キリストはすべての支配者

2025年1月26日(主日)
主日礼拝

コリントの信徒への手紙 一 15章20~34節
牧師 常廣 澄子

 およそ30歳頃になられたイエスが、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコによる福音書1章15節)と、神の国の訪れを携えて福音伝道に立ち上がられたように、復活の主から御霊を受けた弟子たちは、一つの確固たるメッセージを持って立ち上がりました。それは「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(使徒言行録2章36節)ということです。それはイエス・キリストの十字架と復活の福音でした。それを信じる信仰の力が、信じる者たちに驚くべき出来事を引き起こしました。先週、使徒言行録9章で読んだ、ペトロがリダとヤッファで行った素晴らしい出来事は、その一つです。

 私たちが信じているキリスト教は復活を信じる宗教です。しかし、二千年前、ギリシアのアテネでパウロが復活を語った時、人々は彼をあざ笑いました。また、本日の聖書箇所にありますように、コリントにおいても、復活について疑いを抱く人たちがいました。
 そこでパウロは語っているのです。前回お話したことですが、「もし復活を否定するというのならば、キリストの復活もなかったことになる。主の弟子たちは、神がキリストを甦らせたのだと証しして、自分たちを復活の証人だと語っている。しかしもし復活が事実でないとしたら、彼らは空しいことを述べ伝えていることになり、嘘偽りを語る偽証人である」(15章14-15節参照)と。
 さらにもう一つは信仰の問題です。キリストの復活が真実でないなら、キリストの十字架が、我々の罪の贖いのためであったという確証がどこにもないことになるのです。もし復活が事実でないなら、主を信じて永遠の眠りについた主の弟子たちは、皆哀れにも滅びたことになってしまいます。あの素晴らしい演説をしたステファノも、代々の聖徒たちも皆滅びてしまったことになります。復活を否定する人たちは、こうして救いの道を閉ざしてしまうことになると語っているのです(15章16-19節参照)。

 これに対して、キリストの復活が正しく信じられるならば、人間存在や宇宙万物に関して、限りない希望が確立します。すなわちその一つは人間の復活の希望であり、今一つは万物復興の希望です。このことについて、本日の御言葉がはっきり語っています。
 人間にとっての最大の謎、また大きな悲しみは死です。さらに死について考える時に、人間を真に恐れさせるものは罪ということです。これはアダムに属する人間にとっては避けられない運命です。その人間世界に、キリストは第二のアダムとして降って来てくださいました。そして、そのキリストが復活したことによって、死を滅ぼして人間に永遠の命の恵みを与えてくださったのです。
 このようにして、復活の信仰は単なる教理の問題ではなく、人間生活において大変身近な問題であることがわかります。私たちが信じている信仰は、十字架に架けられて死んだキリストが、天と地の主として今も生きておられ、世界と歴史の支配者として今も働いておられること、また、やがて来る終わりの日には、完全なる救いを成就されることを信じる信仰なのです。
 この15章はキリストの復活が主題となっています。それは、コリント教会の中に、復活について疑いを抱く人がいたことと関係します。またパウロが12節からずっと死者の復活について語っていることを考えると、彼らはキリストの復活を否定するのではなく、死人が復活すること自体に疑問を抱いていたようです。つまり、キリストが復活したことは信じ得ても、普通の人間が死人の中からよみがえるということは信じられなかったのでしょう。とりわけ、当時はキリスト信徒への迫害の手が伸びて、終末が近いとうわさされていた時代でしたから、既に眠りについた者たちの運命についていろいろなことが取りざたされていたのだと思います。
 そこでパウロは、キリストの復活は信じることができても、死人の復活や、さらに言うなら、自分たちが復活することなど、信じることができないと思っている人たちに、死人のよみがえりには疑問の余地がないことを真正面から語っているのです。復活のイエスに出会って回心したパウロにとっては、キリストの復活は神の救いの業の核心であり、動かし得ない信仰の根拠でした。ですから心からの確信を持って、キリストの復活に基づいて死人の復活を語っているのです。

「15:20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」ここでパウロは、キリストは「眠りについた人たちの初穂となられた」と語っています。つまりキリストの復活は、死んだ人間が復活することに先立つ出来事だったのだと語っているのです。パウロはこのことをさらに詳しく語ります。「15:21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。15:22 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」パウロは、初めの人間アダムと第二の人間としてキリストを取り上げています。アダムが犯した罪によって彼の子孫であるすべての人間が死ぬようになったという論理は、ローマの信徒への手紙5章に展開されていますが、それと同じように、キリストによってすべての人は生かされるのだという論理です。つまりキリストによって死人の復活がもたらされたのだということです。ここの動詞は未来形受動態で「キリストによってすべての人が生かされるであろう」という意味です。キリストは既によみがえられ、天におられますが、そのキリストが再び来られる時、既に眠りについた死者が復活するのだと語っているのです。

