2024年11月24日(主日)
主日礼拝
ルカによる福音書 15章1~7節
牧師 永田 邦夫
はじめに、本日の礼拝に招かれましたことを主なる神に感謝申し上げます。
本日箇所も前の14章と関係がありますので、その関係が深い34節35節を先に確認してから本日箇所15章に入っていきましょう。
34節35節には「塩気のなくなった塩」との小見出しがあり、ここに記されている教えの意味を理解しておきましょう。塩は勿論、調味料として使われますが、塩自体よりも、その周りのものを引き立てて、その味や、特徴をより高める効果を表します。その塩も“塩気がなくなれば”すなわち本来の効果を発揮できなくなれば、「畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。」と厳しい言葉となっています。
これを、人間それぞれの役割に置き換えますと、塩の役割は、直接は目立たないけれど、周りのそれぞれの役割を持つ人に与える影響には、大きいものがあります。
このことは、社会で特にチームワークで働く活動において、きわめて大切な意味を持っています。
これは、わたしたち教会の役割においても当てはまります。普段、表には目立たないけれども、大切な役割を担っていてくださる、そのような人にも感謝しながら、お互いに支え合い、また祈り合いたいものです。
そして、お互いに主イエスの弟子として、キリストの宮である教会の働きを担い合っていきたいと思います。
14章の最後35節の「聞く耳のある者は聞きなさい。」を受けて、15章の1節には「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。」とあります。この二つの節には「聞く」という言葉が際立っているように思います。
この15章全体は、三つの段落、それも皆に良く知られているたとえからなっていまして、「見失った羊」のたとえ、「無くした銀貨」のたとえ、そして「放蕩息子」のたとえ、です。因みにこれら三つの段落を岩波版聖書では、それぞれ「失われた羊の譬」、「失われた銀貨の譬」そして「失われた息子の譬」と銘打っています。
そしてこれら三つの譬はいずれも、失われていたものが見つかったとき、その関係者が集まって一つとなり、その喜びを分かち合っています。そしてその喜びは、天にまで通じる喜びである、と伝えています。以上から、この箇所を「福音の中の福音」と呼んでいる神学者(ウイリアム・バークレー)がいます。では、さらに詳しく見ていきましょう。1節には「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。」とあります。これを見ますと、“ああ今ここに主イエスを中心にした、御国形成の第一歩が始まったな”そんな嬉しい気持ちにさせられます。
ところで、この徴税人とは、ローマの支配体制の中の一職制の人です。ローマ政府から税の徴収権を買い取った請負人です。しかし彼らは決められた税額以上の額を上乗せして相手から徴収して、私腹を肥やしていたのです。そのために社会の人からは敬遠されていたと言います。1節には、徴税人と罪人が並記されていて、この両者が「話を聞こうとイエスに近寄って来た。」とあります。何時もは主イエスを敬遠している人でも、主イエスが語る福音の話を聞こうと、近寄って来た、とあり、これは前述の通り、主イエスが望んでおられる御国形成の第一歩となる出来事です。先ず喜びたいと思います。
主イエスは言われました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイによる福音書9章13節b)。このお言葉が一歩ずつですが実現しつつあることを思わされました。
次の2節には「すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。」とあります。この様に、主イエスの福音伝道の歩みには、ファリサイ派の人々や律法学者らが登場して不平不満を言う場面が多くありますが、それは何故なのでしょうか。
ファリサイ派の人々について、その起源は必ずしも明らかではありませんが、「分離主義者」とする見解が採られています。その起源は、紀元前2世紀の「敬虔派」(ハシデイーム)にあるとされています。また律法学者とはラビ・ユダヤ教に徹し、人々に律法を教えていた人々です。
また、先の2節で「ファリサイ派の人々や律法学者らの不平不満の言葉の中に、「この人は罪人たちを迎えて、云々」とあります。“この人たちは”について、この新共同訳聖書では、この様に上品な言葉で記していますけれど、原語(ギリシア語)では、“こいつは”くらいの意味で、岩波版聖書は、その通り、“こいつは”と記しています。
