2025年1月12日(主日)
主日礼拝『 成人祝福・誕生日祝福 』
ルカによる福音書 16章1~18節
牧師 永田 邦夫
2025年に入りまして、第二主日の礼拝です。引き続きルカによる福音書からのメッセージをご一緒にお聞きして参りましょう。
1節の冒頭は「イエスは、弟子たちにも次のように言われた。」と始まっています。この記述から、内容的には直前の15章から続いていることを表していますので、先にそれを確認しておきましょう。
15章の冒頭1節には、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。」とあり、これに対して、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を漏らしました。
この様に、本来は主イエスから遠くなりがちの徴税人や罪人が皆、主イエスのもとに話を聞こうと集まって来たこと自体、そこに御国の形成が始まっていることを表している喜ばしい出来事ですが、それをファリサイ派の人々等が批判するという、非常に残念なことになっています。
これに対して主イエスは、たとえを用いて諭された、この“たとえ集”が、15章1節から始まって、16章の第一段落まで、合計四つ続いています。
このことからも、御国の福音をファリサイ派の人々や律法学者たちにも何とかして伝えたい、そのような主イエスの強いご意思を伺い知ることが出来ます
因みに、15章の1節から始まっている三つの段落を、岩波版聖書では、「失われた羊の譬」、「失われた銀貨の譬」、「失われた息子の譬」と、いずれにも、“失われた〇〇〇”との小見出しがあり、いわば“失われたものシリーズ”となっています。
では、15章の三つの段落の意味を簡潔に確認してから16章に入りましょう。
最初の段落「見失った羊」のたとえは、百匹の羊を持っている人がいて、その中の一匹を見失った、とすれば、その一匹を見つけ出すまで、とことん捜し回り、それを見つけたなら、関係者一同が集まって、喜びを共に分かち合うでしょう。さらにその喜びが天にある、と言います。
このたとえの主役は羊ですが、主イエスは、ファリサイ派の人々や律法学者等に向かって、「あなたたちは、自分を他者と分離されたものとしてファリサイ派、とか律法の専門家、と自負しているでしょうが、人の命を、このたとえのように大切にしていますか」と問いかけているように感じます。
次は第二段落「無くした銀貨」のたとえについてです。ドラクメ銀貨(1ドラクメとは当時の労働者1日分の賃金相当と言われており、今日に換算すると1万円位とも理解できます)を十枚持っている人がいて、その中の1枚を無くしたとしたなら、前段同様に、家中を捜しまわり、それを見つけたなら、皆で喜びを共にするでしょうと言います。
第三段落「放蕩息子」のたとえです。これは皆さんが良くご存じの通り、ある父親に二人の息子があって、その弟息子が父親の元を離れ、放蕩に身を取り崩した末に、我に返り、父親のもとに帰って来る、という話です。
この、いなくなっていた弟息子が、父親のもとに帰って来たときの父親の喜びは、わたしたちには想像できないほど、大きな喜びとなっていたのです。
以上、三つのたとえに登場してくる、いわば主役の数を比較して見ますと、最初は、百匹の中の一匹の羊、次は銀貨10枚の中の1枚、そして三番目は、二人の息子の中の一人を失ったなら、と、それぞれ、失ったものの存在価値が段々、大きくなっていることにも気づかされます。
しかし、わたしたちにとっては、どんな人であっても、一人一人の存在は、他の誰にも代え難い、尊い存在です。いま現在の社会では、戦争で日々人の命が奪われ、また悲惨な事件や事故などで、人の命が奪われ、また軽視されている現状があります。
非常に残念で、心が痛みます。早く平和な社会が来て欲しい、と願うばかりです。
早速本日箇所16章に入りましょう。1節は「イエスは、弟子たちにも次のように言われた。」とあり、主イエスから弟子たちへのたとえによる諭が始まっています。
なおこの箇所は、“内容を理解することが難しい、あるいは、不適切な教えである”、という神学者もいる、とのことです。
しかし、わたしたちはそれぞれ信仰に基づいて神と向き合いながら、これらのたとえ話を理解していくことが大事であると思わされています。
因みに、本日の説教箇所である16章の小見出しは、新共同訳聖書では「不正な管理人」のたとえ、とありますが、岩波版聖書では「不義な管理人の譬」とあって、この両者に違いがみられます。「不義」とは神からご覧になって正しくない(神の義に反すること)という意味です。後者の「不義な管理人」の方が適切のように感じます。
ときにはこのような視点で聖書を読むことも必要かな、と思わされました。
