富に関する教え

2025年2月2日(主日)
主日礼拝『 主の晩餐 』

ルカによる福音書 16章19~31節
牧師 永田 邦夫

 2025年が明けて早1か月が過ぎ、2月となりました。
 引き続いて、ルカによる福音書からのメッセージをご一緒に聞いて参りましょう。
先にお読みいただいた本日の説教箇所は、ルカによる福音書の独自記事です。またこの16章は、直前の15章とも関連している個所ですので、その15章から関連性を確認してから、本日箇所に進みましょう。

 15章1節~2節の内容は、徴税人や罪人たちが皆、主イエスの話を聞こうと近寄って来た。するとそのとき、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている」と不平を言いだしたことに対しての、主イエスから彼らへの教え諭しの言葉でした。
それが、「見失った羊」「無くした銀貨」そして「放蕩息子」など三つのたとえです。
この中でも、放蕩息子のたとえは、皆さんにも良く知られているたとえであり、ルカによる福音書の独自記事でもあります。  

 16章に入りますと、今度は弟子たちへの、たとえによる諭しとなっています。それが「不正な管理人」のたとえ(16章1節~13節)です。因みにこの箇所は前回の説教箇所でもありました。 念のため、この箇所の概要を確認しておきますと、ある金持ちに雇われていた管理人がいて、その管理人が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする人がいた。そこで主人は、当の管理人を呼んで、事実か否かを問いただしたのです。

 危機感を感じた管理人が行った対応策とは次の通りです。主人に対しての負債者を呼び出して、負債額が記されている帳簿の改ざん(負債の減額)を行うことにより、負債者はその負担が軽減されることと、さらに、その人に恩を売ることによって、自分(管理人)も解雇された時の、身を寄せる場所ともなるという、一石二鳥をねらったのです。要するに悪知恵を働かせて、その解決にあたるというものでした。

 しかしその後のこと、事もあろうにその主人は、管理人の悪知恵を働かせた、抜け目のないやり方を褒めて、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」(16章8節b~9節)との主人の言葉は、弟子たちへの教えでした。
 その教えの続きの10節を見ておきましょう。「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」
 なおこの箇所での主人の教えは、「光の子ら」(キリストに従う者)と「この世の子ら」(一般の人)と比較して、この世の子らの方が賢く振舞っている、と褒めているのも皮肉なことです。
 その後に続く、ファリサイ派の人々への教え諭しが、本日箇所直前の16章14節から18節にあります。
 14節にある「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。」を受け、今度は、ファリサイ派の人々への主イエスからの教え諭しの言葉が15節です。「そこで、イエスは言われた。『あなたたちは人に自分の正しさ見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。』」とあります。
 要するに、この世での世渡りの上手な人と、神がご覧になっての誠実な人とは違う、ということを伝えているのです。
 ここでは本当に厳粛な教えが示されています。大きな拍手をもって、これを受け入れたいと思わされます。

 この主イエスからファリサイ派の人々への諭しの言葉は、「自分は正しい者、人からは分離された者(ファリサイ派の語源となっている)と自負している彼らにとっては、心にグサリと突き刺さる言葉だったことでしょう。
 
 今日の社会では、人の心を、そして人の命までもないがしろにする事件や、また政治的な出来事、発言をよく聞きます。それは非常に残念であり、また悲しいことでもあります。
 
 では本日箇所の16章19節以降に入ります。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」と始まっています。(ここで“金持ち”に使われている言葉はラテン語で「富める者」を意味しています)。また、「紫の衣」や「柔らかい麻布」は、当時の大祭司の着物を意味している、と言われています。ここに登場する金持ちは、いつも贅沢三昧の生活を送っていたことが、この箇所から読み取れます。
 
 続いて、その金持ちの家の門前にいたラザロが登場します。因みに聖書に記された主イエスのたとえ話の中で、個人の名前が出てくるのは、このたとえの中のラザロだけで、ラザロとは、ヘブライ語で「エレアザル」の短縮形であり、その意味は「神は助ける」です。

 聖書に戻りまして、ラザロの生前の様子は、20節、21節に次のように記されています。
「この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。」と。
 ここまで見ましても、とても「神は助ける」の名前をもらっている人とは思えない状況です。しかし、神が御心を注ぎ、助け給うのは、この後です。