以上、ファリサイ派の人々や律法学者の不平不満や、下品な言葉にも拘らず、主イエスは、それを乗り越えて、御国の福音について彼らに語ろうとしています。このことを考えますと、本当に胸にジーンと来るものがあります。
では主イエスが彼ら(ファリサイ派の人々や律法学者)に伝えた御国の福音に関するたとえによる教え、諭しの言葉を4節以降から読み取って参りましょう。
4節には「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」とあります。ここで主イエスはこのたとえによる教え、諭しの言葉を「あなたがたの中に」とより親しみを込めて切り出していることにも注目です。またここには、「これは他人事ではありませんよ」の意味を込めていたかもしれません。
ここで参考までに、イスラエルの土地はどのような土地なのかを紹介いたしますと、イスラエルの土地は、緑の原よりも山地や荒れ地が多い土地です。それは南部に行くほどそうです。緑の牧場、憩いの汀に導く羊飼いから離れることは、その羊にとって命に係わる危険が伴います。ここで、“緑の牧場、憩いの汀”を想起させてくれる、旧約聖書の詩編23篇1節から3節を以下に記します。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。」
ではここで、ルカによる福音書15章4節の、「百匹の羊を持っている人がいて」の箇所にもう一度目を通していきましょう。羊飼いにとって、百匹の羊を持っているのは、ごく普通のことだそうです。しかし大事なのは、その飼育している羊の名前や居場所を覚えていて、その羊の名を呼びながら、飼育していたとのことです。
以上のことを前提にしますと、4節の言葉「その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して(もちろん、その九十九匹の羊の安全を確保したうえで)、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(「勿論そうする筈だ」の言葉が、主イエスのお考えの中にはあったのです。)
この4節で印象的な言葉は、「見つけ出すまで、捜し回る」です。
もうここで皆さんもお気づきのことと思いますが、この譬えの中で、羊飼いとは他でもなく、主イエスご自身のことであり、また主なる神のことです。
主なる神、また主イエスは、信じて従うすべての者を覚えていてくださるのです。
そして、もしもわたしたちが、主イエスを忘れて思いのままに勝手な行動をとろうとしても、主イエスの方からわたしたちを呼んでいてくださるのです。
このことをわたしたちは忘れずに、主イエスに従っていきたい、と願う者です。
次は5節6節「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うだろう。」とあります。
この二つの節には、注目すべき言葉、そして重要な言葉が沢山あります。それ等を見ていきましょう。
一つは、見つけた羊を家に担いで帰ることです。今まで迷走していた羊は、多分、疲労困憊していることでしょうから、その羊を担いで帰る意味は良く分かります。もう一つは、主なる神は、わたしたちが神から離れていた場合には、より以上に深い愛を注いでくださり、そこから立ち返るために種々と、手立てを尽くしてくださる、との、神のより深い愛情がここに記されているのです。
さらにもう一つ大切なことがここに記されています。それは見失われていたものが見つかった場合には、友達や近所の人々と、喜びを共にして、その喜びを分かち合うことです。わたしたち教会でも、今まで教会から離れていた方が戻ってきた場合には、共にその喜びを分かち合うことを行っています。これが大切です。どうかこれからも続けて参りましょう。
教会の業とは、お互いの喜びも悲しみも共に分け合うことです。
次に7節は「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」と結んでいます。
以上を整理し、まとめますと、
人は失われた羊のような立場に、時として置かれる存在である。
私たちが神を探ねる前に、神が私たちを常に求めておられる。
失われた者が立ち返るときの大きな喜びに、私たちも招かれている。
以上のことを覚えながら、常に私たちは、この失われた者の立ち返りと、
その祝宴に招かれて、その喜びに与る人が一人でも増し加えられていきますようにと祈り続けたいと願っています。
(牧師 永田邦夫)
聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』©1987,1988共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による