神、我らと共にいます

2024年12月22日(主日)
主日礼拝『 クリスマス礼拝 』

マタイによる福音書 1章18~25節
牧師 常廣 澄子

皆さま、クリスマスおめでとうございます!
私たちは毎週ろうそくを1本ずつ灯しながら、待降節の日々を過ごしてきました。何を待ち望んでいたのでしょうか。それは本日の聖書箇所の冒頭に書かれていますが、救い主イエスの誕生です。本日はアドベントクランツのろうそくが4本灯り、待ち望んでいた喜びのクリスマスです。

「(18節)イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。」ここには、「イエス・キリストの誕生の次第」と書かれていますが、ここを読んでいくとお分かりのように、イエスがどのようにお生まれになられたかは、ほとんど書かれていません。ここに書かれているのは、婚約していたヨセフとマリアのことだけです。マリアはヨセフと一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになりました。それを知ったヨセフがひそかに婚約を破棄しようとしますと、夢に天使が現れて、恐れないでマリアを妻に迎えなさいと言ったのです。そして二人の間に男の子が生まれることを告げたので、二人は驚きや不安や心配を抱えながらもそれを受け入れたということなのです。25節に「 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。」と書かれていますが、その後で唐突に「そして、その子をイエスと名付けた。」とあります。もうここではイエスはお生まれになってしまっています。本当に不思議な書き方です。

「(22節)このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。(23節)『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』」
この23節の御言葉は、イザヤ書7章14節にある言葉で、預言者イザヤが当時のユダの王アハズに告げた言葉です。「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」 

 マタイによる福音書の著者マタイは、22節に書かれているように、このイザヤの預言はイエス・キリストの誕生によって成就したのだと語っています。少しイザヤ書に書かれていることをみておきたいと思います。
 紀元前8世紀頃、北イスラエル(エフライム)はアッシリアという大国が攻めて来るというので、対抗するために、アラム(シリア)と同盟を結びました。そして同じユダヤ民族である南のユダにもその同盟に参加するように要請したのです。しかし、南ユダはこの誘いに応じませんでしたので、アラムとイスラエルは同盟を組んでユダを攻撃してきました。それで、ユダの王アハズは大変恐れて動揺してしまいました。「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。」(イザヤ書7章2節)と書かれています。

 イザヤは南ユダの預言者でしたから、その時、非常に恐れて動揺しているユダの王アハズに対して、「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。」(イザヤ書7章4節)と進言しました。しかしアハズは静かにじっとしていることができず、この忠告を聞かずに、ひそかにアッシリアに使いを送って助けを求めたのです。それで神はイザヤを通してアハズ王に言われました。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」(イザヤ書7章11節)これは、神の助けが信じられないアハズに対して、しるしというものはどこにでもあるものではなく、陰府のような深い所に、あるいは天のように高い所にあるのだから、神が与えてくださるしるしによってあなたの不信仰を克服しなさい、という恵みに満ちた言葉でした。

 ところがアハズはこれを断ってしまいます。「あなたたちの神、主を試してはならない。」(申命記6章16節)という戒めがありますが、これを盾に「私は主を試みることはいたしません」と、自分の不信仰を体裁よい言葉で覆い隠そうとしたのです。この場合は、神の方から「しるしを求めなさい」と言われていて、それが許されているのですから、謙虚にこの言葉に従うべきでした。しかしアハズの不信仰が神の恵みの言葉を遠ざけてしまったのです。アハズは神の助けよりも、目に見える強大なアッシリアという国を頼みにしたのです。国の重大な危機に際して、神の限りなく深い憐みと恵みの言葉を拒否することは、あってはならない事でした。

 このような状況の中で、先ほどの預言「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ書7章14節)が与えられたのです。
 これは、アハズが神の言葉を拒絶したことによって生じた、神と人間の間にある溝を、神ご自身の方から手を差し伸べて埋めようとなさった、恵みにあふれる心の表われです。それはつまりインマヌエルと唱えられる人物を送るということでした。インマヌエルというのは、23節にありますように「神は我々と共におられる」という意味です。マタイはその預言がここにおいて成就したのだと語っているのです。すべての人が「ああ、神様は私を守って救ってくださった。神様はいつも私とと一緒にいてくださるのだ。」と言うことができるようになったのです。このインマヌエルという言葉は、イザヤ書の7章14節、8章8節、8章10節以外には旧約聖書の中では出てきません。そして新約聖書に入ってこのマタイによる福音書に現われてくるのです。
 マタイがこのイザヤ書の預言を主イエスの誕生に当てはめているのは、何か唐突な感じがするかもしれませんが、イエスこそが、このインマヌエルの名に最もふさわしいお方であることは誰もが確信するところであり、疑う余地はありません。

 私たちが読んでいる聖書は、旧約聖書(ヘブライ語聖書)と新約聖書で成り立っていますが、この約という字は、契約の約、約束の約であって、聖書は契約とその成就が書かれている書物なのです。神はアブラハムやモーセを通して、人類を救う契約をたてられました。この契約が、何千年にもわたって書かれた旧約聖書39巻全編を通じての主題です。新約聖書はこの旧約聖書の預言が成就したことが書かれているもので、旧約聖書において約束されていた救いが、神の御子イエス・キリストによって成就した、つまりその救いが完成したということを証しする書物なのです。

 使徒パウロは、神が、御子イエス・キリストをこの世に送ってくださったことについて、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマの信徒への手紙8章32節)と語っています。パウロのこの言葉は、神が私たち人間の救いのために御子イエスを与えてくださったことを、神は人間に対して、最大で最高で最善のことを成されたのだと語っているのです。人間を救うべきお方として、これ以上の方はおられないからです。

