タビタ、起きなさい

2025年1月19日(主日)
主日礼拝

使徒言行録 9章32~43節
牧師 常廣 澄子

 前回はキリスト教徒を迫害していたサウロが、復活のイエスに出会ってキリストを信じる者へと変えられたことを読みました。そしてその前には、フィリポやペトロたちがサマリアで伝道したことが書かれていました。今朝はまたそのペトロの話に戻ります。 フィリポやペトロたちだけでなく、聖霊を受けた弟子たちは、主イエスが説かれた救いの福音を携えてパレスチナの各地に伝道していきましたが、その働きはどんどん進展して地中海に面した海岸地方にも広がっていきました。そして北の方にあるカイザリヤや、さらにはアンテオケにまでも福音が伝道されていって各地に根を下ろしていったのです。

 8章にはフィリポやペトロたちがサマリアで伝道した様子が書かれていましたが、本日お読みした個所はその続きです。まず「9:32ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。」リダという所は、エルサレムから北西に40キロメートル程のところにある古い町で交通の要所です。そこから150キロメートル程行ったところに地中海に面したヤッファがあります。
 
 このリダにアイネアという人がいました。「9:33 そしてそこで、中風で八年前から床についていたアイネアという人に会った。」彼は中風患者で8年間も寝たきりだったようですから、きっとその生活は荒んで貧しかったに違いありません。この人を見たペトロは言いました。「9:34 ペトロが、『アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい』と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。」この寝たきりのアイネアに向かってペトロが言ったのです。イエス・キリストがあなたを癒してくださるのだから、起き上がりなさいと。ペトロの力ではありません。イエス・キリストの癒しがなされると信じたペトロの言葉です。聖霊がペトロに神の御心を語らせたのです。それを聞いたアイネアは即刻起き上がり癒されました。全面的に今も生きて働くキリストの力を信じた結果であり、キリスト信仰の証です。

 人は、長い間慢性の病気に罹っていると、その病気に慣れてしまって、病気が治ることをあきら
めてしまうことがあります。ペトロはアイネアに「起きなさい」という励ましの言葉をかけて、自分の力で起きようとする意欲を持たせてあげたのかもしれません。また長く病気をしている人は、家族や周囲の方々にいろんなお世話をしていただくわけですが、元気な人を見るとつい妬ましく思ったりして、次第に心がひがんでいくこともあります。考えることが自己中心になってしまうのです。さらには自分のことを自分でするという当然の努力をすっかり忘れてしまうことさえあります。ペトロがここで「自分で床を整えなさい」と言っているのは、大変意味深いことだと思います。自分で布団を敷いたり片付けたり、自分でできることをやりなさい、という励ましであり応援でしょう。たとえ身体が病気であっても、心の健康を保つことが身体の回復につながっていくことはよく言われることです。ペトロの言葉に触発されたからでしょうか、それとも見えない神の御手が添えられたからでしょうか、アイネアは起き上がりました。アイネアが癒されたことは、その地域の人たちに神の救いを信じさせました。「9:35 リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。」シャロンとは、リダに続く広い平野の名前です。

 ペトロが次に出会った人はヤッファにいる女性でクリスチャンでした。ここには「婦人の弟子」と書かれています。イエスに付き従っていた弟子たちは、12弟子以外にもたくさんいたでしょうが、女性の弟子もいたのです。当時は男性中心の社会ですから、女は人数にも数えられない無力な存在でしたが、イエスのそばには女性がいて大変良い働きをしていたのです。「9:36 ヤッファにタビタ――訳して言えばドルカス、すなわち「かもしか」――と呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた。 9:37 ところが、そのころ病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。」

 彼女はタビタというアラム語の名前がついていますが、ギリシア語のドルカスという名前で呼ばれていたようです。どちらも「かもしか」という意味です。かもしかは旧約聖書では、美しく優しく愛らしい者、素早く動く者として例えられる動物です。(雅歌2章9節17節、8章14節、サムエル記下2章18節等参照)きっと彼女はかもしかのように愛らしくて、きびきびと動く女性だったのでしょう。たくさんの善い行いや施しをしていました。
 
 しかしそのタビタが病気になって死んでしまったのです。人々は遺体を丁重に清めて階上の部屋に安置しました。神に少しでも近い所に、という思いもあったでしょうが、屋上は風通しが良いという理由もあったのでしょう。そして、リダにペトロが来ているということを知って、(ヤッファはリダに近かったのです)そこに二人の使いを送って「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼んだのです。この地方では普通、死んだ人は死後数時間、あるいは遅くても翌日には葬ったようですが、タビタの遺体は屋上に安置されてペトロが来るのを待っていました。人々はどういうつもりでペトロを招いたのでしょう。ペトロがリダに来ているということを知っている、ということは、アイネアが癒されたことも聞き及んでいたことでしょう。人々は何らかの奇跡を期待したのかもしれません。望みを捨てなかったのです。

「9:39 ペトロはそこをたって、その二人と一緒に出かけた。人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた。」

