2024年12月1日(主日)
主日礼拝『 待降節第一主日・主の晩餐 』
ヨハネの黙示録 19章11~21節
牧師 常廣 澄子
童話の中には、悪者に囚われてしまったお姫様を助け出すために、白馬にまたがった素敵な王子様が登場するお話があります。悪者をばっさばっさとやっつけてお姫様を救い出すハンサムな王子様に、子どもたちは声援を送り、心をときめかします。今日の聖書箇所には、そのような白馬の騎士が登場してきます。まず11節を読むと、天が開かれてヨハネは驚くべき光景を見させられるのです。
「そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、『誠実』および『真実』と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。」とあります。3章14節には、キリストのことを「アーメンである方、誠実で真実な証人」と書かれていましたが、人間関係においては、誠実であること、つまりその人に嘘がないということはどんなに大切なことでしょうか。そういう人となら安心して付き合うことができます。実にキリストは私たちに対して真から誠実であり真実であられるのです。このお方は私たちとの約束を守り、真実を貫き通されます。そしてこのお方が正義をもって裁かれ、戦ってくださるのです。私たちはイエス・キリストを優しい救い主として信じていますが、このお方が裁く方であり、戦われることは似合わないと勝手に思ってしまいますが、イエスは私たちを裁かれるお方であり、サタンと戦い、死と滅びの力を打ち破って勝利した方なのです。
ではここでの戦う相手とは誰でしょうか。今までずっと語ってきましたが、その相手とは獣と地上の王たちとその軍勢です。獣はこれまでにもしばしば登場してきましたように、竜の力を受けてこの世を支配しているものです。そして竜とは、悪魔であり、全人類を惑わす者、告発する者です。私たち人間はこの獣によって惑わされているのです。20節にあるように、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者たちは皆、この獣に惑わされた人たちです。
つまり白馬の騎士とその軍勢は、獣と地上の王たちとその軍勢とに対して戦うのです。(16章には獣が地上の王たちを集めて、ハルマゲドンに集結させたことが書かれていました。)しかしここには戦いの様子はいっさい書かれていません。ただ結果だけが書かれています。獣は捕らえられ、獣の前でしるしを行った偽預言者も、一緒に捕らえられてしまいます(20節)。そして、獣と偽預言者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれます。人々を惑わしていた者は滅ぼされてしまうのです。獣が滅ぼされたことによって、やっと惑わされていた人たちは目を覚ますのです。人々が救われるためには、まず獣が滅ぼされなくてはならなかったのです。
ここには、実に血なまぐさい、残酷で恐ろしい光景が描かれています。「(17節)わたしはまた、一人の天使が太陽の中に立っているのを見た。この天使は、大声で叫び、空高く飛んでいるすべての鳥にこう言った。『さあ、神の大宴会に集まれ。(18節)王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べよ。また、馬とそれに乗る者の肉、あらゆる自由な身分の者、奴隷、小さな者や大きな者たちの肉を食べよ。』」太陽の中に立っている天使が大声で叫んで、空高く飛んでいるすべての鳥たちにこんなことを言ったのです。そしてすべての鳥たちはそれらの肉を飽きるほど食べたというのです(21節)。
それだけではありません。白馬の騎士の姿もまた異様です。白馬の騎士は血に染まった衣を着ています(13節)。この血とはどういうものでしょうか。敵の返り血をあびたのでしょうか。このことを考えた時に関連する預言の言葉があります。イザヤ書63章3節です。「わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとりわたしに伴わなかった。わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ、憤りをもって彼らを踏み砕いた。それゆえ、わたしの衣は血を浴び、わたしは着物を汚した。」と書かれています。ぶどうの実を収穫して足で酒ぶねを踏むように、神は義を持って人々を審かれるというのです。血に染まった衣をまとっている騎士、つまりキリストが戦われるのは、童話のようなロマンチックな物語ではなく、血を流す戦いがなされているということです。
ヘブライ人への手紙12章4節にこのような言葉があります。「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」ここには私たちが血を流すほどまでに罪と戦ったことがないとありますが、本当にそのとおりだと思います。私たちは生ぬるい生き方しかしていません。本気で罪との戦いをしていないのです。ですから、血が流れることもありません。その前の御言葉、ヘブライ人への手紙12章2-3節には、「このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」と書かれています。
キリストは血を流されたのです。十字架に架かって血を流されたのです。ですから血に染まった衣を着ておられるのです。その血はご自身が流された血です。それは私たちのために流されたイエスご自身の血なのです。罪と戦って血を流すほどにまで抵抗したことがない私たちに代わって、キリストが血を流すほどに戦ってくださったのです。ですから本来ならば私たちが流さなくてはならない血です。それをキリストが代わってくださったのです。血に染まった衣を着ておられるお姿に、私たちはただ感謝すること以外にないのです。
