言います。「(9節)それから天使はわたしに、『書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ』と言い、また、『これは、神の真実の言葉である』とも言った。」天使はヨハネに書き記せと命じています。なぜでしょうか。それはすべての人にこのことを告げ知らせるためです。すべての人を小羊の婚宴に招くためです。書き記せというのは、まず第一には、私たちの魂に刻み付けることです。そして婚宴に招かれた者として、感謝と喜びをもって、その書き記されたことが真実であることを証しするのです。これが信仰告白です。
イエスはしばしば婚礼のたとえ話をなさいました。マタイによる福音書には、「天の国」のことを王が王子のために催す婚宴の話として書かれています(22章1-14節)。このたとえ話からは、すべての人がこの婚宴の席に招かれていることがわかります。このたとえ話では、あらかじめ招いておいた人たちが次々と断ってきたので、通りに出て行って見かけた人は善人でも悪人でも皆集めてきたと書かれています。するとその中に礼服を着ていない人がいました。当時、婚礼の礼服は、婚宴を主催する側が用意することになっていました。つまり礼服が用意されていたのに着なかった人がいたということです。イエスは嘆いて言われました。「(22章14節)招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」と。神はすべての人を招いておられるのです。ですからすべての人は小羊の婚宴に出席できるのです。招きに従って婚宴の席に着く、それが招かれている者のなすべきことではないでしょうか。ここにいる私たちは皆、小羊の婚宴に招かれ、集うことが許されていることを感謝したいと思います。
私たちは今朝、天の玉座から呼びかける声を聞いています。「(5節)すべて神の僕たちよ、神を畏れる者たちよ、小さな者も大きな者も、わたしたちの神をたたえよ。」私たちはほんとうに小さな者です。しかしどんなに小さな者でも、神をほめたたえることができます。言葉だけでなく、生活の中で精一杯神をほめたたえるのです。神を喜んで生きていくのです。それは神を神として崇め、神がなされることを信頼し、すべてを神に委ねて生きるということです。
最後に何ともほほえましい場面が書いてあります。著者ヨハネはこんなにすばらしい恵みの言葉を聞いてうれしくてなってしまい、天使を拝み始めたのです。「(10節)わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。すると、天使はわたしにこう言った。『やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。』」天使は礼拝の対象ではありません。天使は神の僕なのです。へブライ人への手紙1章14節には「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。」と書かれています。
この時の天使はきっとびっくりしたことでしょう。慌ててヨハネを起こして、礼拝すべきは神だけですよ、一緒に神をほめたたえようではないか、と微笑みながら語ったのではないでしょうか。
私たちは毎週主の日の礼拝を守っています。大勢の人でいっぱいの教会も、少人数の小さな教会もあるでしょう。しかし、主の日の礼拝は天における神の民の礼拝とつながっているのです。そのことをいつも忘れないで、天上にいる者、地上にいる者、地下にいる者、すべての人が王の王であられる神を礼拝したいと願っております。神を喜び、神の栄光をたたえ、ハレルヤと主を賛美して生きていきましょう。やがて小羊の婚礼の日がきます。
(牧師 常廣澄子)
聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』©1987,1988共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による