「15:23 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、15:24 次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。15:25 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。」世界の出来事が、神が定められた計画に従って動いていき、新しい時が到来して、神の支配が確立していくように、ここではキリストを頂点とする復活の秩序があります。まずキリストの復活があり、それからキリストの再臨があるのです。そしてキリストが再び来られた時に、キリストにあって死んだ人たちが復活し、その時点で地上に生きていたキリスト者たちは死を見ないで朽ちない栄光の体に変えられます。それが救いが完成する時です。ただ感謝すべきことは、キリストを信じる者はキリストに属する者ですから、今のこの時も復活のキリストから離れて存在しているのではありません。信仰的には私たちはいつもインマヌエルの主と共にいるのです。
 ここでパウロは、キリストの復活によって、現在既にその支配がはじまっていることを語っています。そして24節にあるように、世の終わりが来た時には、キリストが一切の権威や権力を滅ぼして、この世を神の手に渡されることを確信しています。キリストが来られて、すべてのこの世の支配、権威、勢力を滅ぼされる時が来るという希望は、今の私たちにとってもそうですが、当時信仰の戦いの中にあるキリスト者にとっては、大きな励ましだったことでしょう。

 キリストの救いを知らなかったら、私たちは本来このような希望を持ち得ない存在でした。絶えず目の前の問題に右往左往し、生きていく不安があり、死を恐れ、死による喪失感や絶望感を持っていました。死んだ後どうなるかわからないのなら、今やりたいことやしたいことだけをやろうという刹那的な現実を生きていたかもしれません。そういう私たちが、キリストが再び来られる時まで、主を信じて祈りながら生きる者となったのです。福音の豊かな力を心から感謝いたします。

 さてこのように、神はキリストが復活されてから再臨される時まで、キリストに一切の御国の支配権を委ねられました。神に敵対する勢力はたくさんありますが、最後の敵として滅ぼされるのは死です。死は人間にとって最大で最後の敵です。死がいかに恐るべき存在であるかがわかります。しかしその死が永遠に滅ぼされる時が来るのです。「15:26 最後の敵として、死が滅ぼされます。 15:27 『神は、すべてをその足の下に服従させた』からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。」

 27節に、詩編8編7節の御言葉「神はすべてをその足の下に服従させた」が引用されていますが、ここからは神のみ業が語られています。神はすべてを御心のままに支配され、万物は父なる神に従うのです。そして28節「すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。」このように悪の勢力がことごとく滅ぼされ、世界が神による新しい秩序に服する時、神の御心は人間をはじめ天地万物に対してあますところなく行われるのです。終末においては、神が万物を支配される業は、直接、全てのものに及ぶことを、パウロは確信をもって語っています。

「15:29 そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。」大変不思議な行為ですが、このコリント教会には「死者のために洗礼を受ける人たち」がいたことが記されています。これは当時マルキオン派やモンタヌス派の人たちの間で行われていたそうです。後になってこういうグループが無くなっていくとともにこの行為も消滅していったようですが、当時のコリント教会ではこれが行われていたようです。

「死者のための洗礼」は二通りの解釈がなされています。一つは、ある人がキリストの救いの恵みを信じて洗礼を受けた時、この恵みを知らずに死んでいった家族の者にも自分と同じようにこの儀式に与らせることはできないだろうかという願いが起こり、このような願望が制度化されて、死者のための代理の洗礼が行われた、と考えることです。もう一つは、信者がいてその人が死んだ場合、彼の生前の美しい生き方や考え方が遺族や近親者を動かして、信仰に導いた場合です。あるいはこの信者がこれらの近親者のために祈り続けていたが、祈られていた人たちは彼が生きている間に受洗して彼を喜ばせることができなかった。しかし彼の死を契機に決心して洗礼を受けるということもあります。愛する者と同じところに行きたいという切なる望みがあるからです。もし復活がないとするならば、こうした行為も無意味になるではないかと、パウロは語っているのです。

「15:30 また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。15:31 兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。」パウロは伝道生活において、身に迫る数々の危険の中でいつも死を覚悟していました。コリントの信徒への手紙二11章には、どれほど多くの死に瀕する危険にさらされたかが語られています。しかしパウロが死に直面しながらも、その苦しみの中で福音宣教のために働けたのは、復活の希望があったからだと語っているのです。

「15:32 単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります。」
 当時犯罪人や奴隷を闘技場で猛獣と闘わせて観客を喜ばせる見世物がありました。しかしパウロはローマ市民権を持っていましたからそのような扱いを受けたとは思えません。これはたぶん獣のような暴徒と戦ったということでしょう。パウロは何度も死の危険にさらされたのです。しかしそのような中で耐えることができたのは、復活の信仰を持っていたからだと言うのです。

「15:33 思い違いをしてはいけない。『悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする』のです。 15:34 正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです。」コリント教会には、死者の復活はないと言いふらし、今が楽しければ良いではないかと不道徳な生活をしている人たちがいたようです。パウロはそこで、「正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない」と戒めているのです。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」というのは、聖書からの引用ではなく、当時の一般的なことわざだと思われます。復活を否定するのは、神について何も知らない証拠であると言って、彼らを恥じ入らせ、反省して正しい信仰に立ち返るようにと勧めているのです。
 復活についての話は理屈ではありません。パウロはコリント教会で起きている出来事を通して、いろいろ語っていますが、何よりもキリストが復活されたのは私たちの罪の救いが完成されたことであったことを心から感謝したいと思います。

(牧師 常廣澄子)

聖書の引用は、『 聖書 新共同訳 』©1987,1988共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による