そして、この血に染まった衣を身にまとっておられるお方の名は「神の言葉」と呼ばれていると書かれています(13節)。これを聞くと、すぐにヨハネによる福音書の冒頭の言葉が思い浮かびます。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネによる福音書1章1-5節)「神の言葉」とはイエス・キリストのことです。この世の暗闇は光であるイエスを理解しなかったのです。
「神の言葉」とは、神様が語っておられる言葉そのものであり、このお方において神の真実と慈しみが溢れています。このお方に神のすべてが現わされているのです。イエスは言われました。「わたしを見た者は、父を見たのだ。」(ヨハネによる福音書14章9節)イエスの言動において現わされているすべてのことが、父なる神の思いです。その「神の言葉」であられるお方が、十字架に架けられ、血を流してくださったのです。まさしく神の愛の表われです。
さらに続けてこのお方のことが書かれています。「(15節) この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。」ここには「この方の口からは、鋭い剣が出ている。」とあります。口から出ている剣とは言葉です。神の言葉には力があるのです。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」と、ヘブライ人への手紙4章12節に書かれています。神の言葉であるキリストは、私たちの心の思いや考えを見抜いておられます。心の思いや考えをすべて見通されたなら、私たちは恥ずかしくて苦しくていたたまれなくて滅びるしかありません。しかし、その罪のすべてをキリストが引き受けてくださいました。ですから十字架の贖いを信じる私たちは罪なしと宣告されているのです。
この個所には、白馬に乗っているお方キリストについて、いろいろな名前が記されていて、「誠実」「真実」「神の言葉」「王の王、主の主」などと呼ばれています。けれどもこの他にもう一つの名前があります。12節には「この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。」と書かれています。「自分の他は誰も知らない名」があったのです。「名を知る」ということは、その人を支配するという意味がありました。
キリストはご自身しか知らない名を持っておられます。獣に名を知られることはありません。キリストは獣に支配されないのです。私たちもその名を知りません。キリストはいろいろな名で、ご自身を表してくださいますが、私たちにはキリストのすべてを知ることはできません。残念なようですが、それはとても素晴らしいことではないでしょうか。キリストは私たちより遥かに偉大で大きな存在であるということだからです。神は人間が考えられる以上のお方、人間をはるかに高く越えておられるのです。
今朝も私たちは、いろいろと考えながらこの黙示録のメッセージを読み、そこから聞き続けていますが、これが書かれた初代教会時代は、おそらく今日の私たちが想像することができないくらい、暗く苦しい時代だったと思います。果てしなく続く迫害の時代でしたから、信仰していることが分かれば逮捕され投獄されるという、無限に続く闇の中を生きていたのです。黒雲が頭上を厚く覆って、この黒雲はいつ晴れていくのだろう、いつこのような世界に開放の時が来るのだろう、この苦しい時代はいつ終わるのだろうと、先の見えない暗いトンネルの中にいたのです。
ローマ帝国の支配下にあって、皇帝礼拝、偶像礼拝を強要されている中で、キリストへの信仰を持って生きることは、大変な苦しみを余儀なくされていました。信仰を持っていることがわかれば、たちまち捕らえられ。獄に入れられ、野獣の餌食にされました。それを見て拍手喝采する観客の見世物となっていたのです。キリストの贖いを信じて生きることにはひたすら忍耐が必要でした。喜びや希望ではなく、この上なく厳しい戦いがあった時代なのです。
そのような暗い時代背景にあって、このヨハネの黙示録が私たちに語っていることは何なのでしょうか。私たちが生きている現実の、苦しみや悲しみ、無力感や諦め、空しさの中にあって、それらに飲み込まれて、呻きつつ倒れてしまうのではなく、そこを突き抜けた先、その苦しい時代の先を見させられているのではないでしょうか。それは神の小羊イエス・キリストによる罪の赦しと死に勝利した姿です。それをしっかり見抜いて、洞察する目と聞き取る耳を持つようにと促したのではないでしょうか。
黙示録の始めの方にある七つの教会に宛てた手紙では、必ず「耳ある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。」と書かれていました。13章9節にははっきりと「耳ある者は、聞け」と語っています。「聞きたい者は勝手に聞きなさい」とか、「わかる者だけがわかっていればよい」というものではないのです。主なる神は、私たちの現実の生活では見ることができないこと、聞くことができないことを、霊的に突き抜けて見せてくださり、聞かせてくださるのです。
黙示録が私たちに語っていることは、目に見える現実の世界の中で生きている私たちの目が、その見えるものによって狂わされてはならないということです。日々の生活の中で、霊的な目と耳を持って歩むことがどんなに大切であるかを語っているのです。目に見える光景がどんなに燦然と輝いていたとしても、その背後にあるものは神なき世界の廃墟にすぎません。圧倒的なこの世の権力構造の中で、神の霊が私たちの心の目を開いて見させてくださることを見ていかねばなりません。
今私たちはキリストを信じ、キリストを見上げています。白馬に乗ったキリストを見ています。このお方こそ、すべての罪に勝利され救いを完成してくださったただ一人のお方です。このお方に従っていくことで、この時代を乗り越えた生き方ができるようになります。これがキリストを信じる者の生き方です。
(牧師 常廣澄子)
聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』©1987,1988共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による