 イエスは、復活されたお身体で弟子たちに現われ、天にお帰りになる間際に、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束してくださいました。イエスご自身がご自分の口を通して「わたしがインマヌエルの神である」と自己紹介してくださったとも言えます。そして、この感謝すべき約束が、私たちの信じるキリスト教会の宣教の言葉、福音なのです。神は、私たち人間一人ひとりを限りなく愛しておられ、信じる者をキリストの救いに与らせてくださいます。そしていかなる時にも共にいて、信仰と希望と愛の中に生かしてくださり、神のみ業を私たちにみせてくださるのです。

 さて、まだ神の御子がマリアの胎内にあった時、天使は「(21節)その子をイエスと名付けなさい。」と告げました。そしてその理由を「この子は自分の民を罪から救うからである。」と言われました。つまり、生まれてくる子は、人間をその罪から解放してくださるのだというのです。罪からの解放というのは、罪の罰である死を滅ぼしてくださることです。
 神の御子イエスは、天の限りなく高い所から、地の最も低いところに降ってくださり、人間の形をとって、私たちの間に住んでくださいました。そして終には、十字架に架かって救いへの道を開いてくださいました。イエスは十字架で死なれた後、墓に葬られましたが、陰府に降って死に勝利されて復活されたのです。これが罪からの解放です。いつも申し上げているように、主イエスの救いを信じる者は既に裁きが終わっているのです。

 ところで、神の御子がベツレヘムの馬小屋でこの世にお生まれくださり、飼い葉おけに寝かされていたという、この世界で初めのクリスマス物語の伝えることは、今の人間社会の有様を思う時、(人間が人間を殺し、痛めつけ苦しめています。人を騙しても平気でいます。人間の心はおぞましさ、冷たさ、傲慢さ、罪深さで満ちています。)それは実に象徴的な出来事だと思います。なぜなら、今はこの世界中が馬小屋のように不潔で、私たちの心は飼い葉おけのように汚れているからです。
 神の御子イエスは、このように恐ろしい罪に満ちた暗黒の世界の中に、光としてお生まれくださったのです。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネによる福音書1章9節)このことは、どのような言葉を尽くして語っても、言い表せないほどの恵みであり祝福です。誰がこれを否定できるでしょうか。このような罪に汚れた人間世界の歴史のただ中に、聖い神の御子イエスがおいでくださったということは、ただただ感謝する以外にありません。

 あらためて小聖書と言われる、ヨハネによる福音書3章16節を意味深く思い起こします。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」この永遠の命というのは、死なずにずっと生き続けるような命ではありません。神によってこの世に遣わされた御子イエスを信じた者は、救われて罪赦され、いつもどんな時も神が共にいてくださるということなのです。インマヌエルの主と共にこの世を生きる者は、本当に豊かな人生を生きることができる、真に幸いな人です。

 教会の地階の壁に「あしあと」という詩が貼ってあります。永田邦夫協力牧師が墨で書かれた書道の作品ですが、マーガレット・フィッシュバック・パワーズ(Margaret Fishback Powers)というアメリカ人女性の作ったこの詩は、実に感動的にインマヌエルの主、神はいつも信じる者とともにいてくださることをうたっています。訳する人によって多少言葉が違っていますが、意味内容はどれも同じです。お読みいたします。


『あしあと』
 ある晩、一人の人が夢を見ました。
 彼は主と共に、砂浜を歩いていました。
 暗い夜空に、彼の人生が蜃気楼のように映し出されました。
 そしてそこに二組の足跡があるのに気がつきました。
 一組は彼自身のもので、もう一組は主のものでした。
 これまでの人生の最後の光景が映し出された時、
 砂に残された足跡を見て、
 彼は所々に一組しか足跡が刻まれていないことに気付きました。
 しかもそれは彼の人生で最も辛く悲しい時でした。
 このことが彼には理解できず、彼は主に尋ねました。
「主よ、あなたは、私があなたに従って行くと決心した時から、
 いつも共に歩むとおっしゃいました。
 それなのに、私の人生において最も困難な時に、
 一組の足跡しかありません。
 何故あなたを一番必要とした時、私をお見捨てになったのですか。」
 主は答えられました。
「我が子よ、私はあなたを愛し、決して見捨てたりはしない。
 ましてやあなたの苦しみや試みの時に、
 足跡が一組しかなかったのは、
 私があなたを背負って歩いていたからなのだ。」


 この世の中が騒がしければ騒がしいほど、謹んで、心静かに、インマヌエルの神がともにおられるという確信を堅く持って歩んでいきたいと願っております。2024年のクリスマスが皆さまにとって意義深い時となりますよう、心から祈り願っております

(牧師 常廣澄子)

聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』©1987,1988共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による

FOOTPRINTS

One night I dreamed a dream.
I was walking along the beach with my Lord.
Across the dark sky flashed scenes from my life.
For each scene, I noticed two sets of footprints in the sand,
one belonging to me
and one to my Lord.

When the last scene of my life shot before me
I looked back at the footprints in the sand.
There was only one set of footprints.
I realized that this was at the lowest and saddest times in my life.

This always bothered me and I questioned the Lord about my dilemma.
“Lord, you told me when I decided to follow You,
You would walk and talk with me all the way.
But I’m aware that during the most troublesome times of my life there is only one set of footprints.
I just don’t understand why, when I needed You most,
You leave me.”

He whispered, “My precious child,
I love you and will never leave you
never, ever, during your trials and testings.
When you saw only one set of footprints
it was then that I carried you.”

copyright(C)1964 by Margaret Fishback Powers