 22節に「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。」とあります。この箇所での注目は、地上の生活で貧しかったラザロは、御国の宴席にいるアブラハムのもとに導かれたのに対して、金持ちの方は、ごく普通に、「死んで葬られた」とあり、この両者の間にある大きな格差を感じます。正に“天と地の違い”です。ラザロの名前の由来の通り、神が助けてくださったのです。わたしたちもほっとさせられます。
 
 ここで、わたしたちは、聖書に記されています先の言葉に従って、わたしたちの事として考えてみることにしましょう。わたしたちは、いまこの現世に生きていますが、やがてこの世の生活を終えて、御国へと召される希望を持ちながら日々を送っています。その御国の様子は、いまヨハネによる黙示録を通して、常廣牧師が説教してくださっています。毎回楽しみにしながら聞かせていただいており感謝です。

 次は23節から26節に入ります。
 23節「そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。」とあります。
 金持ちとラザロの二人について、地上での生活と死後の生活を比べて見ますと、地上で貧しかったラザロは、金持ちの門前に横たわりながら、貧しく痛ましい生活を送ってきました。しかし、死後の世界では、逆に金持ちの方がさいなまれながら生きており、目を上げると、宴席でアブラハムのすぐそばにいるラザロが見えたのです。陰府においての金持ちとラザロの生活は、地上とは正に大逆転していることが分かります。

 次の24節、これは地上では金持ちだった人の叫びの言葉です。「そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』」とあります。
 さらに気づかされることは、この期に及んでも、かつて金持ちだった人が、自分の意のままにラザロを使おうとしている様子を伺うことが出来ます。「人を顎で使う」という嫌な言葉がありますが、正にそんな感じです。

 以上の出来事を聖書から読み取ると、わたしなども子供の頃、親からよく聞かされた“天国と地獄のはなし”を思い出します。

 金持ちの懇願に対して、アブラハムは答えます。それが次の25節、26節です。「しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちとの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』」とあります。

 さらにまた、もだえ苦しみながら金持ちがいる陰府と、彼が目を上げたときに見えた、宴席のアブラハムとそこに同席しているラザロ、その両者の場所は、お互いに近い様でも行き来出来ない、そして越すに越せない淵がその間にあるということです。

 神はすべての人をお造りになったときから、全ての人に心を留めてくださり、全ての人が幸せに、かつ健やかに、そして楽しく過ごせるように望んでいてくださると信じます。しかし、本日の聖書個所に出てきましたように、この世でのそれぞれの人の生き様は、決してそうではありません。このことをわたしたちは厳粛に受け止めながら、どのような状況においても、造り主なる神を信じ、かつ神に従いながら生きて行きたいと願うばかりです。また、世の人すべてがそのように生きて行って欲しいと願っています。
しかし現実は違います。人は皆自分の思いを中心に生きています。

 なお、以上の話の中に出て来る、父祖と言われるアブラハムと金持ちの両者は、お互いに「父よ」そして「子よ」と呼び合っていることも印象的です。これこそ正に、“聖書ならではの言葉である”とも思わされています。

 以上を受けて、次の27節以降の新しい段落へと進みます。
 27節28節は、金持ちからアブラハムへの依頼の言葉です。「金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』」とあります。

 かつては金持ちだった人が、今はさいなまれながら陰府にいて、宴席にいるアブラハムや、すぐそばにいるラザロを見上げながら、種々考えさせられ、かつ心も変わっていったことでしょう。 
 そのことを、23節から28節の記述を読みながら知らされました。

 以上を受けて、アブラハムの答えが次の29節に「しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』」とあります。ここでの「モーセと預言者」とは、聖書(旧約聖書)を表しています。
 このルカによる福音書が編纂された時、もう律法の書は世に出ていました。この箇所からは、かなり現実的な教えをわたしたちは読み取ることが出来ます。

 以上、本日の聖書個所から、わたしたちがやがて御国へ招かれるまで、この地上で生きていく生き方を示された思いがします。本当に感謝いたします。

(牧師 永田邦夫)


聖書の引用は、『聖書 新共同訳』©1987,1988共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会による