 ペトロがリダを立ってヤッファに到着すると、遺体が置かれている部屋に案内されました。すると、やもめたちが皆集まって来て、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を持ってきて見せてくれたのです。この「見せる」は、自ら見せるという意味があります。おそらく今自分たちが着ている服を指さしながら、これも、これも彼女が作ってくれたのです、と泣きながら語っているのでしょう。タビタは死んでここにはいませんが、彼女が作った上着や下着の数々がタビタの面影と共にそこにありました。死んでしまったタビタの人柄を偲んで人々の心はいっそう切ない思いになっています。残された人たちは本当に悲しんでいます。天国でまたお会いすることができることはわかっていても、愛する者との別れが悲しいのは自然な感情です。

 ここにはやもめたちが皆集まって来たと書かれています。やもめとは、当時の社会では大変肩身の狭い辛い境遇に追いやられていた女性たちです。タビタはきっと彼女たちを支えて慰め、安らぎや幸せをもたらしていたのでしょう。タビタがどうして病気になって死んでしまったのかわかりませんが、今タビタが死んでいないことは、その共同体に深い悲しみをもたらしたのです。

「9:40 ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、『タビタ、起きなさい』と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。 9:41 ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。」

 招かれたペトロは、「タビタ、起きなさい」とアラム語で呼びかけました。「タビタ、クム」です。この言葉は、きっとどこかで聞かれたことがあると思います。そうです。イエスが、死んでしまった会堂長ヤイロの娘を生き返らせる時に「タリタ、クム」と言われたのと、とてもよく似ています(マルコによる福音書5章40-42節参照)。ペトロが到着した時、皆を外に出したことも、手を貸して立たせたことも、生き返ったことを皆に見せたことも、イエスがヤイロの娘にした奇跡とそっくりです。

 ただ違うことは、ペトロが「ひざまずいて祈った」ことです。ペトロは祈ることで、タビタを生き返してくださる神のみ旨を知り、神の力を受けたのです。「 9:42 このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。」タビタの生き返りは、人々にはっきりと神の存在と力を見せつけました。先のアイネアの癒しの時もそうでした。「9:35 リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った。」神がその栄光の力を現したので、人々は神を信じたのです。

 ここには「主に立ち帰った」と書いてあります。リダの人たちもヤッファの人たちも、それまで、創り主なる神から離れていたのです。真の神を忘れて放蕩息子のような有様だったのです。そういう人たちが主イエスを信じたということは、イエスこそ創り主であり神であるということがわかったからです。アイネアの癒しも、タビタの生き返りも、復活の主イエスが全世界と全人類の創造主であり、まことの神であることを示す大事な「しるし」となったのです。

 イエスが地上におられた時になさった働きの中には、死人を生き返らせたことが三回あります。ナインのやもめの息子(ルカによる福音書7章参照)と、会堂長ヤイロの娘(マルコによる福音書5章参照)と、ベタニヤのラザロ(ヨハネによる福音書11章参照)です。それはイエスが神の子であるということの証しでした。生き返った彼らはその後どうなったでしょうか。私たちと同じように生きて、その後はやはり死んだのです。しかし地上で主を信じて生きた者は、死んだ後も主と共に生きています。生きている時も死んでからも、真の神、主イエスは信じる者と共におられるのです。その事実を知ることでもう死の恐れは解決されています。

 では、ここでタビタが生き返らされたのはどのような意味があるのでしょうか。それは彼女の死によって、悲しみ嘆いている多くの信徒ややもめたちがいたからです。彼女が死んでいなくなった共同体がとても大きな痛手を受けていると知ったからです。ですからペトロはタビタのために祈り、主の力によって生き返ったタビタを彼女たちに見せたのです。「9:41 そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。」タビタを亡くして途方に暮れていた人たちがペトロのところに縋り付いて来ましたが、ペトロを通して表された神のみ業は、それらの人たちがもう一度タビタのそばに近づけるようにしてくれたのです。

 実は、ここでのタビタの気持ちを代弁するかのように、パウロが語っている言葉があります。フィリピの信徒への手紙 1章21-25節です。「1:21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。 1:22 けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。 1:23 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。 1:24 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。 1:25 こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。」
 パウロは復活の主イエスに出会ってキリストを信じましたから、死に勝利されたお方の栄光の姿を良く知っています。パウロのこの言葉の中には、死に勝たれたイエスを信じることの喜びと平安があります。主イエスを信じる者は死を恐れません。生きていても死んでからも主は私たちに栄光を現されるのです。

 たとえ病める身体であっても、歳を重ねて思うように動かない身体であっても、あちこち老化していても、私たち一人ひとりには、主と共に生きるという人生が与えられています。私たちのそれぞれの人生を用いて、主が御自分の栄光を表されるのです。命が与えられている限り、私たちが生きているのは主のためであるという信仰を持って、喜びと感謝をもって生きていきたいと願っております。


(牧師 常廣澄子)

聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』©1987,1988共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による