では16章の内容に入っていきます。聖書構成は、前半の1~8節と後半の9節以降に分けることが出来ます。前半は、主イエスから弟子たちに話されたたとえ話の内容であり、後半の9節から13節は、前半に示されたたとえ話について、主イエスからの説明と、わたしたちも含めた弟子たちの生き方に対しての大きな諭となっています。
では1節から、
〇 ある金持ち(以降ここでは、この金持ちのことを、主人と呼ぶ)に管理人がいて、その管理人が主人の財産を無駄遣いしている、と告げ口する人がいた。
〇 そこで主人は、その管理人を呼んで、“お前について、聞いていることがあるが、どうなのか、会計報告を出しなさい。もうこれ以上お前に管理を任せておくわけにはいかない。”
〇 この様に命じられた管理人は、危機を察し、報告書を提出するまでの猶予期間を利用して、あれこれ帳簿の工作を行ったのです。
〇 その工作とは、主人に負債のある者一人一人を呼んで、その負債額を減額してあげる、というものでした。
以上の通り、工作することによって、負債者も返済すべき負担が減るし、またこの管理人にとっても、他人に恩を売ることによって、やがて自分が職を失ったときに、自分を迎えてくれる人ができるという、一石二鳥の効果が出てくるのです。
前述の“負債額減額の工作”について、詳細を省いて簡潔に記しますと、油百バトス(1バトスとは現在の23リットル相当ですので、百バトスとは、2,300リットルとなる)の借りがある人に対して、その証文(借入証書)を五十バトスと書き直させたのです。
このたとえの締めくくりが8節で「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」とあります。
なぜこの主人は、不正な管理人のやり方を褒めたのか。それは、この聖書箇所に記されているとおり、当時「光の子」と呼ばれていたキリスト者たちよりも、世の一般の人の方が賢く、そして世渡りが上手だった、ということです。
なおここで、キリスト者のことを「光の子」と言っていますが、1世紀頃、このように呼ばれていたそうです。
では、9節以降に入ります。9節には「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」とあります。しかし、ここに記されています、不正にまみれた富で友達を作りなさい、という命令は、わたしたちには簡単に受け入れがたい命令です。
因みに、岩波版の聖書でこの箇所は「あなたたちは自分のために、不義のマモンで友だちを作りなさい。それがなくなる時、彼らがあなたたちを永遠の幕屋に受け入れてくれるようになるためだ。」と記されています。この表記で、“不義のマモンで”という意味は、神の義にではなく、“この世的な富で”という意味です。また、マモンとはアラム語で富、という意味です。
この、岩波版聖書の言葉を参考にしながら、もう少し深く考えてみますと、わたしたちはキリスト者といえども、この世の暮らしでは、キリストと関係ない人たちの多くと一緒に生活しております。これらの人々と友情を深めながら暮らすには、その人々の考えや、先に示した、不義のマモンをも、時には受け入れながら、あるいは共有しながら、暮らしていかねばなりません。
さらに、そのような生活は、わたしたちが“永遠の幕屋に迎え入れられるときまで、すなわち、人生の最後まで続くかもしれません。そこには、わたしたちにとって忍耐が必要となります。
参考として、ラビ(ユダヤ教の教師)の人たちには「この世では金持ちが貧乏人を助け,来るべき世では貧乏人が金持ちを助ける。」という諺があるとのことです。
次は、10節、11節からです。この節に示されている聖句の意味は、①ごく小さなことに忠実な者は大きなことにも忠実である。その逆に、小事に不忠実な者は大事にも不忠実、という意味です。②“不正にまみれた富”(この世の富、あるいはマモン)にも忠実でなければ、だれが本当に価値あるものを任せるだろうか、という意味です。
この②の意味はやや飛躍的とも取れますが、聖書の流れでは、然りだと思います。
12節、その人にとっては、他人のものにも忠実でなければ、だれがその人に本当に価値あるものを任せるだろうかとあります。本当にその通りだ、と思わされます。
次は結びの13節です。“どんな召使も二人の主人に仕えることはできない。”召し使いとは、心身ともにその主人に仕えなければならない立場の人です。その通りだと思います。
13節後半「あなたがたは神と富とに仕えることはできない。」信仰者にとって、いや一般的に考えても、人は、最も大事で中心的なものを一つ決めなければならないことを、主なる神から教えられています。
それを大切にしながら、これからも共に生きて参りましょう。
(牧師 永田邦夫)
聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』©1987,1988共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による